紀貫之・・・ 『古今和歌集』の「仮名序」を執筆した歌人の第一人者

 紀貫之は、官人としては意外に知られていないが、木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わり、恵まれず、不遇をかこった。だが、歌人としては極めて華やかな存在で、初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂にあたり、仮名による序文「仮名序」を執筆、当時、名実ともに第一人者となった。紀貫之の生年は866年(貞観8年)もしくは872年(貞観14年)などの説があり定かではない。没年は945年(天慶9年)。

 紀貫之は、紀望行の子、下野守・紀本道の孫として生まれた。幼名は阿古久曽(あこくそ)。紀友則は従兄弟にあたる。幼くして父を失ったためか、官職には恵まれなかった。宮中で位記(位階を授与する際の辞令)などを書く内記(中務省所属の官職)の職などを経て40歳半ばでようやく従五位下となり、以後、930年(延長8年)に土佐守に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭、従五位上に終わった。

 だが対照的に、貫之は歌人としては華やかな存在だった。892年(寛平4年)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目立つ存在ではなかった。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。

 貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。907年(延喜7年)の宇多法皇の大井川御幸は9題9首の歌を序文に献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠した。この間、藤原兼輔・定方の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めた。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇はすでに崩御されていたため、帰京後、序を付して手元にとどめた。

 貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したもので、日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。

 貫之の最大の功績は漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある-といわれる。

 『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。この歌の歌意は、「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。貫之の歌の中ではとくに有名な一首だ。

(参考資料)大岡信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「小倉百人一首」