足利尊氏・・・「文武両道は、車輪の如し。一輪欠ければ人を度さず」

 これは室町幕府の創設者、足利尊氏が最晩年の延文2年(1357)に書き残した、二十一箇条からなる『等持院殿御遺言』の一節だ。国を治めるものは学問を身につけるべきである。とはいえ、戦だけを働きとする武者には学問などは無用である。

「五兵にたずさわる者に、文学は無用たるべし」。刀など五種類の武器をもって戦う男たちに学問は無用。生かじりの学問をもてあそべば、口先ばかり達者で心正しからざる侫(ねい)者となる者多し、心得るべきことだ-と尊氏は説く。

 足利氏の祖は八幡太郎源義家の第三子、源義国が晩年、足利の別業(別荘)にこもり、その次男の源義康が足利の庄を伝領したことから始まる。尊氏(初名は高氏)はこの直系、足利貞氏の嫡男として生まれている。彼の名前が歴史の舞台に表れるのは元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を企て、途中で露見して笠置(現・京都府相楽郡笠置町)に潜幸したとき、幕府の差し向けた討手の六十三将の一人として登場する。27歳の時のことだ。

 ただ、高氏は鎌倉幕府への反逆を起こす立場になかった。なぜなら先祖は源頼朝や北条政子とも縁戚を結び、以後、足利氏は北条一門とも代々、密接な血縁関係を幾重にも結んできたからだ。本来彼は革新的な人物ではなかった。性格は保守的で、日和見主義者であったとさえいえる。現代風に表現すれば、名家のお坊ちゃんだ。足利家に代々伝わる遠祖義家の「置文」(遺言状)がなければ、後世の尊氏はなかっただろう。

「天下を取れなかった八幡太郎義家が、七代目の子孫に生まれ変わって、かならず天下を取る」がそれだ。そして足利家ではこれを信奉し、義家の七代後の子孫である家時は、ご先祖の「置文」の通りに天下が取れなかった自分を嘆き、恥じ、八幡大菩薩にわが命を縮めるかわりに、これより三代の後に今度こそ、望みを叶えてくれと置文を残して、切腹して果てた。その三代目が高氏だった。彼は周囲に押し上げられるように、謀反決起を考えねばならなくなった。

その点、尊氏は時代の趨勢を的確に読んでいた。鎌倉幕府に対する不平・不満は全国の武士の間に満ちていた。そこへ天皇が反旗を翻して、一部の公家が荷担した。幕府はこれを弾圧したものの、政権としての権威の失墜は明らかだった。

元弘3年、笠置で捕らえられ隠岐(島根県)に流された後醍醐帝は再び脱出。後醍醐帝軍を討つことを命じられた高氏は、密かに後醍醐帝の綸旨(みことのり)を得て丹波、篠村八幡宮で鎌倉幕府に反旗を翻して、軍を反転して六波羅探題を討ち、北条一族を滅亡に導いた。高氏は殊勲第一の者として鎮守府将軍に任ぜられ後醍醐帝の尊治の一字を賜り尊氏と改名する。ところが、尊氏はほどなく後醍醐帝と対立し、持明院統の豊仁親王を担ぎ皇位につけ、光明天皇として遂に足利十代にわたる悲願であった足利幕府を樹立する。

ただ、ここに至る行動の采配は実弟の直義や執事の高師直が振るっているのだ。室町幕府の創設期、幕府の実権は直義と師直の両者が握ることになる。この両者に実権を握られ続けながら、「人望」のある尊氏は時代の方向を的確に読み、カリスマ性を発揮しつつ、遂には征夷大将軍となった。
   
(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」