宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

 宮部鼎蔵は尊皇攘夷派の肥後熊本藩士で、山鹿流軍学師範を務めた英才だった。兵学、儒学のほか国学に造詣が深く、思想面で長州藩士、吉田松陰に影響を与えた人物だ。嘉永年間にはその松陰と東北地方の事情調査を敢行している。松陰の刑死後も、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞ら長州藩の志士たちと交わり、肥後勤王党の中心人物として反幕府活動に挺身した。1864年(元治元年)京都三条の池田屋で長州、土佐、肥後などの各藩同士と密議しているところを新選組に襲われ、彼は重傷を負い、自刃して果てた。宮部鼎蔵の生没年は1820(文政3)~1864年(元治元年)。

 宮部鼎蔵は肥後国益城郡田代村(現在の熊本県上益城郡御船町上野)で宮部春吾の長男として生まれた。諱は増実、号は田城。鼎三とも記される。養父は叔父、宮部丈左衛門。実弟に春蔵がいる。実家は代々医者の家庭。鼎蔵は山鹿流軍学を学び、1850年(嘉永3年)30歳で肥後藩の兵学師範に任じられた。翌年、藩命で江戸へ赴いた際、長州藩の吉田松陰と出会い、意気投合。親交を深め房総や東北諸藩を遊歴。諸国の志士たちと交遊した。また、林桜園に師事し国学などを学んだ。

 1858年(安政5年)「安政の大獄」で松陰が刑死した後、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞、高杉晋作ら長州藩の志士たちと交わり、尊皇攘夷派に傾倒していく。1861年(文久元年)、鼎蔵は肥後勤王党に参加した。このころには全国の勤皇派志士の間では名前が知られる存在になっていた。1862年(文久2年)には清河八郎も鼎蔵を訪ね、肥後にきている。

 1863年8月18日、禁裏九門の一つ堺町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれた。長州藩過激派が尊皇攘夷派公家と内通し、倒幕を目論んでいたことが露見したからだ。長州藩の解任は、公武合体派の薩摩藩が京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派を京都から一掃しようと起こしたクーデター(八月十八日の政変)だった。

 この日、勤王党親兵として京に上っていた、全国の32藩・3000の兵士が宮部鼎蔵の指揮下にあった。鼎蔵は尊攘派の公家の代表、三条実美に「(孝明天皇の)御前に出で、今日の参内停止の理由を、お問い糾し下さりますよう」と、出馬を促した。だが、実美は「万策尽きた今、兵を引き連れての参内は相手に口実を与えるだけ」といって動かなかった。こうして鼎蔵の巻き返し策は、陽の目を見ることなく終わり、三条、三条西、東久世、四条、壬生、錦小路、沢の尊攘派公家7人が朝廷を追われ、京都を追放され、長州へと逃れた(七卿落ち)。

 翌19日、鼎蔵は七卿の側を守って長州兵の一団と伏見へ向けて発ったが、その途中、彼は一団から離れ、京・兵庫・徳島、そして鳥取などへ、諸方を説いて、また周旋を頼むため、この日を境に慌しく走り回る日々が始まった。鼎蔵は長州藩の桂小五郎より17歳、久坂玄瑞より20歳、土佐の中岡慎太郎より12歳それぞれ年上だった。尊攘派の志士の中で、40歳を越した分別盛りの人間といえば、この宮部鼎蔵だった。しかも勤王党総督「三条実美公」のもとで、彼は親兵総監に任じられ、諸藩に名を知られた軍学者でもあった。七卿も長州藩も鼎蔵に依存するところが多かった。

 1864年(元治元年)、鼎蔵は京に入り、いつものように枡屋喜右衛門方に泊っていた。枡屋は、四条河原町を上って一筋目を東に入った場所だ。6月5日の朝、情報の要、枡屋が突然、新選組に襲われ、主人の喜右衛門が連行された。鼎蔵は幸い4日の夜は他宿したため、無事だった。枡屋の主人が連行されたとの知らせは、うまく虎口を逃れた店の者たちによって諸方の志士たちに知らされた。そして、鼎蔵は同夜八時に三条池田屋に集まるように連絡を受けた。街は祇園祭の宵宮で、囃子の音が鳴り響いていた、四条通の人波はあふれて、三条のあたりまで浴衣がけで男女が行き交っていた。その人波を縫うようにして、鼎蔵は池田屋にやってきた。同士が全部揃ったのは八時半を少し回ったころだ。

 長州は吉田稔麿、杉山松助、広岡浪秀、佐伯靱彦、土佐は野老山吉五郎、石川潤次郎、北添佶麿、望月義澄、播州は大高忠兵衛、同又次郎、そして聖護院の西川耕蔵といった面々だった。桂小五郎もやがて顔をみせることになっていた。実は時間通りにやってきた桂は、別の用事を済ませて戻ると言伝して出て行ったのだ。集まった面々は、枡屋のことですっかり興奮していた。鼎蔵は、ここは兵学者として冷静な対応を説いておかなければと考え、食事の膳に着いたときだった。階下で大声がした。聞き耳を立てた北添が梯子団を降りていくと、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、胴丸を着けた大勢の男たちが、抜き身を下げて立っていたのだ。新選組だった。彼らの会合は、新選組に嗅ぎ付けられていたのだ。もう手遅れだった。逃げ場はなかった。

 「諸君、脇差でよい、室内の立ち廻りには、太刀は必要でない。体ごとぶつかるのだ。そして逃げろ、逃げられるだけ逃げるんだぞ」鼎蔵は大声をあげて指令した。だが、多勢に無勢、その鼎蔵は重傷を負い、絶体絶命の危機だった。そこで彼は、新選組に捕縛されることを恥辱として、自刃して果てた。あっけない死だった。宮部鼎蔵は洛中の尊攘派志士たちの重鎮として活躍していただけに、彼の死は全国の尊攘派志士たちに大きな影響を与えた。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、森友幸照「吉田松陰 男の自己変革」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」