川上貞奴・・・明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓

 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、時の総理、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲からひいきにされ、名実ともに日本一の芸妓となった。自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した後、アメリカ興行に同行した彼女は、一座の女形が死亡したため、急遽、代役を務め、日本初の“女優”となった。欧米各地で公演を重ねるうち、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという。川上貞奴の生没年は1871(明治4)~1946年(昭和21年)。

 川上貞奴は東京・日本橋の質屋、越後屋の12番目の子供として生まれた。本名は川上貞(旧姓小山)。生家の没落により、7歳のとき葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となった。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがり、多くの名立たる元勲のひいきを受け、名実ともに日本一の芸妓といわれた。

 そんな貞奴が1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし、当初は苦労も多く、夫の音二郎が二度も衆議院選挙に落選したことで、資金難に陥った。貞奴にしてみれば明らかに想定外のことだったに違いない。

 日の当たる場所から身を引いた貞奴だったが、どういうめぐり合わせかスポットライトを浴びるときがくる。1899年、貞奴は川上音二郎一座のアメリカ興行に同行、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急遽この代役を務めることになったのだ。日本初の“女優”の誕生だ。ところが、ここで思いもかけない不幸が一座を襲う。公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀なくされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着。極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が観客に大うけしたのだ。何が幸いするか分からない。

 1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年パリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行った。7月4日の初日の公演には彫刻家のロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。

 8月には当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、着物風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソらは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。1911年、音二郎が病で死亡。遺志を継ぎ公演活動を続けたが、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。

 福澤諭吉の娘婿で、「電力王」の異名をとった福澤桃介(旧姓岩崎)との関係も話題を呼んだ。長い別離を挟み結ばれた二人は、仲睦まじく一生を添い遂げた。

(参考資料)小島直記「まかり通る」、小島直記「人材水脈」