阿野廉子は最も後醍醐天皇の寵愛を受け、3人の皇子を産んでいる。そして、この中で誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、建武の親政にも様々に口出しし、画策したと伝えられている。実際はどうだったのか。
ところで、後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中では比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐の子を産んだ女性だけで20人、生まれた子が皇子17人、皇女15人になる。子を産まなかった女性はカウントされていないので、実際に性的関係を持った女性は何人に及んだのかは分からない。
「太平記」の表現から推察すると、やはり20人の女性の中でも後醍醐のご指名ナンバーワンは阿野廉子だった。廉子は阿野公廉の娘だった。生年は正安3年(1301)説、乾元元年(1302)説、応長元年(1311)説など諸説あるが、後に後醍醐の子供たちを産んだ年齢から考えると、応長元年説は成り立たず、正安3年か乾元元年かのどちらかかと思われる。
彼女の運命が大きく変わることになったのは、文保2年(1318)8月の、中宮禧子の入内だ。このとき、廉子が禧子について上臈として宮中に入ることになった。正安3年誕生説をとれば18歳、乾元元年説をとれば17歳のことだ。「太平記」の表現がそのままだとすれば、彼女はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになったのだろう。その結果、ほどなく後醍醐との初めての子、恒良親王を産み、嘉暦元年(1326)に成良親王、同3年(1328)には義良親王を産んでいる。したがって、このころの後醍醐の寵愛を一人占めしていた観がある。
ただ、廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐のよき話し相手だったのではないかと思われる。だからこそ、後醍醐が隠岐へ流されるときも、彼女を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行ったのではなかろうか。
後醍醐の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると、・尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良-の各親王だ。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたことが分かる。恒良より上の4人の中に、仮に中宮禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が大きかったが、廉子にしてみれば幸いなことに、中宮禧子の子はいなかった。ただ、護良親王が元弘・建武の争乱にあたっては後醍醐の手足となって、実際の軍事行動のかなりの部分を担っており、現実に一時的にではあるが、征夷大将軍にも補任されているのだ。ある意味では後醍醐の後継者の最短距離にあったといってもいい。
ところが、建武元年(1334)正月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良ではなく、廉子の長子、恒良だった。つまり、後醍醐は実力ナンバーワンで実績のある護良ではなく、まだ10歳か11歳になったばかりの恒良を後継者として指名したのだ。そして、廉子の産んだ二人目の子、成良は鎌倉に下り、三人目の子、義良は奥州に下った。つまり、廉子が後醍醐と相談のうえか、廉子の独断かは別にしても、将来考えられる3つのコースに、それぞれ後醍醐との子を送り込んだ。つまり、恒良を後醍醐直系、成良を足利尊氏路線、義良を護良親王・北畠親房路線として、最終的にどのコースが勝っても、後醍醐と廉子の生んだ子を政権担当者の座に就かせる戦略だった-とする見方がある。
才気煥発な廉子がそのくらいの画策をしたことは十分考えられる。また、護良親王が皇太子になれなかったことについても、わが子が皇位に就くために将来邪魔になるであろう護良を除こうと考え、同じく護良を除こうと考えていた足利尊氏と目的が一致。尊氏と組んで、尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報が廉子にあり、それを聞いた後醍醐が護良を捕えた-とする「太平記」の叙述を100%信用できないにしても、似た素地はあったのではないだろうか。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」