行基・・・“無私没我”の愛の行動だけが物語る高僧の事業や行為

 “行基菩薩”という呼び方がある。人間でいながら菩薩とまで尊ばれたケースは滅多にあるものではない。それだけ行基が80余年の全生涯を通じて、黙々と行った事業や行為が、人々に慕われ敬愛された証左といえよう。ただ、行基の場合、生い立ちについての記録はもとより、偉大な宗教家につきものの、誕生にまつわる奇跡譚のようなものも、さらに青・壮年期に入ってからさえ、個人的な逸話は全く残っていないのだ。人のために働き、人のために尽くし切る“無私没我”の愛の行動だけが、行基という僧の全貌を私たち後世の者に雄弁に物語っている。

 行基の体内には帰化人の血が色濃く流れている。父は高志才智(こうしさいち)といい、母は蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)といった。どちらも先祖をたどると、中国系帰化人の家系だ。前漢の支配力が朝鮮半島に及んでいた当時、その出先機関に王姓の官吏が多数、赴任してきていたのは確かだから、それらのうち誰かが百済を経由する外交ルートで日本に迎えられ、文化的指導者の地位に就いたとみられる。この王氏の子孫から書(ふみ)氏なる一族が枝分かれし、さらに書氏から高志氏が分派したわけで、行基の血には生まれながらに、代々知的職能に携わってきた優秀な先進民族の血が流れていたことになる。

 行基が生まれたのは668年、天智帝の称制7年で、場所は河内の大鳥郡だ。現在の大阪府泉北郡と、堺市にまたがる辺りだ。彼は飛鳥寺の道昭について、得度剃髪した。15歳のときのことだ。道昭も、船氏の出身という来歴が物語るように、帰化人系の僧だ。造船技術に秀でていた帰化系エンジニアの集団が、船氏の俗姓を冠していたのだ。道昭は30歳のとき、留学生となって大唐国に渡り、玄奘三蔵から法相(ほっそう)の教学を学んだ。行基が弟子となったのは、帰朝後で道昭が54歳だった。

 造船だけでなく架橋や治水利水、建造物の構築などにも道昭は抜きん出た技術を持っていたといわれる。様々な土木工事によって、民衆の利益を図った実績が道昭にもある。若き日の行基はこの師について、法相宗の教学とともに、利他行(仏教でいう、他人の苦しみを救うために全能力を発揮する行為)の精神と技法を一心不乱に学んだに違いない。

 僧尼令の決まりに従って戒を保ち、勉学し続けてさえゆけば、やがていつの日か行基も寺主に補され上座に昇り、律師、僧都、僧正など僧界での僧位を次々に手にすることができたはずだった。しかし、道昭に師事し、利他の愛に目覚めた彼にとって、僧位や僧官の取得など無意味だった。未練なく行基は僧界での出世コースに背を向け、一介の在野の聖として、市井の塵の中へ入っていったのだ。

 それからの行基は、民衆の福利のために全力を挙げて働き出した。辻に立ち、路傍に座して、分かりやすく法を説き、貧しくよるべない人々の、不安におののく魂に光明を与える。一方、橋のない川には橋を架け、水利の不便さに泣く農民のためには灌漑用池の掘削を指導し、洪水の頻発する河川には堤防を造るなど、目を見張るばかり精力的に、実践活動に挺身し始めたのだ。

 仏の教えは渡来して以来、貧しい人々とは無縁だった。朝廷や政府の、仏教への対処のしかたは本質から大きく外れていた。当時の皇族、貴族らが、これこそ正しいことだと信じて躍起になったのは、堂塔伽藍の建立だった。仏像を造り、経文を写し、法会や儀式を整備し、僧尼令を公布するなど、見かけの飾りばかりだった。お陰で上っ面だけを眺めれば、仏教は未曾有の盛時を迎えたかに受け取れた。国分寺、国分尼寺が全国に建ち、教界の体制は確立して、日本も先進国並みの仏教国家になったのだが、形ばかりで心が伴わない、民衆からは極めて遠い存在だった。行基の偉大さは、様々な行動を通して仏教と民衆を初めてしっかり結び付けた点にある。
(参考資料)杉本苑子「決断のとき」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「美貌の大帝」