大浦慶(お慶)は、長崎で若くして大胆にも外国貿易商と組んで茶商となり、とくに対米輸出で大成功を収め、有数の茶商としての地位を築いた。その後、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、とりわけ坂本龍馬率いる亀山社中の面倒をみたといわれる。そんな充実した日々から一転、騙されて3000両(現在の貨幣価値にして3億円)もの借財を背負った後半生は、どんなにか悲惨なものだったに違いない。前半生と後半生、きれいに明暗を分けたドラマチックな人生の一端をみてみたい。
文政11年、シーボルト事件が発覚した年、お慶は長崎の町人で中国人相手の貿易商だった油屋、太平次の一人娘として生まれた。16歳のとき大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために翌年、幸次郎を婿養子に迎える。この幸次郎という人物、番頭だったとも、蘭学修行にきていた書生ともいわれるが、定かではない。そんな婿養子だったが、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日追い出してしまったという。
当時、日本は鎖国下にあり、禁を破れば死刑も免れない。しかし、嘉永6年、お慶は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もあるが、お慶自身も晩年、上海への密航の話を語っていたという。いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かだ。嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人テキストルに頼んで、嬉野茶の見本を英・米・アラビア3国に送ってもらった。お慶26歳のときのことだ。
3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、12万斤(72トン)ものお茶を注文した。お慶は嬉野だけでは賄いきれず、九州全土を走り回り、その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。このときにお慶が集めた茶はやっと1万斤だったが、それでも大成功を収めたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。
この時期、長崎には多くの志士が集まってきており、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの面倒をみた。彼女が一番世話したのが坂本龍馬率いる亀山社中(後の海援隊)の若者たちだったといわれる。このころがお慶の人生の絶頂期だったのかも知れない。
維新後、志士たちは長崎から姿を消し、お慶もめっきり寂しくなった。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちに包まれていた、そんなとき、熊本藩士遠山一也が現れる。遠山はお慶に巧みに取り入り、オルトとタバコの売買契約を結ぶ。そして手付金を受け取ると、彼は姿をくらましてしまったのだ。遠山は輸入反物の相場に失敗し借金返済のために、お慶を騙したのだ。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの3000両、いまでいえば3億円もの借財を被り、膨大な裁判費用まで払う破目になった。結局、お慶は明治17年、57歳で亡くなるまでにこの借財をすべてきれいに返済していたという。膨大な金額だけに、全く見事としかいいようがない。
若くして才気立っていろいろな仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲となった者たちからの見返りもなく、借財を払って終わった人生だった。だが、その起伏に富んだ、ドラマチックな生きざまは魅力にあふれている。
明治になって元米国大統領グラント将軍来日の際は、事業の失敗にもかかわらず、お慶は長崎県の名士の一人として、長崎県令とともに軍艦に招待されたという。
(参考資料)白石一郎「江戸人物伝 女丈夫大浦お慶の商才」