小林一三・・・鉄道事業経営とエンタテインメントをコラボ

 小林一三は阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者で、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。鉄道沿線の住宅地開発、百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら、鉄道事業のとの相乗効果を上げた。今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型をつくった人物の一人だ。また東京電燈会社の経営改革にも携わった。第二次近衛内閣で商工大臣、終戦後は幣原内閣で国務大臣をそれぞれ務めた。生没年は1873(明治6)~1957年(昭和32年)。

 1月3日に生まれたので、一三と名付けられたが、母きくのが同年8月22日に急死してしまったため、養子だった父は離縁。一三と姉の竹代は、両親を失って孤児となってしまった。とはいえ、祖父母や一族に育てられ、何不自由なく成長していった。彼の生家は山梨県巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)で、韮崎は甲州街道の宿駅で、甲州と信州のコメが集まり、豪商が軒を並べる土地柄だった。小林家は屋号を布屋といって、酒造と絹問屋を兼ね、豪商中の豪商として知られた家柄だった。
 祖父小平治は一三が2歳のとき、彼のために別家をつくって家督を継がせた。その翌年7月に三井銀行が開業し、2年後に西南戦争が起こっている。

 一三は15歳で慶応義塾を受験して、即日入学を決めた。彼が最も打ち込んだのが芝居見物で、麻布十番にあった3軒の芝居小屋で連日のように入り浸っていた。明治25年、慶応義塾を卒業し三井銀行に入った。本店秘書課勤務だったが、仕事の中身が不満で少しも気が乗らない。そこで、大阪支店行きを志願。明治26年、大阪に赴任。ただ高麗橋の大阪支店に勤務してからも、道頓堀の芝居小屋に通って、もっぱら上方情緒に浸っていた。

月給は13円だが、韮崎の小林家から毎月100円くらい送金があるので、生活はゆったりしたものだった。文人とつきあって小説を書いたり、芝居通いしているうちに、一三はすっかり大阪に根を下ろしてしまった。ただ、勤務の方は大阪支店から名古屋支店、大阪支店、東京支店と変わったが、希望に反することが多く不遇だった。また結婚したが、早々に離婚、再婚した。

そして、明治39年、33歳のとき一三は三井銀行を退職。箕面有馬電気軌道株式会社設立に参画、様々な、紆余曲折はあったが、一三が専務、北浜銀行の頭取・岩下清周が社長で箕面電車が誕生。一三は電鉄経営者への道を選んだ。彼は“もっとも有望な電車”というパンフレットを出して、当時としては珍しいPRに乗り出し、今ではどの電鉄会社もやっている住宅街の造成を行って、沿線の繁栄を図った。いずれも当時としては、先駆的な手法であり、事業戦略だった。池田に分譲住宅を造ったり、箕面に客寄せの動物園を開設するなど、一三の奮闘は続いた。

大阪から宝塚まで線路を延ばすには何か客寄せが必要というので、宝塚に新温泉をつくって、そこに温水プールを開設した。しかし当時の規則では、男女別々に分けるべしというので、想定したほど客が集まらず、そこで考えついたのが少女歌劇だった。当時、三越で少年音楽隊が出演して人気を得ていたことから、一三が思いついたもので、素人の少女を集めて、今でいうオペレッタを演じさせようというものだった。大正2年に始めたときは、女子唱歌隊と称していた。大正3年4月1日、500人収容の劇場ができ上がって、いよいよ処女公演を行った。この公演は2カ月間大入りを続けた。この成功で年4回の公演に踏み切った。

一三は北銀事件を機に、借金し自社株を買い取りオーナー経営者となった。大正7年、社名を阪神急行電鉄と変更、同9年に神戸線30.3・が開通した。47歳となった一三は、経営者としてようやく独創的な手腕を発揮するようになった。彼は5階建ての阪急ビルを建設。その2階に食堂を開設、これまで一流レストランでしか食べられなかった洋食を、30銭均一で食べさせた。とくにコーヒー付き30銭のライスカレーは大好評だった。また、1階を白木屋に貸して、日用雑貨の販売をさせた。この後、一三は阪急電車梅田駅に乗降客を吸引する新しいターミナル百貨店を誕生させた。

一三は既成概念に捉われず、従来の高料金興行とは違ったやり方による演劇や映画の経営を始めて、東宝王国をつくり上げた。その経営手腕を買われて、彼は東京電燈会社の経営改革にも起用された。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学」、小島直記「福沢山脈」