鍋島閑叟・・・破綻した藩財政を立て直し、幕末の先進雄藩に育て上げる

 鍋島閑叟(直正)は幕末・維新にかけて肥前佐賀藩の藩主を務め、破綻した藩の財政改革、教育改革、農村復興などの諸改革を断行。さらに独自に西洋の軍事技術の導入を図り、精錬方を設置し反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や、鉄砲の自藩製造に成功したほか、蒸気機関・蒸気船までも完成させる先進雄藩となった。

ただ、同藩は薩摩・長州・土佐藩などと比べると、幕府あるいは他藩に対し、自己主張するような姿勢はほとんど取らず、自主・独立独歩の道を歩んだ。その意味で、鍋島閑叟は地味だが、肥前佐賀藩を薩摩・長州・土佐に伍する雄藩に育て上げた名君だった。閑叟の生没年は1815(文化11)~1871年(明治4年)。

 肥前佐賀藩の十代藩主・鍋島閑叟は、九代藩主・鍋島斉直の十七男として、江戸赤坂の溜池にあった鍋島家中屋敷で生まれた。幼名は貞丸。母は池田治道の娘。正室は十一代将軍徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正。維新後は直正と改名した。号は閑叟。

 幼少の貞丸に対し、家中では将来必ず名君になると信じた。それは、キツネに似た彼の容貌から発想したのではない。肥前鍋島家は一代交代で暗君と名君が出た。若殿の父・斉直は女好きの贅沢好みで藩財政を傾けたため、それまでの“法則”に従えば、この嬰児・貞丸は名君になるだろうとの期待を込めた思いからだ。

 1830年(天保元年)、父の隠居の後を受け、17歳で第十代藩主に襲封。藩主時代は将軍家斉の片諱をもらい、斉正と名乗っていた。当時の佐賀藩はフェートン号事件以来、長崎警備などの負担が重く、先代藩主の奢侈・贅沢や、天災による甚大な被害も加わって、藩の財政は破綻状態にあった。斉正は直ちに藩政改革に乗り出したが、前藩主とその取り巻きら保守勢力の抵抗から、改革は困難を極めた。

 だが、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校弘道館を拡充し、優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。藩政の機構改革、政務の中枢に、出自にかかわらず有能な家臣たちを積極的に登用するなどの施策を講じたのだ。

 さらに、独自に西洋の軍事・科学技術を導入し、火器の自藩製造に成功。蒸気機関・蒸気船までも完成させるほど、その技術水準は高かった。それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている。

 また斉正は、幕府に先駆けて天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが、日本における天然痘の根絶につながったのだ。

(参考資料)司馬遼太郎「肥前の妖怪」、司馬遼太郎「アームストロング砲」