- 近畿の景気判断「回復」据え置き 日銀大阪支店 2015年8月12日 近畿の景気判断「回復」据え置き 日銀大阪支店 日銀大阪支店は8月10日発表した金融経済概況で、近畿2府4県の景気を「回復している」とし、前回(7月)の判断を据え置いた。企業の設備投資や公共投資が増加し、輸出も増加傾向が続いているため。 項目別では、高速道路や耐震関連の工事の増加などを背景に、公共投資の判断を「高水準で横ばい圏内の動きとなっている」から、「増加している」に上方修正した。住宅投資は、消費税増税による減少傾向が続いていたが、分譲マンションの需要などに持ち直しの動きがあり、「全体として弱めの動きとなっている」から「下げ止まっている」に引き上げた。
- 訪日外国人の観光需要への対応強化 近畿運輸局長 2015年8月11日 訪日外国人の観光需要への対応強化 近畿運輸局長 近畿運輸局の天谷直昭局長(56)が8月10日、大阪市で就任記者会見を開き、「関西経済の活性化に観光が果たす役割は大きい。訪日外国人の観光需要を一過性に終わらせないよう、取り組みを強化したい」と述べ、関西での新たな観光地の発掘や広域観光ルートの開拓に意欲を示した。 関西財界が要望するリニア中央新幹線の東京~大阪間同時開業については「JR東海が自己資金で(事業)を行っているので、それを尊重した中でどういう支援ができるかだ」とし、踏み込んだ発言はなかった。
- 「日本ワイン」ブドウ生産増やす 関西のワイナリー 2015年8月10日 「日本ワイン」ブドウ生産増やす 関西のワイナリー 関西のワイナリー各社が原料にするブドウの栽培面積を拡大したり、醸造施設を拡張したりして生産量を増やしている。国産ブドウを原料にして、国内でつくる「日本ワイン」を取り扱う飲食店や小売店が多くなっているためだ。 カタシモワインフード(大阪府柏原市)は、この2年間で自社のブドウ畑を1.5倍の3㌶に拡大。醸造用タンクも12本増やして54本にした。仲村わいん工房(大阪府羽曳野市)もブドウ畑を増やしている。今後も休耕地を借りるなどして栽培面積を増やす方針だ。羽曳野市では飛鳥ワインもブドウ畑を広げている。外食チェーンや全国のレストランから注文が増えており、つくれば売れる状況という。 大阪府でつくられるワインの生産量は国産ワイン全体の3%ほどに過ぎないが、昭和初期にはブドウの栽培面積が全国の都道府県でトップクラスだった時期がある。
- ここだけの土産、食事が人気 新大阪エキマルシェ 2015年8月9日 ここだけの土産、食事が人気 新大阪エキマルシェ 3月4日オープンしたJR新大阪駅構内の商業施設「エキマルシェ新大阪」が予想を上回る賑わいを見せている。7月末までの土産物などの売上高は当初計画比2割増と好調で、訪日外国人も含む旅行客が増える夏休み期間中は3割増とさらなる上振れが見込まれている。 エキマルシェ新大阪は同駅の大規模リニューアルの一環として整備され、店舗面積を従来の1.5倍に拡大。地元企業のアンテナショップなどが出店し、ここでしか買えない関西土産や食事が楽しめるのが特徴。関西で80年以上前から販売されている銘菓「うぐいすボール」などが人気を集めている。
- 消費増税の「影響残っている」86% 府内中小企業 2015年8月9日 消費増税の「影響残っている」86% 府内中小企業 大阪シティ信用金庫がまとめた大阪府内の中小企業の景気実感調査によると、2014年4月の消費税率引き上げの景気や経営への悪影響について「残っている」と答えた企業の割合は86.7%に上った。「ほとんどない」は13.3%にとどまった。 景気の実感については「回復している」は33.0%で、「足踏み状態」が51.1%に上った。調査は7月上旬に行われ、取引先約1400社が回答した。
- 花紀京さん死去 吉本新喜劇 ボケ役で人気 2015年8月8日 花紀京さん死去 吉本新喜劇 ボケ役で人気 吉本新喜劇のボケ役で人気を集めたタレントの花紀京(はなき・きょう、本名・石田京三=いしだ・きょうぞう)さんが8月5日夜、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。78歳だった。葬儀は近親者のみで営む。 花菱アチャコとのコンビで昭和漫才の全盛期を築いた横山エンタツの次男。関西大学文学部仏文科中退後に芸能界入り。脚本家の花登こばこが大村崑さん、芦屋雁之助さん、芦屋小雁さんらと結成した劇団「笑いの王国」に参加、「花紀京」という芸名は花登が付けた。脱退後、吉本新喜劇で座長を務めた。 とりわけ一升瓶を片手に、ニット帽を被り、地下足袋を履いた土木作業員姿で絶妙のボケを魅せた。ひょうひょうとした、人情味あふれる演技で観客を引き付けた。
- 14年度近畿の国税3年連続増 7年ぶり8兆円台 2015年8月8日 14年度近畿の国税3年連続増 7年ぶり8兆円台 大阪国税局は8月6日、近畿2府4県で2014年度に収められた国税総額が8兆2885億円となり、3年連続で増加したと発表した。景気回復に伴う企業業績の改善と消費増税の影響で、前年度から11.7%増え、リーマン・ショック前の07年度以来、7年ぶりに8兆円台を回復した。 税目別では消費税が2兆6328億円で42.5%の大幅増となったほか、源泉所得税の2兆1820億円(4.9%増)、法人税1兆7207億円(0.7%増)などで前年を上回った。
- 「大阪会議」2回目の会合を8/13に招集 2015年8月8日 「大阪会議」2回目の会合を8/13に招集 大阪府と大阪、堺両政令市の首長と議員計30人でつくる「大阪戦略調整会議」(大阪会議)の今井豊会長(大阪維新の会府議)は8月6日、2回目の会合を13日に開くと委員に通知を出した。ただ、自民や公明などの出席対応次第では定足数を満たせず、会合を開けない可能性もある。
- 訪日客受け入れへ空き部屋活用 府が条例再提案 2015年8月7日 訪日客受け入れへ空き部屋活用 府が条例再提案 大阪府は8月4日、マンションなどの空室を宿泊施設に利用できるようにする全国初の条例案を9月定例議会に再提案することを決めた。ク牛に宿泊利用は旅館業法で禁じているが、外国人観光客の増加を受け、特定地域規制を緩和する国家戦略特区の特例を使う。条例は昨秋の議会で否決されたため、治安対策など新たな提案を盛り込んだ。
- 7月近畿景況感4カ月ぶり改善 民間調べ 2015年8月7日 7月近畿景況感4カ月ぶり改善 民間調べ 帝国データバンク大阪支社が8月5日発表した近畿2府4県の7月の景気動向指数(DI、「良い」から「悪い」を差し引いた値)は、前月から0.6㌽改善して43.2だった。4カ月ぶりに前月を上回ったが、全国(45.4)との格差は0.1㌽拡大した。設備投資の伸びや原油安といった要素が景況感の改善に寄与した。 業種別では原油安の恩恵を受けた運輸・倉庫(42.7)や、マンション販売が好調な不動産(47.7)がともに前月から2.7㌽改善した。
- 関西の設備投資 15年度は15%増の1.3兆円 2015年8月6日 関西の設備投資 15年度は15%増の1.3兆円 日本政策投資銀行関西支店は8月4日、関西で2015年度に計画されている設備投資件数が前年度比9.5%増の2092件、投資額は15.0%増の1兆3509億円となったとする調査結果を発表した。 製造業で研究開発拠点新設の動きが広がっているほか、訪日外国人旅行客の増加で宿泊施設への投資が増えている。製造業の投資額は39.7%増の5020億円、非製造業は4.1%増の8489億円。
- 米テスラ 関西初のEV直営店「テスラ心斎橋」公開 2015年8月6日 米テスラ 関西初のEV直営店「テスラ心斎橋」公開 米電気自動車(EV)メーカーのテスラ・モーターズは8月4日、大阪市中央区に5日に開店する関西初の直営販売店「テスラ心斎橋」を報道陣に公開した。これまで仮店舗などで販売していたが、直営により顧客の獲得を進める。国内主要都市に店舗網を広げる方針も示した。 国内の直営店は東京に次ぐ2店目。店内では、セダンタイプの「モデルS」と、四輪駆動の「モデルSデュアル」を展示、試乗もできる。2016年に発売するとみられるスポーツタイプ多目的車(SUV)「モデルX」も展示する予定という。
- 11/19開業のエキスポシティで45年前の賑わいを 2015年8月6日 11/19開業のエキスポシティで45年前の賑わいを 三井不動産は8月3日、万博記念公園(大阪府吹田市)の遊園地・エキスポランドの跡地に建設中の大型複合施設「EXPOCITY(エキスポシティ)」を11月19日に開業すると発表。菰田正信社長は「エキスポシティを日本を代表する新たな観光資源とし、45年前の万博の熱気と賑わいを呼び覚ましたい」と語った。 エキスポシティは甲子園球場約5個分(約17万2000平方㍍)の敷地面積にショッピングモール「ららぽーと」、子供向け体験施設「ポケモンEXPOジム」、水族館「海遊館」がプロデュースする新型ミュージアム「NIFREL(ニフレル)」など8つのエンタテインメント施設を展開。日本最大級のレジャー施設として、30~40代のファミリー層や、訪日外国人客を集め、年間1700万人の来場者を見込んでいる。2016年春には現在高さ日本一の東京・葛西臨海公園の観覧車(117㍍)を上回る120㍍級の巨大観覧車がお目見えする予定。
- 「咲洲庁舎撤退を」自民府議団が知事に提言 2015年8月5日 「咲洲庁舎撤退を」自民府議団が知事に提言 自民党府議団は8月3日、松井一郎知事と歓談し、大阪府が湾岸部の咲洲庁舎(大阪市住之江区、旧WTCビル)の売却を検討している問題に絡み、「咲洲からの即時全面撤退」などを提言した。自民は「二重行政を否定する知事が、なぜ庁舎を二つ持ち続けるのか」と批判、咲洲の即時全面撤退と本庁舎への機能集約化を求めた。これに対し、松井知事は「ベイエリアのにぎわいをつくる司令塔として咲洲庁舎は必要だ」と反論した。
- 7月大阪の百貨店軒並み増収 訪日客需要堅調 2015年8月5日 7月大阪の百貨店軒並み増収 訪日客需要堅調 大阪市内の主要百貨店は8月3日、7月の売上高(速報値)を発表した。夏のセールの開始を6月から7月に遅らせる動きがあったほか、訪日外国人による買い物の増加が寄与し、各店で前年同月を上回った。 阪急百貨店梅田本店(大阪市北区)はセール品を含む夏物の婦人衣料品などが好調で、前年同月比14.1%増。訪日客の来店も引き続き順調で、免税売上高は約5倍に上った。大丸心斎橋店(同中央区)も衣料品や化粧品が好調で16.4%増。大丸梅田店(同北区)は10.6%増だった。関西空港からのアクセスが良い高島屋大阪店(同中央区)は13.7%増。「あべのハルカス」に入居する近鉄百貨店本店(同阿倍野区)は約3%増と3カ月ぶりにに前年同月を上回った。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。