豊臣政権下、豊臣秀長と千利休による両輪補佐の体制が、秀長の死に伴って崩壊した。そして利休も、まもなく切腹に追い込まれる。当然、秀吉は将来の政権維持のため石田三成ら、将来を嘱望される奉行職に期待し、70歳の高齢者利休を見捨てたとの見方もできるが、果たしてそうなのか。そして、その石田三成の「補佐役」としての力量は?
石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれた。幼名は佐吉。生没年は1560(永禄3年)~1600年(慶長5年)。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪だったとされている。
三成は秀吉が近江長浜城時代、しきりに近江周辺で新規の家臣を募った際にスカウトされた若手人材の一人だった。他に増田長盛、長束正家、前田玄以らが“近江閥”を形成していた。この流れには大谷刑部(吉継)、小西行長らも含まれた。これに対し、利休の拠って立つ基盤は“尾張閥”で、この方の家臣団グループには加藤清正、福島正則、浅野長政らが属し、少し距離はあったが加藤嘉明、山内一豊、黒田長政なども同類と見做せた。近江閥のバックボーンが淀君であり、尾張閥のバックボーンがいうまでもなく秀吉の正妻おね(北政所)だ。この両派閥の対立がこの後、歴史の端々に顔をのぞかせることになる。
正妻と側室(愛妾)の対立は、歴史を動かす確かな要因だ。つまり、利休は全く意識していなかったとしても、三成の側からは政敵と看做されていた可能性は高いのだ。そのためか、三成は秀吉にどれだけ勧められても、利休の茶の湯に馴染むことなかったという。
尾張閥と近江閥の対立に加えて、加来耕三氏は各々の派閥に別個の商人グループが荷担していた事実があると指摘している。利休-(尾張閥)-堺商人、三成-(近江閥)-博多商人の両グループの対立だ。利休は茶人で秀吉側近であると同時に、その出身が堺で、堺を代表する納屋衆の一人となった人物だ。これに対し、三成と博多商人との強い結びつきは、九州征伐のあと、戦火で荒廃した博多の復興のために、秀吉が三成・長束・小西らを奉行に任じたときから始まっていたのだ。
利休切腹の半年後、1591年(天正19年)、秀吉は朝鮮、明国への出兵決意を正式に表明した。実はこの決定までに両グループから、水面下で利権にまつわる凄まじい駆け引きがあったはずだ。大陸貿易の独占を目指す博多商人と、南蛮貿易すなわち東南アジアへのルートを強化し、かつての“黄金の日々”を取り戻したいとする堺商人の思惑がせめぎ合っていたことだろう。
朝鮮出兵は、秀吉のいくつかの選択肢の一つだった。少し遅れて徳川家康が呂宋(ルソン)攻略を真剣に計画したように、この時代、国内統一を完成しつつあった豊臣政権は新たな領土獲得、市場確保のためにも海外進出をしなければならない強迫観念に襲われていた。後に無謀な侵略と失敗を反省し、渡海しなければよかったといったものの、その準備段階では九州の大名たちは嬉々として、この無謀な計画に参画しているのだ。
秀吉の外征が、朝鮮半島から中国大陸へのルートに決まるか、それとも琉球、台湾、ルソンの東南アジアに決定するか、各々の方面に独自の利権を持つ博多商人と堺商人は最も関心を寄せていた。しかし、秀長が病死し、孤立した利休では勝負にならなかった。利休は三成に、政治的駆け引きに敗れ、遂にはその死生を制されたのではないか。つまり利休の唐突な死は、将来を展望した際、必要と思われた外征をめぐる、豊臣政権下、ナンバー2(補佐役)同士の抗争に敗れた結果、招いた悲劇だったのだ。
(参考資料)堺屋太一「巨いなる企て」、藤沢周平「密謀」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」