鴻池新六・・・十人両替商の筆頭で大名並みの権威持った江戸の大富豪

 江戸時代を通して、豪商と呼ばれたのが鴻池家だ。全国一の富豪で、諸大名に何千万石もの大金を貸し付け、その各大名から扶持をもらって、合わせると一万石を超え、大名並みの権威を持っていたといわれる。現在の銀行業務を行っていた十人両替商の筆頭として知られた鴻池家の始祖が新六幸元だ。生没年は1570年(元亀元年)~1650年(慶安3年)。

 鴻池の姓は、摂津国伊丹在鴻池村に住んだことに由来する。元は山中姓だったという。それも、尼子十勇士を率いた尼子の家老、山中鹿之介幸盛の子が新六だと伝えられている。新六は幼時、大叔父にあたる山中信直に養われたが、この大叔父が没して後は大叔母に育てられた。15歳で元服して幸元と名乗ったが、武士の身分を隠すため、名前も新右衛門と変え、両刀を捨てた。豊臣秀吉の天下となって、彼の身の上はかえって処世の妨げとなったのだ。

 摂津国鴻池は古来、酒造の地で、やがて新六もその仲間の一人になることができた。当時の酒は今でいう濁り酒だ。ある時、新六に叱責されて、それを恨んだ使用人が仕返しのため、酒桶の中に、灰汁を投げ込み、そ知らぬ顔をして主家を出て行った。翌朝、いつものように新六が酒造場の見回りにいくと、大桶の酒が、どうしたことか、濁り酒から清酒に変わっていたので驚いた。調べてみると灰汁桶が空になっていて、清酒に変わった酒桶の底に、灰汁が残っていた。そこで、あの男のしわざと気付いた。ところが、この美しく澄んだ酒をすくってみると、香気があって、味がいい。不思議なことだ。使用人にも試飲させると、皆に評判がいい。

そこで実験を重ねて、清酒づくりに励み新製品を売り出すことになった。これが鴻池の「諸白(もろはく)」と称された清酒だ。この清酒は評判を呼んだので、新六は江戸ヘ出すことを決めた。当時、江戸は人口100万人に達し、ロンドン、パリを抜いていた。この100万人の人口の半数は旗本や諸大名の家臣とその家族、つまり消費するだけの武士階級だ。しかも江戸近辺は当時、米さえ作れない乾いた土地が多く、酒はすべて伊丹や伏見から送っていた。

新六はこの「諸白」を、初めは馬で、次には船でどんどん江戸へ大量輸送し、売れに売れたのだ。そこで、鴻池は自ら廻船問屋を開業するに至った。こうして新六は酒造家として成功した。
新六は妻・花との間に10人(8男2女)の子に恵まれた。次男と三男は分家して、別の酒造家となり、1619年(元和5年)、新六も鴻池村を出て、大坂城下の内久宝寺町に店を開いた。鴻池村の本宅は七男が継ぎ、大坂の店舗は後に、八男正成が相続するようになった。その頃の鴻池家は約240坪の敷地に、酒造蔵と米蔵それぞれ2棟を持ち、年間1万7000石の清酒を醸造していた。

新六は64歳のとき海運業を始めた。天下の台所と称された大坂は、様々な物産の出船入船千艘という一大商都となって、物流手段として船への需要が大きくなるとの判断だった。初め、自家製の酒を江戸へ運んでいるだけだった鴻池の船も、江戸の帰りに大名から頼まれた参勤交代用の荷物を運ぶようになり、やがて大名家出入り商となって、米を扱うようになった。やがて、大名の蔵元となり、大名貸しする両替商となっていくのだ。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」