大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 米カジノ運営会社が日本型IR計画を説明 地元企業と連携 2018年2月7日 米カジノ運営会社が日本型IR計画を説明 地元企業と連携 米国・ラスベガスに本社を置く、カジノを含むIR・統合型リゾート施設の運営会社「MGMリゾーツ・インターナショナル」のジェームス・ムーレン会長兼CEOが2月6日、大阪市内で記者会見した。 この中でムーレン会長は「大阪は国内外からのアクセスが良く、大阪の経済規模を考えると大規模なIRを実現できる」と述べ、「地元の企業と連携して、日本文化と調和したIRをつくりたい。豊かな食文化や大阪人の親しみやすい人柄を反映したものにしたい」とし、日本型のIRを目指す計画を明らかにした。
  • 地下鉄「わろてんか」のラッピング電車を運行 2018年2月4日 地下鉄「わろてんか」のラッピング電車を運行 大阪市営地下鉄は、NHKの連続テレビ小説「わろてんか」の放送が終盤に入るのに合わせて、2月2日から堺筋線でラッピング電車の運行を始めた。運行を始めたのは沿線にドラマとゆかりのある場所が点在している堺筋線の「天下茶屋」と乗り入れしている阪急電車の京都線「高槻市」間と、同千里線「北千里」間。 8両編成の電車のうち1両の車体には、ヒロインの北村てんを演じる葵わかなさんはじめ、番組のオープニングに登場する動物や小物などがにぎやかに描かれている。このラッピング電車は番組が終了する3月末まで運行する予定。
  • 民営化地下鉄の新会社社長人事は2月中に決定 2018年2月3日 民営化地下鉄の新会社社長人事は2月中に決定 大阪市の吉村洋文市長は、4月に民営化する地下鉄の新会社の社長人事について、2月中に決めたいとの考え方を示した。吉村氏は新会社の社長人事ついて「鉄道会社出身の人以外で、役員クラスとして企業を率いた経験があり、人物的にも信頼できる人にやってもらいたい」と語った。 大阪市営地下鉄は4月1日に民営化され、「大阪市高速電気軌道株式会社」が運行することになっている。
  • 大阪市「総合区」住民説明会「現状維持」が最多 2018年2月1日 大阪市「総合区」住民説明会「現状維持」が最多 大阪市はこのほど、2017年11月から12月にかけて市内24区すべてで開いた「総合区」の住民説明会の報告書をまとめた。これによると、合わせて1900人余りが参加し、会場での発言や質問用紙など合わせておよそ1100件の意見が出された。 このうち最も多かったのは「現状のままではだめなのか?」と現状維持を求める意見で、150件に上った。次いで「総合区設置の必要性のメリット・デメリットを説明してほしい」が114件あったという。 大阪市は「大阪都構想」とともに、大阪市を残したうえで、今の24区を8区に再編し、区長の権限を拡充する総合区の導入を検討している。
  • 近畿の12月の有効求人倍率1.52倍の高水準維持 2018年1月31日 近畿の12月の有効求人倍率1.52倍の高水準維持 大阪労働局によると、2017年12月の近畿2府4県の有効求人倍率は平均1.52倍で、前月を0.01㌽上回り、引き続き高い水準を維持した。 2府4県で仕事を求めていた人は30万2776人で、企業からの求人は46万472人だった。この結果、有効利用倍率は1.52倍と、1974年6月と並ぶ43年ぶりの高い水準となった。 府県別では、大阪府が1.68倍、京都府が1.49倍、滋賀県が1.39倍、兵庫県と奈良県が1.36倍、和歌山県が1.29倍だった。
  • 近畿の17年の貿易収支7.4%増の1.9兆円 3年連続黒字 2018年1月30日 近畿の17年の貿易収支7.4%増の1.9兆円 3年連続黒字 大阪税関が発表した近畿2府4県の2017年の貿易概況(速報)によると、輸出から輸入を差し引いた貿易収支は前年比7.4%増の1兆9540億円で、3年連続の黒字となった。 輸出額は前年比11.8%増の16兆6091億円となり、2年ぶりに増えた。4Kテレビ用の液晶部品やスマートフォンに使われるメモリーなどを中心に、中国を含むアジア向けの輸出額が過去最高となったことが寄与した。 一方、輸入額は同12.5%増の14兆6552億円となり、3年ぶりに増加した。原油や天然ガスの価格が上昇したことがその主な要因。
  • インフルエンザ大流行 患者数過去最多の283万人 2018年1月29日 インフルエンザ大流行 患者数過去最多の283万人 厚生労働省によると、全国のインフルエンザの推計患者数は約283万人で、前週から112万人増え、現在の調査方法となった1999年以降で最多という。 年齢別では5~9歳が約59万人と最も多く、10代も約40万人に上っている。都道府県別の定点1医療機関あたりの患者数は鹿児島が最も多く86.53人。次いで宮崎84.97人、福岡83.99人、大分82.40人、佐賀69.64人と上位は九州勢が占めた。大阪は44.17人、東京は49.67人、愛知は62.12人。計44都府県で警報レベルの30人を超えた。 これに伴い休校や学年・学級閉鎖した保育所や幼稚園、小中高校は全国で7536施設に上り、前週の161施設から50倍近くに急増した。 流行しているウイルスはA型のH1N1とB型が同程度で、全体の8割程度を占めている。
  • 大阪で3/28 星野仙一さんしのぶお別れの会 2018年1月27日 大阪で3/28 星野仙一さんしのぶお別れの会 プロ野球の阪神球団は、今月亡くなった元監督の星野仙一さんをしのぶお別れの会を、シーズン開幕前の3月28日に大阪市内で開催すると発表した。 星野さんは中日、阪神、楽天で監督を務めた。阪神では長年チームに巣食っていた”ぬるま湯”体質を一掃、意識改革を断行。平成15年には長らく低迷していた阪神を18年ぶりにリーグ優勝に導くなど実績を挙げたが、1月4日、すい臓がんのため、70歳で亡くなった。 お別れの会は3月28日、大阪市北区の「ハービスホール」で開催する。なお、楽天も3月19日、東京でお別れの会を開く。 3月10日に甲子園球場で行われる阪神-中日のオープン戦は、両チームの監督を務めた星野さんの追悼試合として行われる。
  • 大阪・地下鉄の新会社 愛称は「Osaka Metro」 2018年1月26日 大阪・地下鉄の新会社 愛称は「Osaka Metro」 大阪市の吉村洋文市長は1月25日、市の100%出資で4月1日に民営化する市営地下鉄の新会社の愛称を「Osaka Metro」(オオサカ メトロ)にしたと発表した。 ロゴは青色の背景に白色で「Metro」の「M」を描いたデザイン。らせん所の字体で、走り続ける推進力を表現したとしている。
  • 25年万博誘致 フランスが正式に立候補取り下げ 2018年1月26日 25年万博誘致 フランスが正式に立候補取り下げ 大阪などが誘致を目指している2025年の国際博覧会(万博)について、フランスが正式に立候補を取り下げたことが明らかになった。 これを受け、、大阪府の松井知事は「これでヨーロッパでの誘致活動を遠慮する必要がなくなった。今後は経済界もヨーロッパの事業拠点を活用して、万博誘致を呼び掛けてほしい」と語った。 また1月25日は大阪市住之江区の大阪府咲洲庁舎で、関西の各府県の知事や政令指定都市の市長、それに経済界の代表らが集結、大阪への万博誘致について、意見交換会を開いた。
  • 伊藤美誠選手 17歳の最年少で卓球3冠達成 2018年1月23日 伊藤美誠選手 17歳の最年少で卓球3冠達成 卓球の日本一を決める全日本選手権で1月21日、大阪市の高校2年生、伊藤美誠選手(17)が女子シングルスで初優勝し、ミックスダブルス、女子ダブルスと合わせて、史上3人目となる3冠を達成した。 伊藤選手は女子シングルス準決勝で、全日本選手権で4回の優勝を誇る24歳の石川佳純選手を4対1で破り、決勝では昨年の優勝者で同じ17歳の平野美宇選手と対戦。ここでも多彩な攻めで寄せつけず4対1で退け、女子シングルスで初優勝を果たした。
  • 25年の万博誘致 大阪のライバル?仏首相が撤退意向 2018年1月22日 25年の万博誘致 大阪のライバル?仏首相が撤退意向 大阪とともに、2025年の国際博覧会(万博)誘致を目指してきたフランスのフィリップ首相が、撤退する意向を明らかにした。 来場者が見込み通りにいかない不確実性があると指摘。開催に伴う経済的な負担への懸念が理由。地元メディアは、同首相の談話として、誘致活動は続けない。立候補は取り下げになるだろう-と伝えている。
  • 大阪の17年の「梅毒」患者数847人で過去最多 2018年1月22日 大阪の17年の「梅毒」患者数847人で過去最多 大阪府によると、性感染症「梅毒」の府内の2017年の年間患者数が847人と、統計を取り始めた1999年以降で最も多くなった。 男女別の内訳は男性が515人、女性332人で、このうち女性は20代の患者が4年前の6人から2017年は197人と急増している。 「梅毒」は細菌による感染症で、性的な接触などによって感染し、発疹などの症状が出る。妊娠中の母親が感染すると、子供に重い障害が起きる怖れがある。
  • 大阪・ミナミの観覧車 観光客増え10年ぶり復活 2018年1月20日 大阪・ミナミの観覧車 観光客増え10年ぶり復活 大阪市中央区・道頓堀の、ビルの壁面に沿ってだ円形の軌道を回る全国でも珍しい観覧車が1月19日、9年7カ月ぶりに復活、人気となっている。 この観覧車は平成17年に運転を開始したが、3年後の平成20年レールにひびが見つかり、運転を取りやめていた。しかし近年、外国人観光客の急増などで地元から復活を望む声が高まり、運営するドン・キホーテがおよそ2億5000万円かけ修理、復活させた。 観覧車の運転は11時から23時までで、料金は1回600円。ゴンドラは最も高いところでは地上77㍍に達し、通天閣やあべのハルカスはじめ大阪の街を一望することができる。19日は早速、居合わせた多くの外国人観光客らでにぎわっていた。
  • 阪神・淡路大震災から23年 全国から公募の「伝」の文字も 2018年1月17日 阪神・淡路大震災から23年 全国から公募の「伝」の文字も 災害関連死も含め6434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災から23年。その1月17日、神戸市をはじめ大きな被害を受けた地域では、地震が発生した午前5時46分に合わせて遺族などが黙とうし犠牲者を悼んだ。 神戸市中央区の公園、東遊園地では竹の灯籠に明かりがともされ、およそ7000本の灯籠が用意され、例年通り「1.17」に加え、今年は全国からの公募で選ばれた「伝」の文字が形づくられた。あの日の出来事を決して風化させない、世代や場所を超えていつまでも伝え続けたいとの熱い思いが込められている。 ただ、23年の年月は様々なものを少しずつ変えつつある。23年が経ち、住まいを失った人のために整備された「復興住宅」では入居者およそ3万2000人のうち、65歳以上の高齢者が2017年11月時点で51.8%を占め、一段と高齢化が進んでいる。 また、高齢者の健康状態などを専門のスタッフが確認する「見守り活動」は、財源としていた兵庫県などの「復興基金」がまもなく底をつく見通しとなり、各自治体による支援がどのような形で継続できるのか、転換期を迎えている
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。