「英傑・名将の知られざる実像」カテゴリーアーカイブ

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

 明治天皇は薩長両藩による討幕運動が風雲急を告げる中、俄に崩御した父、孝明天皇より皇位を継承、王政復古により新政府を樹立。1868年、明治と改元して、天皇の代替わりに合わせて元号を変更する「一世一元」と定め、京都から東京へ遷都。大日本帝国憲法や教育勅語・軍人勅諭などを発布して、近代立憲国家の指導者として活躍、その功績から戦前には「明治大帝」とも呼ばれた。ただ天皇として、前例のない時代を生き抜いた人物だけに、人間として彼の意思がどこまで貫けたか?とくに大日本帝国憲法下における「統帥権」の問題とからみ、その人物評価は輻輳するところで、極めて難しい。明治天皇の生没年は1852(嘉永5)~1912年(大正元年)。

 明治天皇は第123代天皇(在位1867~1912年)。名は睦仁(むつひと。幼名は祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第二皇子。母は権大納言、中山忠能(ただやす)の娘、中山慶子(よしこ)。幼少時を祖父、忠能のもとで過ごした後、1856年(安政3年)内裏へ移った。睦仁親王は父、孝明天皇ともども多難な時代と遭遇し、政治の渦中に巻き込まれた。嘉永、安政年間(1848~1860)には黒船の来航をはじめとして欧米列強による開国要求が相次ぎ、幕府の権威が失墜。朝廷が政治の中心に組み込まれると、天皇も国難に直面せざるを得なくなった。

 「八月十八日の政変」(1863年)、「禁門の変」(1864年)を経て、事態は薩長両藩による討幕運動へと発展する中、孝明天皇は俄に崩御。1867年(慶応3年)睦仁親王が満14歳で践祚の儀が行われ、即位した。1868年(明治元年)、五箇条の御誓文に基づき、太政官の権力集中、三権分立主義、官吏公選などを規定した政体書によって、新しい政治制度を確立するなど新政府の基本方針を表明した。また、明治と改元して「一世一元」の制を定めた。

 明治天皇は若年で即位したため、明治維新は側近の岩倉具視らの主導で推進されたが、公武合体論者の孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変するのに十分で、それ以後、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進んだ。端的には、1868年1月からの「戊辰戦争」で旧幕府勢力を打倒、その環境が整ったわけだ。1871年(明治4年)6月、明治天皇は廃藩置県を断行して中央集権体制を固めていった。と同時に宮中改革も実施され、天皇の生活環境も大きく変わっていった。学問所では元田永孚(ながざね)や加藤弘之が侍講として漢学や洋学を進講した。また侍従となった山岡鉄舟や村田新八によって、武術などの訓練を受けた。これにより、ややひ弱だった若年の天皇が、次第に文武両道に長じた柔和な青年君主に成長していった。

 話は相前後するが、明治初年以降、天皇は全国各地を巡幸することも増え、国内民衆に広く接して、新しい日本の君主としての存在を印象付けた。加えて、外国の使節や賓客と会見することも多く、明治12年に来日した前アメリカ大統領グラントとの会議では、近代国家建設のための多くの助言を得ている。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法を発布。帝国議会開設後は政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を、また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たすなど、近代日本の指導者として活躍。その功績から戦前には明治大帝とも呼ばれた。

 明治維新後を展望した坂本龍馬の語録がある。龍馬はその中で、「本当なら、幕府が倒れた後の日本人の精神的な拠り所はキリスト教がいいのだが、これは日本に馴染まない。では、代わりにいったい何を持ってくるか、天皇以外にない」といっている。明治政府の首脳陣はこの考えを実行した。つまり、天皇を「生きた神様」として、日本国民の上に君臨させようとしたのだ。ある意味で、当時の首脳部にすれば、やむを得なかったことかもしれない。ただ、その天皇がいままでのように、御所の奥に隠れ住み、いわゆる“雲の上の存在”として、そのままいたのでは、国民にとってありがたみが薄い。もっと民衆の前に現れる存在としての、世界に類例のない帝王学が明治天皇に望まれたことは確かだ。そのための行き過ぎもあった。

 明治天皇は幕末から明治維新、そして明治という前例のない時代を生き抜いた。しかし、人間として明治天皇の意思がどこまで貫けたかは極めて難しい問題だ。日清・日露戦争など心ならずも、そういう決定をしなければならないことも多々あったに違いない。ただ、かといって明治天皇の生涯をみていると、すべて周囲の言いなりになったわけではない。あるときには頑固なまでに自分の意思を貫いた。総合的な人物評価は難しい。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉森久英「明治天皇」、童門冬二「明治天皇の生涯」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

 「薬子の変」を経て、朝廷が安定を回復した、嵯峨天皇・上皇の御世、嵯峨が大御所として文字通り王権を統べていた時代、弘仁、天長、承和にわたる30年間は政局も安定し、平安文化が花開いた時期だ。空海(弘法大師)、小野篁(たかむら)ら多くの人材が輩出し、律令制を整備するため『弘仁格(きゃく)』『弘仁式』が編纂され、勅撰の漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が編まれ、唐風文化が隆盛となった。能筆家の嵯峨天皇が、空海、橘逸勢(はやなり)とともに「三筆」と称されたことは周知の通りだ。嵯峨天皇の生没年は786(延暦5)~842年(承和9年)。

 嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子。諱を神野(賀美能、かみの)といい、母は父・桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)。806年(大同元年)5月、兄・平城(へいぜい)天皇の皇太子となり、809年(大同4年)病気の兄から譲位され、即位した。皇后には橘嘉智子(かちこ)を立て、交野(たかの)女王と大原全子(おおはらのまたこ)を妃に迎えた。橘嘉智子との間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)、正子(せいし)内親王(淳和天皇の皇后)をもうけ、交野女王との間には有智子(うちこ)内親王、大原全子との間には源融(とおる)が生まれた。

 病気のために譲位したはずの平城上皇が、譲位後にわかに健康を取り戻したか、側近の藤原薬子や兄・仲成らとともに、政権奪回を目指して容喙(ようかい)するようになった。そこで嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣を蔵人頭に任じてこれに対抗した。810年(弘仁元年)、平城上皇方が平城遷都の命を出したことから、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂らを派遣して上皇方を制圧した。これにより、上皇は出家、薬子は自害、仲成は射殺され、皇太子・高岳親王も廃されたため、嵯峨天皇の朝廷は安定を回復した。

 嵯峨天皇は、性格的に兄の平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物だった。彼は決して親政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねるという方針をとっていた。そして、父・桓武とは大いに異なり、14年間の執政に飽き飽きして、何とか王座を離れようとしていた。823年(弘仁14年)4月、嵯峨は冷然院(れいぜんいん)という離宮に移り、右大臣・藤原冬嗣に退位を伝えた。冬嗣は即座に反対した。しかし、嵯峨は皇太弟に皇位を譲った。即位したのが淳和天皇だ。

 嵯峨上皇が冷然院で自適の生活を始めたのは38歳のときだ。嵯峨はこれから19年間、文字通り大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の前半を見守ることになる。嵯峨上皇の大家父長制のもとに、王権の継承はすこぶる平穏に行われた。嵯峨も父・桓武に劣らず女色を好み、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけた。そして、身分の高くない母の子女には源(みなもと)姓を与えて臣籍にうつした。仁明朝に至って、彼らの多くは政界に進出し、中でも源常(ときわ)は、左大臣・藤原緒嗣(おつぐ)の没した年の翌844年(承和11年)にその地位を襲い、その兄・信(まこと)は中納言だった。他に参議に列していた者もいた。嵯峨源氏は、藤原氏の諸流に対抗する一大勢力だった。

 嵯峨上皇は、その血族で王権を固めたばかりでなく、藤原氏との連携あるいは結託も疎かにしなかった。とくに彼は冬嗣との関係を深め、娘・源潔姫(きよひめ)を冬嗣の次子・良房に与えている。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだった。こうして冬嗣・良房の藤原北家の流れは、この大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。その結果、仁明朝の848年(嘉祥1年)には、源常(37歳)は左大臣、藤原良房(45歳)は右大臣、そして源信(39歳)は大納言と、嵯峨源氏と藤原北家が朝廷の政権中枢を張り合った時期も出現した。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」、司馬遼太郎「空海の風景」

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

 宮部鼎蔵は尊皇攘夷派の肥後熊本藩士で、山鹿流軍学師範を務めた英才だった。兵学、儒学のほか国学に造詣が深く、思想面で長州藩士、吉田松陰に影響を与えた人物だ。嘉永年間にはその松陰と東北地方の事情調査を敢行している。松陰の刑死後も、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞ら長州藩の志士たちと交わり、肥後勤王党の中心人物として反幕府活動に挺身した。1864年(元治元年)京都三条の池田屋で長州、土佐、肥後などの各藩同士と密議しているところを新選組に襲われ、彼は重傷を負い、自刃して果てた。宮部鼎蔵の生没年は1820(文政3)~1864年(元治元年)。

 宮部鼎蔵は肥後国益城郡田代村(現在の熊本県上益城郡御船町上野)で宮部春吾の長男として生まれた。諱は増実、号は田城。鼎三とも記される。養父は叔父、宮部丈左衛門。実弟に春蔵がいる。実家は代々医者の家庭。鼎蔵は山鹿流軍学を学び、1850年(嘉永3年)30歳で肥後藩の兵学師範に任じられた。翌年、藩命で江戸へ赴いた際、長州藩の吉田松陰と出会い、意気投合。親交を深め房総や東北諸藩を遊歴。諸国の志士たちと交遊した。また、林桜園に師事し国学などを学んだ。

 1858年(安政5年)「安政の大獄」で松陰が刑死した後、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞、高杉晋作ら長州藩の志士たちと交わり、尊皇攘夷派に傾倒していく。1861年(文久元年)、鼎蔵は肥後勤王党に参加した。このころには全国の勤皇派志士の間では名前が知られる存在になっていた。1862年(文久2年)には清河八郎も鼎蔵を訪ね、肥後にきている。

 1863年8月18日、禁裏九門の一つ堺町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれた。長州藩過激派が尊皇攘夷派公家と内通し、倒幕を目論んでいたことが露見したからだ。長州藩の解任は、公武合体派の薩摩藩が京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派を京都から一掃しようと起こしたクーデター(八月十八日の政変)だった。

 この日、勤王党親兵として京に上っていた、全国の32藩・3000の兵士が宮部鼎蔵の指揮下にあった。鼎蔵は尊攘派の公家の代表、三条実美に「(孝明天皇の)御前に出で、今日の参内停止の理由を、お問い糾し下さりますよう」と、出馬を促した。だが、実美は「万策尽きた今、兵を引き連れての参内は相手に口実を与えるだけ」といって動かなかった。こうして鼎蔵の巻き返し策は、陽の目を見ることなく終わり、三条、三条西、東久世、四条、壬生、錦小路、沢の尊攘派公家7人が朝廷を追われ、京都を追放され、長州へと逃れた(七卿落ち)。

 翌19日、鼎蔵は七卿の側を守って長州兵の一団と伏見へ向けて発ったが、その途中、彼は一団から離れ、京・兵庫・徳島、そして鳥取などへ、諸方を説いて、また周旋を頼むため、この日を境に慌しく走り回る日々が始まった。鼎蔵は長州藩の桂小五郎より17歳、久坂玄瑞より20歳、土佐の中岡慎太郎より12歳それぞれ年上だった。尊攘派の志士の中で、40歳を越した分別盛りの人間といえば、この宮部鼎蔵だった。しかも勤王党総督「三条実美公」のもとで、彼は親兵総監に任じられ、諸藩に名を知られた軍学者でもあった。七卿も長州藩も鼎蔵に依存するところが多かった。

 1864年(元治元年)、鼎蔵は京に入り、いつものように枡屋喜右衛門方に泊っていた。枡屋は、四条河原町を上って一筋目を東に入った場所だ。6月5日の朝、情報の要、枡屋が突然、新選組に襲われ、主人の喜右衛門が連行された。鼎蔵は幸い4日の夜は他宿したため、無事だった。枡屋の主人が連行されたとの知らせは、うまく虎口を逃れた店の者たちによって諸方の志士たちに知らされた。そして、鼎蔵は同夜八時に三条池田屋に集まるように連絡を受けた。街は祇園祭の宵宮で、囃子の音が鳴り響いていた、四条通の人波はあふれて、三条のあたりまで浴衣がけで男女が行き交っていた。その人波を縫うようにして、鼎蔵は池田屋にやってきた。同士が全部揃ったのは八時半を少し回ったころだ。

 長州は吉田稔麿、杉山松助、広岡浪秀、佐伯靱彦、土佐は野老山吉五郎、石川潤次郎、北添佶麿、望月義澄、播州は大高忠兵衛、同又次郎、そして聖護院の西川耕蔵といった面々だった。桂小五郎もやがて顔をみせることになっていた。実は時間通りにやってきた桂は、別の用事を済ませて戻ると言伝して出て行ったのだ。集まった面々は、枡屋のことですっかり興奮していた。鼎蔵は、ここは兵学者として冷静な対応を説いておかなければと考え、食事の膳に着いたときだった。階下で大声がした。聞き耳を立てた北添が梯子団を降りていくと、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、胴丸を着けた大勢の男たちが、抜き身を下げて立っていたのだ。新選組だった。彼らの会合は、新選組に嗅ぎ付けられていたのだ。もう手遅れだった。逃げ場はなかった。

 「諸君、脇差でよい、室内の立ち廻りには、太刀は必要でない。体ごとぶつかるのだ。そして逃げろ、逃げられるだけ逃げるんだぞ」鼎蔵は大声をあげて指令した。だが、多勢に無勢、その鼎蔵は重傷を負い、絶体絶命の危機だった。そこで彼は、新選組に捕縛されることを恥辱として、自刃して果てた。あっけない死だった。宮部鼎蔵は洛中の尊攘派志士たちの重鎮として活躍していただけに、彼の死は全国の尊攘派志士たちに大きな影響を与えた。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、森友幸照「吉田松陰 男の自己変革」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」

橘諸兄 聖武天皇を補佐し、生前に正一位に叙された初代橘氏長者

橘諸兄 聖武天皇を補佐し、生前に正一位に叙された初代橘氏長者

 橘諸兄(たちばなのもろえ)は元皇族で、聖武天皇の御世、国政を担当した奈良時代の政治家で、生前に正一位に叙された、数少ない人物の一人だ。諸兄は、後に朝廷内の実力者、藤原不比等の後妻となった県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)を母に持ち、三千代が最初、皇族の美努王(みぬおう)に嫁した際、もうけた二男一女のうちの一人だ。当時、葛城王(葛木王とも、かつらぎのおおきみ)といった。

 母・三千代は、やがて大宰帥・美努王との生活が破綻し、文武天皇の時代、不比等の妻となり、安宿媛(光明子)を産んだのだ。早世した息子、文武天皇の後を受けた母・元明女帝は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼し、即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その労をねぎらい橘の氏称を賜与(しよ)したのだ。これを機に橘氏が登場することになった。736年(天平8年)、弟の佐為王とともに母・橘三千代の姓、橘宿禰を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗った。諸兄が初代橘氏長者だ。諸兄の生没年は684(天武天皇13)~757年(天平勝宝9年)。

 橘諸兄の大出世は、まさに“棚からぼた餅”式の幸運に恵まれたものだった。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ朝廷の高官らが、当時大流行した疫病(天然痘)で相次いで亡くなったのだ。その結果、出仕できる公卿は従三位・左大弁だった橘諸兄と、同じく従三位・大蔵卿の鈴鹿王のみとなった。そこで朝廷では急遽、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王を知太政官事(ちだじょうかんじ)に任命して応急的な体制を整えた。不測の、やむを得ない事態だったとはいえ、諸兄にとっては大抜擢人事を受けた形となった。

 翌年、諸兄は遂に正三位・右大臣に任命され一躍、朝廷の中心的存在となった。これ以降、国政は諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。そして743年(天平15年)、諸兄は、従一位・左大臣となり、749年(天平勝宝元年)、正一位に叙された。生前に正一位に叙された人物は日本史上、わずか6人しかいないが、諸兄はその栄誉に浴したわけだ。

 ただ諸兄にとって、官位は頂点まで昇り詰め、朝政の要となったものの、政権運営は決してスムーズに運べる状況にはなかった。天平勝宝年間(749~757年)は二重権力の時代だった。一つは聖武太上天皇を上に戴く橘諸兄を中心とする「太政官」の権力であり、もう一つは光明皇太后を上に戴く、藤原仲麻呂を中心とする「紫微中台(しびちゅうだい)」の権力だ。この二つの権力の接合点、あるいは調和点として孝謙女帝が存在していた。本来、公式的には太政官権力が国家を代表するはずなのだが、実際は「紫微中台」の権力が強かった。

 だが、756年(天平勝宝8年)、権力の一方に大きな変化が起こった。重い病の床に就いていた聖武太上天皇が亡くなり、支えを失った橘諸兄は左大臣の位を去ったのだ。そして757年(天平勝宝9年)、諸兄は疫病であっけなく亡くなってしまった。その結果、権力が一元化され、藤原仲麻呂の勝利が目前に迫ったとき、これまでの「聖武帝=橘諸兄」ラインにつながる皇親、宮臣たちが乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けに出た。それが諸兄の長男、奈良麻呂が起こした「橘奈良麻呂の変」だった。

 しかし、実はこの「橘奈良麻呂の変」(757年)の実態がよく分かっていない。橘奈良麻呂は、病気の聖武天皇の後は、黄文(きぶみ)王父子を中心に多治比(たじひ)氏と小野氏が政治を補佐し、大伴・佐伯両氏の武力でその政権を守らせるという計画だったという。この際、奈良麻呂が一番頼りとしていたのは大伴・佐伯両氏の武力だ。大伴古麻呂はすでに奈良麻呂の味方で、万全を期すべく佐伯全成(さえきのまたなり)を味方につけるため奈良麻呂は再三にわたって、誘いをかけている。実際、確かに陰謀はあった。が、本当にクーデターの実行計画はあったのか?

 いずれにしても、この計画は未遂に終わり、失敗。嫌疑をかけられた者たちへの凄惨を極めた、拷問を含めた取り調べにより、黄文王、道祖(ふなど)王、それに大伴古麻呂、多治比犢養(うしかい)、小野東人(おののあずまひと)、鴨角足(かものつのたり)らは拷問を受け死んだ。黄文王の兄、安宿王も妻子とともに佐渡配流、佐伯大成(おおなり)、大伴古慈斐(こしび)は各々任国の信濃、土佐に配流、多治比国人は伊豆配流、佐伯全成は自殺した。

 この事件によって古代豪族、大伴・佐伯両氏は致命的打撃を受けた。要するに、この橘奈良麻呂の変は、クーデターの嫌疑を理由に反藤原仲麻呂派を一掃しようとしたものだった。もっと突き詰めていえば、反仲麻呂派を一掃するために、奈良麻呂らに謀(はかりごと)をめぐらせる時間を与え、泳がせていたのではないか-とみることもできる。しかし、勝利に酔っている時間はわずかだ。この報いは10年も経たないうちにやってくる。764年(天平宝字8年)、「藤原仲麻呂の乱」がそれで、権勢を誇り、「恵美押勝(えみのおしかつ)」とも呼ばれた藤原仲麻呂は琵琶湖畔で一族とともに自害して果てている。

(参考資料)梅原 猛「海人(あま)と天皇 日本とは何か」、笠原英彦「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」、神一行編「飛鳥時代の謎」、杉本苑子「穢土荘厳(えどしょうごん)」、杉本苑子「檀林皇后私譜」

吉田忠雄 世界で知名度の高い「YKKファスナー」の創業者

吉田忠雄 世界で知名度の高い「YKKファスナー」の創業者

 「メイド・イン・ジャパン」から、いまや世界各国の進出先でしっかり根を下す日本製品がある。『YKKファスナー』だ。世界で愛用される数多い日本製品の中でも、すそ野の広さでは断然で、このYKKの知名度が驚くほど高いのではないだろうか。原料から工作機械まで自前調達する徹底した一貫生産主義で、世界シェア50%強というガリバー企業を育て上げた吉田忠雄(よしだただお)は、そのYKKの創業者だ。吉田忠雄の生没年は1908(明治41)~1993年(平成5年)。

 吉田忠雄は富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれた。1923年、魚津尋常小学校卒業。経済的事情で進学を諦め、地元で働きながら通信教育で学んだ。1928年(昭和3年)、20歳のとき上京。古谷商店の社員を経て、1934年(昭和9年)にYKKの前身、サンエス商会を設立し、ファスナーの生産・販売を始めた。これは上京以来、勤めていた、同郷人が経営していた古谷商店が倒産し、店が扱っていたファスナー事業を引き受けたものだった。以後、YKKを世界的な企業に育て上げていった。

とはいえ、YKK発展の足跡をたどると、吉田が常にこだわり譲らなかった部分といくつかの節目がみえてくる。吉田はときに大風呂敷とも取れる発言をすることがあった。彼は日立精機にいきなりまとめて百台の機械を発注したのだ。そして、ノウハウを学び取るや、自前の機械工場を作ってしまう。だから、吉田にとっては決して単なる大風呂敷などではなく、実践の裏づけが必ずあったのだ。また、原材料の紡績や染色、溶解、伸銅の工場と順次、自前調達の分野を広げていった。

 自分で努力しても、原材料が悪ければ優れた製品には仕上がらない-。吉田がこだわった、原料から製品までの独特の一貫生産方式は、物事をトコトン突き詰めていく生来の性格の産物だった。アルミ合金生産から生まれた住宅、ビル向けサッシがヒットし、工作機械でも日本の有力企業に成長した。

 ファスナー事業の一つの転機となったのが、1954年(昭和29年)の欧米初視察だった。この旅が吉田に大飛躍のきっかけを与えた。本で読んだ米国の自動車会社の自動化ラインを目の当たりにし、夢いっぱい膨らませて帰国した。彼は身の丈以上の巨額の設備投資で自動化・省力化ラインを整備。ここからファスナーの材料革命といわれた高品質素材のアルミニウム合金「56S」やコンシールファスナー(表面から見えないファスナー)など画期的製品が誕生した。用途はアパレルからバッグ類、スポーツ用品に広がり、国内シェアも90%を超えた。

 吉田には成果を、需要家と関連産業、そして自社に三分配するという経営哲学があった。これは少年時代、伝記を読んで感銘を受けた“鉄鋼王”カーネギーの「他人の利益をはからなければ、自らも栄えない」という考え方にサジェッションを得たものだった。この経営哲学は、1959年(昭和34年)のインドを手始めに急ピッチで推し進められた海外進出でも見事に貫かれた。その結果、2010年(平成22年)現在、世界71カ国114社(国内22社・海外92社)のグループ会社を擁する、YKKグループに発展している。そして、どこでも一貫生産方式の基本は変わらない。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 吉田忠雄」

岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折

岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折

 岩瀬忠震(いわせただなり)は、江戸時代後期の幕臣で、開明派の官僚の第一人者と目された人物だ。旗本の三男に生まれたこともあり、生涯部屋住みの身で、一時は大名格に昇ったこともあった。だが、十三代将軍家定の後継争いで、敗れた一橋派を支持していたため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、左遷され、出世の道を断たれ、さらに蟄居を命じられた。岩瀬忠震は、旗本の設楽貞丈(しだらさだとも)の三男として生まれた。名は修理(しゅり)、通称は篤三郎。字は百里。母は、大学頭・林羅山を祖とする名門、林述斎の娘、純。従兄弟に堀利煕がいる。後に岩瀬忠正の養子となった。岩瀬忠震の生没年は1818(文政元)~1861年(文久元年)。

 岩瀬忠震は幕府の学問所、昌平こうに入門。後に徽典館の学頭として甲府に赴いた。任期を終え、江戸に戻り昌平こうの教授となった。やがて、黒船の来航(1853年)により、日本は幕末という混乱の時代を迎えた。そうした時代状況の中、幕閣で岩瀬の優れた才覚を見い出したのが、時の老中首座・阿部正弘だった。阿部によって、岩瀬は歴史の表舞台に駆け上った。岩瀬は1853年(嘉永6年)、部屋住みの身で徒頭(かちがしら)となり、1855年(安政2年)には従五位下伊賀守に叙任され、部屋住みの身で大名格に昇ることになった。また目付に任じられ、海防掛となり、軍艦操練所や洋学所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。

 岩瀬はその後も外国奉行にまで出世し、ロシアのプチャーチンと交渉して日露和親条約締結に臨んだほか、当時の日本にとって重要だった日米修好通商条約(1858年締結)に下田奉行・井上清直(いのうえきよなお)とともに全権に任じられるなど、次々と重要な条約交渉を担当、開国に積極的な開明的な外交官だった。1858年(安政5年)、条約の勅許奏請のため、岩瀬は勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、老中堀田正睦の上洛に副役として随行している。しかし、朝廷の理解は得られず、勅許を得ないまま江戸に下った。しかし、当時、諸外国との条約交渉は待ったなしの情勢となっていた。

 万難を排して1858年(安政5年)、条約調印にこぎつけたのは、岩瀬をはじめとする優れた幕府外交官の尽力によるものだった。中でも岩瀬はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国すべての条約調印にただ一人参加した。岩瀬が外交官として活躍した時期はわずか5年だが、日本にとって最も大切な5年だった。岩瀬はまた、ホンネとタテマエを使い分けるような人物でもなかった。幕府は条約で決められた神奈川宿に代えて、対岸の横浜村に開港場を設けることとした。だが、岩瀬は条約の文言を重視して、締結した条約の内容通り、神奈川開港を主張したのだ。

 岩瀬には出世欲などなかったのかも知れないが、客観的にみると彼の立身とからみ、大きな障害となったのが、将軍後継問題に対する彼の態度だった。この“踏み絵”が岩瀬にとって、大きな読み違いとなり、人生の挫折に追い込まれる事態となった。紀州・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を支持する紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の徳川十三代将軍家定の後継争いで、岩瀬は一橋派の中心人物として行動したのだ。そのため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、作事奉行に左遷された。一橋派を支持した代償はとてつもなく大きかったというわけだ。そして、1859年(安政6年)には免職・蟄居を命じられた。その後は江戸向島で、花鳥風月を友として、詩作に勤しみ、部屋住みのまま44年の生涯を終えたという。

(参考資料)松岡英夫「岩瀬忠震-日本を開国させた外交官」、奈良本辰也「歴史に学ぶ ペリーの来航、橋本左内の統一国家思想」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村 昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」、津本 陽「開国」、童門冬二「最初の幕臣外交官 川路聖謨」

間部詮房 家宣・家継の二代にわたり側用人として幕政の采配振るう

間部詮房 家宣・家継の二代にわたり側用人として幕政の采配振るう

 間部詮房(まなべあきふさ)は徳川六代将軍家宣の治政下、顧問格として起用された儒学者・新井白石とともに、家宣の善政「正徳の治」を推進、将軍の側用人として実務を執行した人物だ。普通なら間部詮房は後世にもっと功績を残す存在となっていたかも知れない。しかし、彼が仕えた家宣が将軍に就任したときは、すでに49歳。しかも家宣は学究肌で虚弱だったから、将軍在任期間は限られていた。家宣は在職わずか4年で病床に臥す身となったのだ。

 間部は後継の第七代将軍家継の側用人としても幕政の采配を振るった。ただ、周知の通り、満三年9カ月、数え年5歳という年齢で誕生した徳川七代目の幼将軍家継も健康には恵まれず、将軍在任はわずか3年に過ぎなかった。家宣・家継二代合わせてもわずか7年だった。その結果、間部の評価は意外に低い。

 間部詮房は、温厚でありながら、決断力もあった。が、真の理解者は家宣だけだった。家宣の死後、詮房が大奥へ頻繁に出入りし、とりわけ月光院と面談することが多かったことから、二人の間に男女関係があるのではないか-とのスキャンダルが大きな話題となった。月光院は亡くなった家宣の側室、お喜世の方のことで、七代将軍家継の生母だ。したがって、本来、将軍の側用人として幼い将軍の健康や教育・しつけなどについて相談することが多くても何ら不思議ではないのだが、なぜかスキャンダルの風評が飛び交ったのだ。そのことも彼の人物評価に響いている部分があるのかも知れない。

 ただ、研究者によっては、月光院と間部詮房の“情事”スキャンダルは、公然の秘密だったとする指摘もある。吉宗の将軍登場の直後、京都では、次のような落首があらわれた。

「いわけなき鶴の子よりも色深き 若紫の後家ぞ得ならぬ」

「おぼろ月に手をとりかはし吹上の 御庭の花の宴もつきたり」

 その情事は京都にも聞こえており、新将軍ができたから、もうダメだぞという意味だ。

 間部詮房は、徳川綱重(徳川三代将軍家光の三男)が藩主時代の甲府藩士・西田喜兵衛清貞の長男として生まれた。通称は右京、宮内。間部宮内は猿楽師(現在の能役者)喜多七大夫の弟子だったが、1684年(貞享元年)、甲府藩主・徳川綱豊(綱重の子、後の徳川六代将軍家宣)に仕え、綱豊の寵愛を受け、やがて小姓に用いられた。これより前、苗字を「間鍋」に改称していたが、綱豊の命により「間部」と改めたという。甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに間部詮房の名がみられる。上野国高崎藩主、越後国村上藩の間部家初代藩主。生没年は1666(寛文6)~1720年(享保5年)。

 1704年(宝永元年)、五代将軍・徳川綱吉の養子となった徳川綱豊の江戸城西の丸入城に伴い、甲府徳川家臣団は幕臣に編入され、間部詮房は従五位下越前守に叙任し、側衆になり1500石加増された。その後も順次加増を受け、1706年(宝永3年)には若年寄格として相模国内で1万石の大名となった。

 1709年(宝永6年)家宣(綱豊から改名)が六代将軍に就任すると、詮房は老中格側用人に昇り、侍従に任ぜられ、3万石に加増された。さらに、1710年(宝永7年)には上野国高崎城主として5万石に遇せられた。異例のスピード出世だった。そして、詮房は六代将軍家宣、儒学者・新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や、将軍に対して強い影響力を持つ大奥などの勢力を巧みに捌き、「正徳の治」を断行した。

 だが、詮房は側用人としてトロイカ体制で改革を推進したことで、幕閣の徳川譜代大名との間に溝が生まれ、半ば浮き上がった存在になってしまった。そして、それは家宣が健在の間はまだ問題は表面化しなかったが、家宣が亡くなり、七代幼将軍・家継も早世して、吉宗が八代将軍に就くと、一気に噴出。詮房は新井白石とともにあっけなく失脚した。後ろ楯となっていた家宣がいなくなっては、立脚基盤が弱い詮房にとっては成す術はなかった。ただ、詮房は老中職を罷免されたとはいえ、大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から地方の越後国村上藩に左遷されたにとどまった。石高も形のうえでは5万石のまま変わらなかった。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、徳永真一郎「徳川吉宗」、杉本苑子「絵島疑獄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

梶原景時 頼朝の信頼厚く重用された実力者が、あっけなく失脚、一族滅亡

梶原景時 頼朝の信頼厚く重用された実力者が、あっけなく失脚、一族滅亡

 梶原景時は1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵(「石橋山の戦い」)し、敗れた源頼朝を救ったことから、鎌倉幕府開設後、頼朝の信任厚く重用された。しかし、他の御家人たちから怖れられたそんな実力者、景時も頼朝の死後、1200年(正治2年)鎌倉幕府内で起こった政争、「梶原景時の変」により幕府から追放された。そして、1180~1185年繰り広げられた「治承・寿永の乱」(源平合戦)で活躍した嫡男・景季らを含め、鎌倉幕府の有力御家人、梶原一族は実にあっけなく失脚、滅ぼされた。

 梶原景時は、相模国(現在の神奈川県)の豪族・鎌倉氏の流れで、父・梶原景清(かげきよ)、母・横山孝兼(たかかね)との間に生まれた。通称は平三(へいぞう)。景時の生没年は1140(保延6)?~1200年(正治2年)。頼朝に重用され、侍所所司(准長官あるいは次官)、厩(うまや)別当を務めている。侍所は防衛省と検察庁を合わせたような、軍事政権の幕府の中枢を占める役所だ。景時の本拠は現在の鎌倉市の西部、梶原山の一帯で、いわば鎌倉の地元勢だ。だが、出自は一介の大庭氏の支族で、小領主に過ぎなかった。

 景時が頼朝に重用されるようになった経緯は冒頭に述べた通りだ。もう少し詳しく紹介すると、石橋山の合戦当時、景時は従兄の大庭景親に従って頼朝を攻める側にあった。だが、密かに頼朝に心を寄せ、山中に逃げ込んだ頼朝の居場所を知りながら、わざと見逃したという。景時は、鎌倉幕府の初代・征夷大将軍の頼朝にとって、気働きのある重宝な男だったとみえて、以後、鎌倉における難事の取締役-いわば庶務部長といった役を器用にこなした。恐ろしいほど頼朝の心を見抜く術も心得ていて、頼朝の意向を汲んで上総広常を双六のもつれに事寄せて、殺してしまった。ドロを被ることをいとわなかった。

 広常は、鎌倉幕府の有力御家人の中でも、配下の将兵で最大級の勢力を揃えていたため、力を恃(たの)んで、ともすれば頼朝を蔑(ないがし)ろにする傾きがあった。しかし、幕府の内部がまだ固まっていないそのころ、正面切って広常追討を打ち出せば、混乱が起こるのは必定だ。それを表立てずに、巧みに処理した景時の侍所所司としての腕は、見事なものだった。また、そういう男にポストを与えた頼朝の人事の冴えもあった。

 有力御家人の諸勢力の微妙なバランスのうえに成り立っていた源家将軍・鎌倉幕府の創始者=鎌倉殿・頼朝は、滅多に本心を見せず、誰かに動かされてという形を取りたがる。非難を受ける恐れのあるときは、とくにそうだ。だが、景時はそれを知りつつ、進んで頼朝の意向を代弁する役を引き受けた。それによって、頼朝の東国の王者としての位置が強まるのなら、ためらうことはなかった。それがひいては、武家社会を推し進めるのだという信念がますます景時を傲岸にした。彼が執拗に九郎判官義経の追討を主張したのもこのためだ。

 侍所所司の景時は、御家人を動員したり、その功徳を調査する。いわば軍事・警察の責任者だったが、これをあまり徹底的にやりすぎて憎まれた。後世、彼を讒言者だというのは感情的な評価で、真実は彼があまり規則を厳正に実行し過ぎたために、比企能員ら有力御家人にも反感を買い、失脚したのだ。

 東国武士団には欠けていた、教養があり、和歌を好む実務型官僚の景時の存在は、幕府内の有力御家人の中では異色で、頼朝はその点きちんと評価し重用したのだが、ある意味でその最大の庇護者だった頼朝が亡くなると、景時は孤立していった。66人もの御家人が署名した、景時に対する弾劾状が如実のその実態を物語っている。景時を憎む者、過去に何かのことで彼に恨みを持つものがいかに多かったかが分かる。弾劾状を提出された二代・頼家が、これを景時に示したとき、彼は一言の弁解もせずに鎌倉を去り、相模一宮の本拠に引き籠もってしまったのだ。これが「梶原景時の変」と呼ばれる事変の伏線となった

 1199年(正治元年)事態は動き出した。そして、景時はその翌1200年(正治2年)の正月、手勢を率いて上洛しようとした。だが、結局、駿河の清見が関の近くにきたところで土地の御家人たちに討たれて、一族とともにあっけない最期を遂げた。路上には景時以下、嫡子・景季(39歳)、景茂(34歳)、さらに景国、景宗、景則、景連ら一族33名の首が架けられた。頼朝の死から1年後のことだった。そして、このことが結果的に二代将軍・頼家の時代をより短命にしたといえる。なぜなら、景時の妻は頼家の乳母の一人だったから、景時は頼家の乳母夫だったのだ。したがって、景時は本来、頼家にとって信頼に値する存在だったはずなのだ。だが頼家はこのことに気付かず、あるいはほとんど意識せず、景時を追い込んで、自らの存立基盤を弱めてしまったのではないか。

(参考資料)永井路子「炎環」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「梶原景時があっけなく失脚した理由」、永井路子「北条政子」

会津八一 奈良の古美術研究をライフワークとした歌人・書家・美術史家

会津八一 奈良の古美術研究をライフワークとした歌人・書家・美術史家

 会津八一は明治時代後半~昭和時代前半の歌人・書家・美術史家だ。万葉風を近代化した独自の歌風を確立した人物だ。妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られた。故郷、新潟の高校の教員時代は多くの俳句、俳論を残したほか、早稲田大学講師時代には美術史研究のためにしばしば奈良へ旅行し、まとめた仏教美術史研究『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)で学位を受けている。生涯、妻帯することはなかった。八一の生没年は1881(明治14)~1956年(昭和31年)。

 会津八一は新潟市に生まれた。雅号は秋艸道人(しゅうぞうどうじん)、渾斎(こんさい)。中学生のころから『万葉集』や良寛の歌に親しみ、俳句・短歌を始めた。新潟県尋常中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遥や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、1906年、早稲田大学英文科を卒業した。卒業後は新潟に戻り、私立有恒(ゆうこう)学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)の教員となり、多くの俳句・俳論を残した。

 1908年、八一は28歳のとき初めて奈良を旅行。以後、生涯にわたり大和一円の仏教をはじめとする古美術研究をライフワークとした。1910年、坪内逍遥の招聘により上京、早稲田中学校の教員となった。1925年には早稲田高等学院教授となり、翌年には早稲田大学文学部講師を兼任。美術史関連の講義を担当、研究のためにしばしば奈良へ赴いた。この成果となったのが仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)で、この論文で彼は学位を受けた。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に、彼は主任教授に就任した。まさに彼にふさわしいポストだった。

 八一にとって、奈良は特別な場所だった。もし彼が奈良へ旅行することがなければ、歌人・八一も、書家・八一も、まして美術史家・八一も誕生しなかったのではないか。八一に奈良の魅力を吹き込んだのは、井原西鶴の再評価に力を尽くした淡島寒月(あわしまかんげつ)だ。二人の出会いは八一が24歳のとき。ただ、八一はその2年後、故郷新潟の私立有恒学舎に英語教師として赴任。奈良とのつながりは遠のいたかにみえた。しかし、八一には相思相愛の恋人がいた。その恋人を東京に残したままの、辛い赴任だった。彼は寂しさを紛らすため、奈良への憧れを歌に託し、消え入りそうな恋の炎を必死に燃やし続けた。

 「青丹(あおに)よし奈良をめぐりて君としも 古き仏を見むよしもがも」

 こんな切なる思いにもかかわらず、結局この恋は実ることがなく、彼は生涯独身を貫いた。八一が初めての奈良への旅で訪れたのが東大寺、新薬師寺、春日若宮、法華寺などで、20首の和歌を詠んでいる。奈良で詠んだ八一の歌には、どこか祈りにも似た響がある。それを彼の若き日の傷心と結び付けるのは、あまりにも凡俗だが、彼が奈良の寺院で出会った御仏の中にその面影を見ていたことは否定し難いようだ。奈良を愛した八一が、奈良で詠んだ歌を紹介しておく。

 「ならさか の いし の ほとけ の おとがひに こさめ ながるる はる は き に けり」

  奈良市の北、般若寺(はんにゃじ)を経て木津へ出る坂が奈良坂。その上り口の右の路傍に、「夕日地蔵」と土地の人が呼ぶ石仏が立っている。この歌はその石仏を詠んだもの。春のはじめ、石仏のおとがい(下あご)に小雨がしとしとと降りかかっている。冷たい雨ながら、その細かい雨足はもう春の到来を告げている-という意だ。

 八一は、北の京都に比して奈良を南京と呼び、有名な歌集『南京新唱』をはじめとして、奈良を讃嘆する歌を数多く遺した。そのため、奈良一帯だけでも彼の書による歌碑は各地にあって愛されている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、植田重雄「会津八一 短歌とその生涯」、「古寺を巡る⑭ 唐招提寺」

賀茂真淵 古典の研究に没頭し、田安宗武に仕えて国学の師を務めた国学者

賀茂真淵 古典の研究に没頭し、田安宗武に仕えて国学の師を務めた国学者

 賀茂真淵は江戸時代中期の国学者・歌人で、荷田春満(かだのあずままろ)、本居宣長、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに、国学の四大人(しうし)の一人として知られる。荷田春満に学び、万葉集を中心として古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭した。また、徳川御三卿の筆頭、田安家当主、田安宗武に仕えて国学の師を務めた。

 賀茂真淵は遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市東伊庭1丁目)で、賀茂明神神職、岡部政信の三男として生まれた。岡部家は京都の賀茂神社の末流とされる。通称は庄助、三四(そうし)。屋号は県居(あがたい)。真淵は出生地の敷智郡にちなんだ雅号で淵満とも称した。真淵の生没年は1697(元禄10)~1769年(明和6年)。真淵は1707年(宝永4年)、江戸の国学者・荷田春満(かだのあずままろ)の弟子であり、春満の姪、真崎を妻とし浜松で私塾を開いていた杉浦国顕に師事した。1723年(享保8年)、結婚するが、翌年妻を亡くし、1725年(享保10年)には浜松宿本陣、梅谷家に入塾した。37歳のとき、家を捨てて京都に移り、荷田春満を師として学んだ。1736年(元文元年)、春満が死去すると浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎えると1738年(元文3年)には江戸に移り、私塾を開き国学を教えた。

 江戸で私塾を主宰するようになって、真淵の生活はようやく落ち着いたものになった。そして、徳川家に連なる名門に出入りすることになった。1746年(延享3年)、真淵50歳のときのことだ。徳川御三卿の筆頭、田安家の和学御用掛となって、当主・田安宗武に仕えることになったのだ。いま一つ、真淵にとってきちんと記しておかなければいけないのが、本居宣長との接点だ。本居宣長に、国学を研究するうえで決定的な影響を与えたのは、実はこの賀茂真淵なのだ。1763年(宝暦13年)、真淵が松阪にやってきた。そして日野町の旅籠、新上屋というところに泊った。これを知った宣長はいても立ってもいられず、新上屋に駆け付け真淵と会った。そして、教えを請うた。その年の暮れ、宣長は真淵の門に入った。

 しかし、宣長が実際に師の真淵と会って言葉を交わしたのは、このときだけだ。それから真淵が死ぬまでの6年間、宣長は手紙によって教えを請うた。真淵もまた、丁寧に手紙で応えた。文通による師弟のつながりが、ずっと続いたのだ。直接、顔を付き合わせた形での師弟関係ではなかった本居宣長をはじめ、門人には荒木田久老、加藤枝直、加藤千蔭、村田春海らがいる。

 真淵の主な著書に『万葉考』『歌意考』『祝詞考』『冠辞考』『国歌八論臆説』『語意考』『国意考』『古今集打聴』『源氏物語新釈』などがある。真淵は国学者だったが、歌人としても優れていた。次の句は『賀茂翁家集』に収められている歌だ。

 「枯れにける草はなかなか安げなり 残る小笹の霜さやぐころ」

 小笹はまだ枯れきらず、霜を被ったまま冬の寒風に吹き晒されて、どこか不安げにざわめいている。そんな光景をみると、すでに枯れ果てて地べたにくたりと横たわっている草は、かえって安らかにみえる。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、三枝康高「賀茂真淵」