月別アーカイブ: 2013年12月

佐野常民・・・幕末には珍しい非政治的人間で日本赤十字社の創立者

 佐野常民は周知の通り、日本赤十字社の創立者だ。彼の赤十字への関心は、2度の渡欧を通して知った西欧諸国の赤十字活動によって触発され、育っていった。決して独創ではない。だが、わが国にも赤十字組織は必要だと見抜く眼力の正確さ、そしてそう判断すると直ちにその移入を思い立ち、着実に精魂を込めて行動していく粘り強い実行力、それが常民の優れた点だ。また、彼は適塾で学んだが、幕末の激動期を生きた人物にしては珍しく、体制批判派でもなければ、もっといえば非政治的人間だったといっていい。

 佐野常民は肥前国佐賀藩士、下村充斌の五男として生まれたが、11歳の1832年(天保3年)、親戚の藩医佐野常徴(じょうちょう)の養子となった。このことも、常民の意識形成に少なからず影響を及ぼしたものと考えられる。元来、藩医は士の最末端というか、武士にして武士にあらずというような、身分的に極めて微妙な地位に置かれていた。したがって、ともすると上昇志向にとらわれやすい。この点は、常民と同様、藩医の子だった越前の橋本左内にも似たところがあったが、常々真正の武士になりたいものだと熱烈に願った。

 佐野家の場合はそれに加えて、常徴が藩主・鍋島斉直(鍋島閑叟の父)の侍医だったという事情もある。生家が「葉隠」的精神を濃厚に伝えた忠誠意識の強い家庭で、実父は藩財政に参画していたし、養家の社会的地位といい、常民が体制側に吸い寄せられていく素地は生まれながらに準備されていたわけだ。

 1854年(安政元年)、常民はオランダから蒸気船購入を一任されたものの、公金流用を疑われて、悪くすると切腹という窮地に追い詰められたことがあった。その頃、オランダとの貿易を取り仕切っていた長崎奉行所の役人らに酒食を饗応してリベートの引き下げを図ったのだが、藩のためにと考えたその裏取引を、思いがけず公金濫費と指弾されたのだ。

 ところが、藩主閑叟は常民に対し、免職のうえ30日間の謹慎という軽い処分を下しただけで、しかも免職者は以後30年間復職できないという定めがあったのに、わずか半年足らずで再び彼を要職に登用した。藩主のこの寛大な措置も常民をいよいよ体制に忠実にならしめる一つの契機になったことだろう。

そうかといって体制内で活発な政治的な動きを展開したわけではない。むしろ逆だった。常民の身辺は政治の持つ生臭い求心力とどこか縁が薄く、歴史のめぐり合わせか、何か事が起こりつつあるときに限って、いつも彼はその現場にいないのだ。1850年(嘉永3年)の義祭同盟結成の際は、江戸で蘭学修行に励んでいたし、江戸幕府が倒れ1867年、王政復古の大号令が発せられたとき、彼はフランス・パリの万国博の運営に携わっていた-という具合。

 常民が兵部少丞として新政府の官途についたとき、すでに50歳に近かった。元老院議官、大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官などを歴任、晩年には農商務大臣を務めて伯爵に叙せられた。しかし、明治期の常民の独自な立場と識見を浮き彫りにするのは、赤十字運動との関わりだ。事実、常民は赤十字運動をわが国に根付かせることに後半生のほとんどを捧げており、またその行動によってこそ彼の名は歴史に深く刻み込まれることになったといえよう。

 明治27年勃発した日清戦争は、日本赤十字社にとってその創立の理念の真価を問われる試練の時だった。常民は大本営の置かれた広島に赴き、戦地の戦況を絶えず確認しながら、救護活動の陣頭指揮を執った。史料によると、このとき1050人の赤十字社救護員が大陸に渡り、10万人前後の内外傷病者を救護したという。

(参考資料)百瀬明治「『適塾』の研究」

島 左近・・・石田三成が禄高の半分を与えて召し抱えた歴戦の兵法家

 島左近は生涯に主君を、畠山高政を皮切りに筒井順政-筒井順慶-筒井定次-豊臣秀長-豊臣秀保-石田三成と7人変えたと伝えられている。筒井順慶に仕えた頃は侍大将を務めたほど、当代の兵法家として知られていた。「孫子」や「呉子」などの中国古典にも明るかったという。後に羽柴秀長に仕え、その死後は秀長の世嗣・秀保に従い、文禄の役(1592年)にも渡海し、朝鮮においても数々の武功を挙げた。

だが、1595年(文禄4年)、秀保が病死し、左近は出家を覚悟していたところ、石田三成から声がかかり、7人目の主君に仕えることになった。もっとも、戦国武将としてのキャリアにおいて、卓越していた左近を、39歳と年少の三成が召し抱えるのは、この当時の武将気質として、まとまる話ではなかった。恐らく左近にすれば、己の戦歴を上回るぐらいの相手でなければ、いまさら仕える気にもならなかったに違いない。そこで、婉曲に断ろうとした。それを三成は、左近への高い評価を俸禄で示して覆す。三成は1586年(天正14年)、左近を、三成の当時の禄高4万石の半分、2万石の知行を与えて召し抱えたといわれる。まさに破格の待遇だ。

ただ、左近の三成への仕官の時期の違いで、召し抱えたときの三成の知行にはいくつかの説がある。そのとき三成は北近江に19万4000石を与えられて佐和山城主になっていたとか、「多聞院日記」には近江に30万石の知行を得ていたとも記されている。

 島左近の生涯はいまなお謎に包まれている部分が多い。例えば、彼の諱が清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)、昌仲、友之、清胤(きよたね)といくつも伝えられているほか、生没年も判然としない。伝えられているのは1540(天文9年)~1600年(慶長5年)。

 豊臣秀吉の死後、雌伏していた徳川家康は遂に天下取りに向けて動き出した。豊臣政権の存続を願う三成は、知力の限りを尽くして家康に決戦を挑んだ。1600年に勃発した「関ケ原の戦い」だ。三成を事実上の総大将とする西軍の総勢8万4000と、家康を総大将とする東軍の総勢7万5000が激突したはずだった。だが周知の通り、総勢1万5000を揃えた総大将格の毛利本体が動かず、一進一退が続く中、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り、勝敗は決した。

 三成の「補佐役」、島左近の勇猛果敢な奮戦ぶりは後々までの語り草とされた。西軍の事実上の主将・三成に東軍の諸将が集中攻撃を仕掛けてくるのは明らかだった。開戦から1時間後、馬上の島左近は手勢100人で、右手に槍、左手に麾(き=指図旗)を握って、柵の口から打って出た。銃撃戦が始まり、先鋒の兵の小競り合いがあって後、東軍側では黒田隊が左近の率いる100人の前に出た。これに加藤嘉明、田中吉政、細川忠興らの軍勢が続く。左近はこれを巧みに押し返し、押し込め、タイミングを計っては、実に巧妙にいなすのだ。黒田隊はまるで左近の魔術にでもかかったように翻弄されて、挙句の果ては死地へはめられてしまった。

このとき黒田隊の菅六之助という者が、別働の鉄砲隊を率いて、左近らを捉える射程内の小丘に登っていなければ、黒田隊は全滅の恐れすらあった。横合いからの、鉄砲隊の攻撃で石田隊は次々と倒れていった。馬上の左近も狙い撃たれて馬から落ちた。ひどい出血だった。左近は将士の肩に担がれて、手勢を撤収し柵内へ退いた。陣所内で左近は止血の手当てを受けたが、かなりの重傷。本来なら動くこともままならなかったが、東軍の攻撃が激しさを加え、休息の時間を与えてくれなかった。

 石田隊の強さは群を抜いていた。だが、頼みの西軍諸将は、宇喜多秀家の軍勢や小西行長、大谷吉継らの隊を除いて、ほとんどが動かない。所詮は多勢に無勢だった。怒涛の如く押し寄せる東軍を、西軍の実戦諸隊は遂に支えきれず、左近も津波に呑み込まれたように、ここで姿を消した。その後、左近はどうなったのか。銃撃によって戦死したと書き留めている史料から、太田牛一の「関ケ原軍記」のように行方不明とするもの、「古今武家盛衰記」のように西国へ落ちのびたと記しているものまであり、確かなことは分からない。

(参考資料)百瀬明治「『軍師』の研究」、佐竹申伍「島左近」、加来耕三「日本補佐役列伝」

島津重豪・・・西洋文化に造詣が深かった浪費家は同時に藩の革命児だった

名君にも様々なタイプがある。悪いことをたくさんしているが、それを上回る大きな功績があり、その藩の地位を高めた藩主だ。その典型が島津氏第二十五代当主で、薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)だ。幕末、西南雄藩の中でも名君といわれた島津斉彬の曽祖父で、彼は32年の長きにわたって藩主の座にあって藩政を独占。贅沢三昧をして藩の財政を破綻させ、数々の苛政も行ったことで、愚君の評価を下す人が多い。

しかし薩摩藩は「革命児」ともいえる、この型破りの殿様の「無茶」の数々がなければ、明治維新の原動力などには到底なり得なかっただろう。生没年は1745(延享2年)~1823年(天保4年)。
 重豪は徳川十一代将軍家斉の岳父だが、徳川十五代の将軍の中で最も贅沢で、浪費家だったこの家斉に「薩摩の舅どのには及ばん」といわせたほど、並外れた浪費家だった。それくらい重豪の生活は華麗で、豪奢だった。その名が示すように、性豪放で進取の気性に富んでいた。泰平の世の大名にしては気宇が広大にすぎた。やること成すことが桁外れで規格にはまらない。国持大名らしさを求める幕府は何かにつけて枷(かせ)を着せた。怜悧な人だったから、我執を包みくらました。そのため、はけ口のない重豪の雄心は、わがままと贅沢となって表れた。

 江戸・薩摩藩下屋敷の茶屋を改めた高輪御殿に隠居していた重豪の居室は、西洋の文物であふれていた。晴雨出没人形、砂時計、吹笛琥珀、硝子刷毛、天眼鏡、紅毛硯、虫眼鏡、硝子鈴、オルゴール楽器、剣杖、鼓弓、硝子掛燈爐などのオランダ渡りの品々が異国的な雰囲気を高めていたという。それほど西洋文化に造詣が深く、蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

 彼が行った事績をみると、1773年(安永2年)、藩校・造士館や演武館を設立し、教育の普及に努めている。1779年(安永8年)には明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。医療技術の養成にも尽力し、1774年(安永3年)医学院を設立、武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えた。

 このほか、老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬の才能を高く評価し、斉彬とともにシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ちなみに彼はローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

重豪の金に糸目をつけぬ贅沢品の蒐集で、薩摩藩の財政は破綻。晩年、彼はようやく藩の財政改革に取り組み、その立て直し役として調所笑左衛門広郷を重用。調所の大胆かつ狡猾な手法と、琉球を通じた密貿易により、その財政再建は孫の島津斉興の新政時に成果をみている。調所は500万両の赤字を埋め、60万両の黒字を出すまでに立て直した。

(参考資料)加藤_(けい)「島津斉彬」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「日本史の参謀たち」、綱淵謙錠「島津斉彬」

島津久光・・・斉彬の遺志継ぎ藩の存在感を誇示するが、保守派のため限界

 島津久光は、薩摩藩・島津家の“お由羅騒動”の要因ともなった、斉彬の異母弟だ。斉彬の急逝の後、薩摩藩主(島津忠義)の後見役として、「国父」の尊称を受け藩政の実権を握り、幕末~明治維新の藩運営を実質的に担った人物だ。

島津久光の生没年は1817(文化14)~1887年(明治20年)。
 島津久光は第十代薩摩藩主・島津斉興の五番目の子として鹿児島城本丸で生まれた。母は側室、江戸三田の四国町に住む大工の娘、お由良(お遊羅とも)。8歳上の嫡兄が斉彬だ。

 1851年(嘉永4年)、第十一代薩摩藩主となった島津斉彬は、積極的に藩政改革と軍備の近代化を断行。しかし、志半ばで急に病に伏し1858年(安政5年)、死を悟った斉彬は久光を枕頭に招き、久光の長子、茂久(のち忠義に改名)を後嗣とし、久光を後見とする旨、遺言し、亡くなった。西南雄藩の中でもとりわけ開明派の名君と評された人物だけに、藩内には若き日の西郷隆盛、大久保利通ら、その死を惜しむ声が多かった。

 それだけに、薩摩藩内の若手家臣たちには失望感が強く、それほどの期待感はなかったが、島津久光は異母兄、斉彬の遺志を継いで、この後、公武合体のために努力奔走する。ただ、もう一つの遺志、薩摩の近代化という藩の内政面では至極、冷淡だった。そのため、斉彬が今後の時代を見据え、薩摩藩を“産業国家”に改造することを目指し、西洋技術習得のために設けた諸施設は無残に解体・縮小されていた。

 斉彬が推し進めていた西洋技術習得の意味を、久光は全く理解できず、ただ傍観しているほかなかったのだ。しかも、兄の斉彬が亡くなったからといっても、父、斉興が自分の出番とばかりに藩運営に出しゃばってきたからだ。久光はまた、この事態を静観しているほかなかった。斉彬の死後、一年で老公の斉興も亡くなって、ようやく実権は久光に移った。

 斉彬の死で沈滞したかに見えた薩摩藩内の動きも、徐々に活気を取り戻す。京を中心に倒幕・尊皇攘夷運動が吹き荒れていたからだ。現実派の大久保利通らは、要所で久光を担ぎ出し、この後、西南雄藩の中でも主導的な立場で様々な手を打ち薩摩藩の声望を高めていくことになるのだが、先君・斉彬に心酔していた西郷隆盛は結局、最後までこの久光の行動や事績を認めることはなかったようだ。そのため、西郷はこの久光に徳之島、喜界ヶ島などへの流罪処分を受けている。

 話を戻すと、やがて「国父」の尊称を受け、藩政の実権を握った久光は、大久保利通ら藩内有志の脱藩事件を契機として彼らを「誠忠士」と称し、挙藩一致し国難にあたらせることに成功した。1862年(文久2年)、久光は1000余の藩兵を率いて上京、国事周旋にあたり、攘夷激派の有馬新七らの伏見・寺田屋事変を抑え、挙藩一致の方向を堅持した。公武一和のためとはいえ、薩摩藩士が薩摩藩士を斬り殺すという惨劇は、藩内に傷を残した。

 次いで、久光は勅使、大原重徳を擁して東下し、幕政改革を命じて公武合体運動の中心人物となった。江戸からの帰途、生麦村で行列を横断したイギリス人を殺傷した「生麦事件」を起こし、その結果、1863年(文久3年)、「薩英戦争」となった。

 王制復古後は、久光は政府の開明政策に不満で藩地にとどまることが多かったが、征韓論の分裂による明治政府の弱体化に備え、明治6年、勅使派遣により上京し、内閣顧問から同7年、左大臣に任ぜられた。

 ただ、保守派の久光は政府の欧化政策には反対で、その旨たびたび建言した。しかし、それはことごとく退けられ、受け容れられることはなかった。そのため、明治8年、遂に久光は官を辞し帰国。以後、政治の舞台からは遠ざかり、修史の業に従い、『通俗国史』(86冊)などを編纂させた。薩摩国内が最後の舞台となった「西南戦争」には中立を守り、休戦を建議したが、明治維新政府には容れられなかった。

 島津久光は、その死因が不可解で毒殺との説もある、急死した異母兄、斉彬が健在なら表舞台に登場することはなかった。それだけに、久光が行った藩運営や雄藩諸侯の中で果たした役割も、決して十分ではなかったかも知れない。しかし、それでも薩摩は、明治維新政府で長州とともに主導的役割を果たし、存在感を示したのだから、良しとしなければなるまい。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、松永義弘「大久保利通」、司馬遼太郎「きつね馬」、加藤_「島津斉彬」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

調所広郷・・・破綻していた藩財政を立て直し、薩摩藩の地位高める

 調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)は薩摩藩の前藩主(八代)・島津重豪(しげひで)に茶坊主として仕え、のち還俗。その後、御用人・側役を兼任、5年後、藩財政の困窮に際して財政改革担当を命じられ、大番頭・大目付格を経て1833年、家老となった。その間の改革全権を委任され、破綻していた藩財政を立て直した。

その過程で、琉球を通じた密貿易はじめ法スレスレの諸施策もあったが、その事績は薩摩藩への貢献大なるものがある。具体的にいえば、調所は財政改革に取り組んで20年で500万両の赤字を埋め、60万両もの黒字を出し、幕末政界において薩摩の位置を重くした人物だ。

 調所広郷は下級士族、川崎主右衛門の子で、13歳で調所清悦の養子になった。幼名は清八、友治、笑悦。通称・笑左衛門。調所家は御小姓与(ぐみ)の家格だった。島津家の家臣では最も低い家格だ。西郷隆盛の家と同じだ。勤めは茶坊主だ。笑左衛門も15歳のとき茶坊主として勤めるようになった。茶坊主の給米は4石というわずかなもの。そのために髪を切らねばならない。その屈辱が彼の成長に何らかのプラスになったのではないか。生没年は1776~1848年。

 調所広郷は25歳で江戸に出、前藩主(島津氏25代当主)重豪付きの茶坊主になった。この重豪との出会いが調所の人生を一変させる。重豪は徳川八代将軍吉宗の武断主義に、十一代の家斉の豪奢を合わせたような傑物だ。その家斉は重豪の二女を夫人にしていた。

重豪は長崎を通じて外国の学問文化に目を注いでいた。参勤交代が終わって帰国の途中、わざわざ長崎に寄って20日間も滞在。出島やオランダの船を見学したことがある。数ある大名のうち、自分で長崎を見たのは彼ぐらいだろう。歴代の商館長とはいつも書信を交わしていたし、有名な医師シーボルトには自分から願って教えてもらったこともある。「成形図説」という大部の農学百科を編集、領内に頒布して農業技術の向上を図った。漢語もかなり話せたようだし、学術用語ぐらいならオランダ語も分かった。

重豪は77万石の大守で、将軍家斉の義父という体面があるから、江戸の外交経費も惜しまない。高輪の屋敷には西洋風の家を造ったこともある。また、薩摩には宝暦の木曽川治水工事お手伝いという財政上の大苦難があった。巨額の費用と多くの人材を失い、幕府の命令どおりに工事を終了したが、この痛手がすっかり直らないところに、重豪の収入を上回る積極財政が展開されたから、藩財政は困窮した。こうした事態に陥って、重豪はバカ殿様ではないから考え、本来この財政難を立て直すのが自分の任務だろうが、それは性分には合わないと判断。1787年(天明7年)、藩主の座を斉宣(15歳)に譲った。ただし、「政務介助」の名目のもとに実権は握り続けた。

新藩主・斉宣の側近、樺山主税・秩父秀保・清水盛之らは「近思録派」と呼ばれ、保守的・精神主義・素朴復古・倹約最優先だったから、重豪が32年間にわたって展開してきた開明政策を批判、あるいは否定するものだった。そうなると、重豪は黙っていられない。真っ向から対立、お家騒動に発展した。「近思録くずれ」「秩父騒動」などと呼ばれ、薩摩藩はこのとき完全に二分した。翌年、重豪は斉宣を藩主の座から引きずり降ろし、斉宣の子の斉興を据えた。

江戸詰めで重豪の側に仕えていた調所は、大騒動のあった2年目に茶道頭になった。それから4年、40歳で御小納戸頭取御用、御取次見習になった。この時点で調所は幹部の一員になったといっていい。彼を昇進させたのは重豪だ。その後、1822年(文政5年)から2年間、彼は鹿児島の町奉行を務めた後、江戸に呼び返され御側御用人、御側役になった。藩庁と藩主個人との間をつなぐ役だ。また同じ頃、先々代重豪と先代斉宣の生活費を工面する仕事を仰せつかる。実はこれが琉球貿易による独立会計だった。

1827年(文政10年)、調所の人生にとってヤマがきた。重豪の名代として改革をやれ、家老を指揮すべし、という命令が下ったのだ。調所は拝命にあたり「絶対に罷免しない、批判は許さない」という重豪の「直書」をもらい、この後、20年もの長期にわたって藩政改革を指導することになる。重豪は大坂商人との500万両踏み倒しの成功を見ぬうち、1833年(天保4年)、88歳で死んだが、斉興は重豪の改革方針継続を表明。以後、調所と斉興は二人三脚で大改革を推進していく。そして、破綻していた藩財政の立て直しに成功する。

(参考資料)加藤_「島津斉彬」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」

大黒屋光太夫・・・鎖国下、漂流から9年半かけロシアから日本に生還

 現代と違い、船に羅針盤など装備していなかった時代の航海は、天候次第で死と隣り合わせの、極めてリスクの大きいものだった。大黒屋光太夫はそんな時代の船頭で、乗った船が嵐に遭って大漂流。鎖国下の江戸時代、ロシア領に漂着。首都ペテルブルグで皇帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半もの月日を経て、日本へ生還した人物だ。

この間、彼が移動した距離は壮大なスケールになる。それも、移動手段として犬ゾリぐらいしかなかった時代のことだから、その距離感は現代の何倍にも相当することだろう。それだけに、肉体的な頑健さはもちろんだが、それを成し遂げた精神力の強さ、生命力の強さには目を見張るものがある。
 大黒屋光太夫は江戸時代後期の伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭だ。生没年は1751(宝暦元年)~1828年(文政11年)。1782年(天明2年)12月、藩の囲い米などを積み、総勢18人が乗り込んだ神昌丸は江戸へ向け白子の港を出港した。

ところが、駿河沖付近で嵐に遭いそのまま半年以上も漂流。やがて、船は日付変更線を超えて1783年7月、北の果てアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。この寒さ厳しい島で8人の仲間が亡くなった。漂流中に1人死亡しており、これで死者は9人となった。

 4年後、この島にラッコの皮をとりにきたロシア人が彼らをカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行ってくれた。ここで光太夫らは日本に帰りたいので助けてほしいと必死に当地の役人に願い出るが、当時日本は鎖国中。願いは不許可となる。ここでも3人の仲間が死亡。残った6人は翌1788年、帰国の件をシベリア総督に直接願い出ようとソリで8カ月を要し、シベリアの中心都市イルクーツクへたどり着く。しかし、シベリア総督の返事は「NO」だった。

 失意の彼らに救いの手を差し伸べたのはフィンランド出身のキリル・ラクスマンという植物学者。彼はロシアの科学アカデミー会員に名を連ねており、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国の許可と支援を願い出ようと誘う。1791年、一行を代表して光太夫がラクスマンとともに、速ソリで6000・・をわずか2カ月で横断、首都ペテルブルグまで行った。
ラクスマンと光太夫の2人は皇帝エカテリーナ2世に2度も謁見することに成功。エカテリーナ2世は彼らに同情するとともに、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと考え、ラクスマンの息子のアダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に遣日使節の命を与え、光太夫らとともに日本へ行くよう命じた。

この時点でイルクーツクの6人のうち1人が亡くなっており、庄蔵、新蔵の2人はロシアに残る道を選んだ(このうち新蔵はロシア人女性と結婚した)。そして光太夫、礒吉、小市の3人だけが帰国の途につくことになった。ラクスマンは彼ら3人を連れてオホーツクの港から船で根室へと入った。1792年10月、漂流から9年半後のことだった。待ちに待った帰国だったが、3人のうち小市はその根室で死亡してしまう。結局、生還できたのは光太夫と、最年少だった礒吉の2人だけだった。

 光太夫、礒吉が帰国したとき、幕府の老中は松平定信で、彼は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだ。だが、2人が江戸に回送されるまでに定信が失脚してしまう。そのため、光太夫らのその後の運命も大きく左右されることになった。定信が老中職にあれば、恐らく2人はジョン万次郎(中浜万次郎)のように、外国との交渉役としての役割を与えられ活躍しただろう。

ところが、彼らは一転して「鎖国の禁を破って、外国に出た犯罪者」として扱われる身となってしまったのだ。その後は江戸で屋敷を与えられ、軟禁状態で過ごさなければならない破目に陥ってしまう。それでも数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交渉し、蘭学発展に寄与。桂川甫周による聞き取りを受け、その記録は「漂民御覧之記」としてまとめられ、多くの写本が残された。

また、桂川甫周は光太夫の口述と「ゼオガラヒ」という地理学書をもとにして「北槎聞略」を編纂した。光太夫の波乱に満ちた人生史は小説や映画などで度々取り上げられている。

(参考資料)井上靖「おろしや国酔夢譚」、井上靖「日本史探訪/海を渡った日本人 大黒屋光太夫」、吉村昭「大黒屋光太夫」

玉木文之進 ・・・吉田松陰をスパルタ教育で鍛えた硬骨・清廉潔白の士

 玉木文之進は「松下村塾」と名付けた塾を開き、長州藩子弟の教育に努めた教育者であり、山鹿流の兵学者だが、吉田松陰の叔父でもあり、松陰を幼少よりスパルタ教育で厳しく鍛え、松陰の人格形成にあたって最も影響を与えた人物として知られる。生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。

 玉木文之進は長州藩士・杉七兵衛の三男として萩で生まれた。1820年(文政3年)、10歳のとき長州藩士で四十石取りの玉木十右衛門正路の養子となって家督を継いだ。今日知られている吉田松陰の「松下村塾」も、元をたどればこの玉木が1842年(天保13年)開いた塾なのだ。後に第三軍司令官・陸軍大将として日露戦争で旅順攻撃を指揮した乃木希典も玉木の薫陶、教育を受けている。

 玉木は松陰が19歳で藩校明倫館に出仕するまで、その後見役としてあった。そして後年、松陰がその主義と主張のために罪を受けたときも、彼は最後まで松陰を庇護し、「松陰の学術が純粋でないというなら、まず私から処分せよ」といって政府に迫ったほどだ。硬骨であるとともに、清廉潔白な性格から、郡奉行となって加増などがあると、すぐにその返上を申し出て、余分の収入はすべて治下の農民たちのために使った。まさに武士道に生きた人物といえよう。

 1856年(安政3年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任した。1859年(安政6年)、郡奉行に栄進するが、同年の「安政の大獄」で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、それに連座して1860年(万治元年)、代官職を剥奪された。

 1862年(文久2年)、奉行として復帰し、1863年(文久3年)からは代官として再び藩政に参与した。藩内では尊皇攘夷派として行動し、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では萩の守備を務めた。1869年(明治2年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。

 ところが、玉木の教育者としての心静かな生活が一変する事件が起こる。1876年(明治9年)、前原一誠が萩で新政府に対して兵を起こした。「萩の乱」だ。この不平士族の反乱に養子の玉木正誼や、松下村塾の門弟の多くが参加したため、彼は律儀にもその責任を取る形で、先祖の墓前で自害した。

 こうした事実だけをつなぎあわせると、萩の乱に連座した形で責任を取ることに本人は納得していたのか?と考えるが、実際は違うようだ。前原一誠が蜂起した際、指摘したように内治、外交に新政府は失敗が多い。内治は地租改正のため、農村の純朴な風が失われてきた。士族から武器を取り上げて四民平等などといっているが、禄高まで取り上げて、その後に何の定職もない多くの犠牲者をつくりだした。そして、政府の高官は商人と結託して巨万の富を私している。外交の面でいえば、千島・樺太の交換など大変な不利益をもたらして、それを少しも悔いようとしないなど、納得できないことばかりなのだ。それらを指摘する前原の直情径行なところが、松陰によく似ていて好ましかった。それに前原は松陰再下獄のとき、真っ先に立って政府にその非を糾弾している。そのために罰まで受けている。

 玉木文之進の切腹、それはまさに維新の原動力だった一つの思想の終末だった。長州藩の下級武士として生まれ、尊皇・攘夷の大義に則ってその道をまっしぐらに進んだ男。松陰を教育することによって、その大義は長州のみならず、四方に影響を及ぼした。それが大藩・毛利家の幕末乱世をリードする根本になったことはいうまでもない。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、司馬遼太郎「世に棲む日日」

平将門・・・単なる謀反・犯罪人とは一線を画す“義”人の部分も

 平安時代中期、各地で成長した中小の武士団が、貴族の血筋を引く者を棟梁としてより大きな集団へと成長していった。その代表格が桓武天皇から出た桓武平氏と、清和天皇から出た清和源氏だ。東国を本拠とする桓武平氏の出身の平将門は、様々な経緯があったにせよ朝廷に反旗を翻し、「新皇(しんのう)」と名乗った。現代風にいえば国家反逆罪で不敬罪?にあたるかとも思われる大罪悪人のイメージだが、その実態はどうだったのだろうか。

 平将門は、桓武天皇の曾孫で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の孫で鎮守府将軍平良将(よしまさ)の三男。彼は平安京に出仕して、藤原北家の氏の長者だった藤原忠平と主従関係を結ぶ。だが、935年に父良将が急死したため、領国へ戻った。しかし、相続をめぐって争いが起こり、一族の抗争へと発展。

抗争を続ける中で、将門に庇護を求めてきた藤原玄明をかくまい、引渡しを拒否したことなどから国司とも対立。常陸国府から宣戦布告されたため、やむなく手勢1000人余で3000の常陸国府軍と戦うことになり、これに圧倒的な勝利を収めた。だが、関東諸国の国衙を襲い、印鑑を没収したことから、朝廷から敵と見做され939年、将門は不本意ながら朝廷に反旗を翻した。

さらに武蔵権守興世(おきよ)王の勧めで坂東征服を企て、将門は常陸、下野、上野の国府を攻め落とし、関東一円を手中に収めた。そして、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し「新皇」を名乗った。これがいわゆる「平将門の乱」(935~940年)だ。

 ただ、将門がどうしてこの乱を起こしたのか。その原因についてはいくつかの説があり、今日も確定されていない。その有力な説を挙げると1.長子相続制度の確立していない当時、父良将の遺領が伯父の國香や良兼に独断で分割されていたため、争いが始まった2.常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘、あるいは良兼の娘をめぐり争いが始まった3.源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まった-などがある。どれがというより、いくつかの要因が重なって行き着くところまでいってしまった、というのが真相ではないだろうか

 しかし、関東諸国の国府を相手に戦になった場合も、将門が自己の野心から対立勢力に戦を仕掛けて、これを征伐していったというイメージはほとんどない。様々な事情を抱えて行き詰まった人物が庇護を求めてきた、あるいは彼を頼ってきた場合に行き掛かり上、不本意ながら出座し、やむにやまれず戦いに赴いた感が強いのだ。“義”に篤い人物の姿を垣間見ることができる。ただ、残念ながらこのあたりは不確定要素が多い。したがって、将門に対する歴史的評価はまだ低い。

 朝廷からの独立国建設を目指した将門は、藤原秀郷、平貞盛らに攻められ、敗死した。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られており、この点、氏素性確かな彼の死が単なる謀反・犯罪人のそれとは異なることを示している。

(参考資料)童門冬二「平将門」、村松友視「悪役のふるさと」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、永井路子「続 悪霊列 伝」、杉本苑子「野の帝王」、安部龍太郎「血の日本史」

重源・・・源平の争乱で焼失した東大寺を15年かけて復興した高僧

 俊乗房重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)上人は、当時61歳の高齢で東大寺大勧進職に就き、幾多の困難を克服して、源平の争乱で焼失した東大寺を復興した高僧だ。重源の生没年は1121(保安2)~1206年(建永元年)。

 重源は紀氏の出身で、紀季重(すえしげ)の子。17歳で刑部左衛門尉に任ぜられて、重定と名乗った。出家の動機は定かではない。真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち浄土宗の開祖、法然に学んだ。四国、熊野など各地で修行、中国(南宋)を3度訪れたという。

 1181年(養和元年)、重源は前年「南都焼き討ち」によって焼け落ちた東大寺の被害状況を視察にきた後白河法皇の使者、藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。重源、61歳のときのことだ。この後、86歳で没するまで15年間、晩年の熱情のほとんどを大仏再建に燃やし切ったのだ。

 東大寺の再建には財政的、技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に充てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自らも京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、成功している。

 重源は自らも再建作業に深く関わった。彼は建築技術を習得したといわれ、中国の技術者、陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。また、伊賀、紀伊、周防、備中、播磨、摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。

 課題も少なくなかった。最大の課題は、大仏殿の次にどの施設を再興するかという点だ。塔頭を再建したい重源と、僧たちの住まい、僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。また、重源は東大寺再建に際し、西行に奥州への砂金勧進を依頼している。

 こうした幾多の困難を克服して重源と、彼が組織した人々の働きによって、東大寺は見事に再建された。1185年(文治元年)、大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)には大仏殿を再建し、1203年(建仁3年)に総供養が行われている。これらの功績から、重源は大和尚の称号を贈られている。

 重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567年(永禄10年)、三好三人衆との戦闘で、松永久秀によって再び焼き払われてしまった。現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前部分)が残っている。

 重源の死後は臨済宗の開祖、栄西が東大寺勧進職を継いだ。東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

高木兼寛・・・海軍の脚気撲滅に尽力した最初の医学博士「ビタミンの父」

 高木兼寛は1880年代、海軍の脚気罹病者の増大で国防上の大問題となった際、その原因を突き止め、脚気の撲滅に尽力し「ビタミンの父」とも呼ばれる人物だ。明治・大正期の海軍軍医で、東京慈恵会医科大の前身を創設した。生没年は1849(嘉永2)~1920年(大正9年)。

 高木兼寛は日向国諸県郡穆佐郷(現在の宮崎県宮崎市、平成の大合併前の東諸県郡高岡町)で高木兼次の子として生まれた。兼寛(かねひろ)から「けんかん」とも呼ばれた。幼名は藤四郎。8歳から山中香山に漢学を学び、13歳のときに医学を志し、18歳で鹿児島に出て蘭医石神良策に師事した。明治元年、鹿児島九番隊付の20歳の軍医として戊辰の役に従軍。東北征討軍とともに遠く会津若松の戦場に赴いた。

しかし、この戦争に参加した兼寛は、医師として激しい衝撃を受けた。各藩の医者の大半は漢方医で治療が拙劣であり、それに比して西洋医学を身につけた軍医たちは豊かな医学知識と技術をもって治療にあたっていた。医師として無力であることを恥しく思った彼は、西洋医学を修めねばならないと思った。 
 
そして、細々と貯えておいた13両2分の金を懐に、再び鹿児島に戻って医学開成学校に入学した。ここで、彼はその後の人生を決定づける人物にめぐりあう。西郷隆盛の推薦で鹿児島へ校長として赴任してきたイギリス人医師ウイリアム・ウイリスだ。彼はこのウイリスに、イギリス医学と英語を教えられるとともに、その才能を認められイギリス留学を勧められた。

 1872年(明治5年)、海軍軍医となり、1875年(明治8年)イギリスへ留学。ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学し、1880年(明治13年)に同校を優秀な成績で卒業した。帰国後、海軍病院長、海軍省医務局長を歴任。1885年(明治18年)に海軍軍医総監、1888年(明治21年)にわが国最初の医学博士の一人となった。

 その間、兼寛は1881年(明治14年)に成医会を結成し「成医会講習所(東京慈恵会医科大の前身)」を創立、また1883年(明治16年)には「大日本私立衛生会」の創立にも加わった。
 高木兼寛の最大の功績は、脚気の原因究明および、その撲滅に尽力したことだ。1882年(明治15年)ころの海軍の脚気罹病者は1000人当たり400人にも達し、国防上の大問題となった。当時、脚気は細菌による伝染病と考えられていた。この学説の急先鋒が一等軍医森林太郎(鴎外)で、異説を唱える兼寛に痛烈な批判を浴びせかけていた。

これに対し兼寛は、ある種の栄養素の欠乏によるものと考え、食事にその原因があることを突き止め、海軍兵食の改善を図った。白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で、脚気の発症を封じ込めるのに成功した。海軍が果たした役割の大きさを考えるとき、脚気撲滅作戦の成功は、日露戦争における日本海海戦の間接的な勝因の一つという評価もあるほど。

 やがて、明治44年、東大農学部の鈴木梅太郎によって動物の栄養上欠くことのできない成分としてオリザニンが発見され、ほとんど同時にポーランドの化学者フンクによって同様成分が得られ、それがビタミンの発見となった。そして、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることが分かった。つまり兼寛はビタミンの発見にまでは至らなかったが、実証的にその存在を暗示した医家だったのだ。イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介したが、その際、兼寛を二番目に取り上げ、彼の偉大な功績を称えている。

(参考資料)吉村昭「白い航跡」、吉村昭「日本医家伝」