大丸百貨店の始祖、下村彦右衛門は、京都伏見で生まれた。下村家はもともと摂津の国、山田村の郷士の出身だと伝えられているが、祖父の代には伏見の町で古着問屋を営んでいた。当初、曽祖父の住んでいた河内を記念して、“河内屋”を屋号としたが、祖父が京の五山の送り火、大文字に魅せられ“大文字屋”と改称した。祖父・久左衛門の三男・三郎兵衛が二代目を継いだが、これが彦右衛門の父だ。三郎兵衛の子供たちのうち、長男が早死にしてしまったので、次男の長右衛門が跡を継いだが、彼は優柔不断で怠け者だった。そのため家運は次第に傾いていった。元禄12年(1699)頃のことだ。
大文字屋は京都の色街の一つ、宮川町に質屋と貸衣装の店を出した。三男彦右衛門は父の言いつけで、この店を手伝った。彼は人並み外れて背が低かった。そのうえ頭ばかり大きくて、福助人形そっくりだと、人にからかわれたが、じっと我慢して、いつもニコニコと人に接した。19歳になった頃、彦右衛門は祖父の跡を継いで古着屋を引き受けた。毎日、大風呂敷に古着を包んで背に負うと、とことこと京都の市中まで運んで行って売るのだ。それは実入りが少ない割に、辛くて果てしのない労働だった。休みなく働き続けて23歳のとき、勧める人があって村上光と結婚して、一男をもうけたが、5年後に離婚している。
享保2年(1717)、苦労の末、伏見の一隅に小さな店を開いた。これがいわば大丸の誕生だった。そのとき、壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに、○の中に大と書き、これを商標とすることに決めた。○は宇宙を表し、大は一と人とを組み合わせたもので、それなら天下一の商人を意味することになると彦右衛門は解釈した。
彼は店の者を集めてよく教え諭した。“商人は諸国に交易して、西の産物を東に流通させ、北の商品を南に送って、生活の資を商い、それによって自分も応分の利を得て、その身を養うものである。だから決して自分の都合中心に考えてはいけない。必ず世間のためになり、人様の生活に役立つ品を商わなくてはならん。世のため人のためになってこそ、はじめて商いが発展するのである”
「現銀正札販売」、それが彦右衛門の商法の中心だった。享保11年(1726)、彼は大坂の心斎橋に共同出資の店を出し、2年後には名古屋店、続いてその翌年には京都柳馬場姉小路に仕入店を開設した。当時の商人は、「江戸店持京商人」といって、江戸に販売店を開いて、京都に本店あるいは仕入店を置くことを理想としていたからだ。これは人口100万人と世界一、二の人口を擁しながら、江戸はその半数が武士階級で、その他にも職人や商人が多く非生産者がほとんどを占めていた。そこで一大消費地江戸に販売店を開いて、当時最大の呉服の生産地京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていたのだ。
現金掛け値なしという正札販売は先輩の三井越後屋が最初に行ったものだが、
大丸屋の彦右衛門はいいことを見習うのに遠慮は要らないとばかり、大いにアイデアを模倣した。三井越後屋の貸し傘宣伝法もちゃっかり取り込んで“大丸マーク”入りの傘を雨の日に貸し出して、江戸の街々に大丸印の傘を氾濫させた。神社や寺院に手拭いを寄進して、手洗い場に吊るしてもらった。
店員には賭け事を一切禁じていたが、お客には福袋を売り出して、一等賞に振袖を賞品として進呈した。こうした才智と才覚による新商法は大いに当たって、大丸はやがて江戸でも評判の呉服商店の一つに加えられた。
大丸は繁栄に繁栄を重ねたが、創業者の下村彦右衛門はまだ56歳だというのに、早くも隠居を宣言した。50代から先は大丸屋の運営を支配人に託して、彦右衛門は半ば隠居の心境だった。茶の湯や謡曲を楽しみつつ、もっぱら家訓をつくって子孫への戒めとしようとした。
彼はたとえその人が目の前にいなくても、得意先を呼び捨てにするようなことを許さなかった。客に上下をつけるな、たとえ子供が買いにこようとも、大名がこようとも同じく客として扱うべし、目先だけの商いを決してするなと戒めた彦右衛門は、商いに誇りを持っていた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」