戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、「お市の方」もその一人といえる。
しかし、お市の方は、後の歴史に名を残す立派な姫君を産んでいる。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母なのだ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。
また、お市の方は二人の男の子を産んでいる。ただ、敗将・浅井長政との間の子だっただけに、不幸な運命をたどり、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。
お市は戦国時代の女性だが、生年は1547年(天文16年)(?)と定かではない。没年は1583年(天正11年)。市姫とも小谷の方とも称される。『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。父は織田信秀、信長の妹。
18歳で近江・小谷山城主、浅井長政に嫁ぎ、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚した。しかし、二度とも男の論理によって引き起こされた合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされた。
二度目の越前北ノ庄城落城の際、お市の方は遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。
さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。
戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。
ただ近年、お市の方の出自に?が付けられ、彼女は信長の実の妹ではなかったのではないかとの説が出されている。実は信長とお市は男女の関係にあり、信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた折の、様々な不自然な行動などが槍玉に挙げられている。その後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も、少し不自然な部分があるとか、確かな論拠には欠けるが、不可思議な点があるのだ。いずれにしても、お市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じたことは確かだ。
(参考資料)永井路子対談集「お市の方」(永井路子vs円地文子)、司馬遼太郎「巧名が辻」