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支倉常長 歴史上果たした偉業とは裏腹に禁教下の日本に帰国後は冷遇

 1613年(慶長18年)、仙台藩主・伊達政宗は、家臣の支倉常長をヌエバ・エスパニア(現在のメキシコ)との直接通商交渉を目的とし、メキシコ経由で、スペインおよびローマへ派遣した。一行は日本人とスペイン人合わせて180人余り。この偉大な業績は「慶長遣欧使節」の名称で知られ、「天正遣欧少年使節」と並んで、日本の対外交渉史ならびにカトリック史上の画期的な事績として扱われる。

しかし、その遣欧使節の実態については、とくにこの副使を務めた支倉常長の帰国後の暮らしぶりとともに、あまり知られていない。出国直後から、不幸にも日本国内でのキリスト教に対する環境が急速に悪化したこともあって、常長の存在そのものが江戸時代の歴史から消えてしまうのだ。

 支倉常長は山口常成の子として生まれた。幼名は与一。初名は六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。常長は子供に恵まれなかった伯父支倉時正の養子となった。ところがその後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し600石取りとなった。

 1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウイリアム・アダムス(三浦鞍針)の建造したガレオン船を贈り、ヌエバ・エスパーニャへ送還した。このことをきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

 伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れ、スペインを経てローマへ赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で1613年(慶長18年)、月ノ浦を出帆。ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡り、エスパーニャ経由でローマに至った。常長はマドリードの修道女院の教会で洗礼を受けた。

ただ、当時はやむを得ない側面もあったが、この外交使節には大きな成果を得るには限界があった。それは外交文書の作成から外交交渉まですべてを使節一行の正使で通訳兼案内役を務めたルイス・ソテロに任せていた、他力本願型の外交姿勢にあった。伊達政宗は当時の海外事情に精通していなかった。また、常長ら派遣された一行も自らスペイン語やイタリア語を修得して独自の外交手腕を発揮しようという意欲を持たず、ソテロから指示されるまま行動しただけだった。
 そのため、一行は1615年(慶長20年)、エスパーニャ国王フェリペ3世に、そしてローマへ入り、ローマ教皇パウルス5世に謁見したが、スペインとの交渉は成功せず、1620年(元和6年)帰国した。
 伊達政宗の期待のもと出国した常長だったが、不幸にも出国直後から日本国内でのキリスト教に対する環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗の直筆の手紙が残されている。果たして政宗が危惧した通り、常長が帰国したとき日本はすでに禁教令が出されており、歴史上、彼が果たした偉業とは裏腹に、キリシタンの洗礼を受けた彼はひっそりと暮らしていたらしく、失意のうちに死んだ。というのも常長の前半生と晩年について、確実なことはほとんど分からないのだ。こうして常長は江戸時代の歴史から消えてしまう。

 不幸はまだ続く。1640年(寛永17年)、常長の息子の常頼は、召使がキリシタンだったことの責任を問われて処刑され、名門支倉家は断絶した。1668年(寛文8年)常頼の子の常信の代に、ようやく赦されて家名を再興することができた。仙台藩においては、主命により引き起こされた事態であるため忸怩(じくじ)たるものがあったようだ。

 時を経て、支倉常長の偉業が再び世に出る。それは明治維新後、岩倉具視が欧米視察団としてイタリアを訪れた際、「支倉」の署名が入った文書を発見したからだ。
 常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、2001年(平成13年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。

 この遣欧使節の名目上の目的は通商だったが、本当の目的は当時世界最強国だったエスパーニャ(スペイン)を味方につけ、天下を覆そうという壮大な政宗の計画が秘められていたという説もある。確固たる史料が残っているわけではないので、あくまでも推測の域を出ないのだが…。

(参考資料)大泉光一「支倉常長 訪欧の真実」、遠藤周作「侍」

土方歳三 新選組の副長から、戊辰戦争を転戦した徹底した実践派

 土方歳三は1868年(慶応4年)、下総(現在の千葉県)流山で近藤勇と別れた後、「戊辰戦争」を通して幕臣として官軍と戦い、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館戦争を転戦。幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮して、蝦夷共和国・陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取の要職にも就いている。

しかし、歳三の公式の剣の腕前は高くはなかったようだ。天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったのか?ただ、型には一切とらわれず、縦横無尽に闘い、最後は相手を倒すという徹底した実践派で、まさに実戦では滅法強かったといわれている。そうした合理精神は近代戦術にも抵抗なく、柔軟に理解を示して実践させることにつながり、戊辰戦争でも成果を挙げている。歳三の生没年は1835(天保6)~1869年(明治2年)。

 土方歳三は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に10人兄弟の末っ子として生まれた。諱は義豊。雅号は豊玉。土方家は多摩に広がる豪農の家系で「お大尽(だいじん)」と呼ばれる大百姓だった。出生前に父、土方義諄(ぎじゅん)が亡くなり、6歳の時に母も失い、次兄の喜六夫妻に育てられた。14~24歳ごろまで奉公に出ていたといわれる。奉公先には松坂屋上野店の支店、江戸伝馬町の木綿問屋などが挙げられる。

 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」(骨折・打ち身の秘伝薬)を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだといわれる。日野の佐藤道場に出稽古にきていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこのころ出会ったと推測され、歳三は1859年(安政6年)、天然理心流に正式入門した。

 1863年(文久3年)、歳三は近藤道場(試衛館)の仲間とともに、十四代将軍家茂警護のための浪士組に応募し、上洛する。同年8月18日の「八月十八日の政変」後、壬生浪士組の活躍が認められ「新選組」が発足。その後、新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。そして、権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織づくりがなされ、頂点は局長だが、実際の指揮命令は副長の歳三から発せられたとされる。

 1864年(元治元年)の池田屋事件の際は半隊を率いて、長州・土佐藩士が頻繁に出入りしていた四国屋方面を探索して回ったが、こちらには誰もいなかった。そこですぐ池田屋の応援に駆け付けたが、直ちに突入せずに池田屋の周囲を固め、後から駆け付けた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組のことを考えての行動で、歳三らしい冷静な機転だ。このパフォーマンスの効果は絶大で、池田屋事件の恩賞は破格なものとなった。その結果、新選組の“勇名”は天下に轟いた。

 幕府からは近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、ここでも歳三は策を講じる。歳三は近藤を諌め、狙いは与力よりも大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したといわれている。こうした一方、歳三は鉄の戒律「局中法度」をつくり、新選組内部では常に規律を隊士らに順守させ、規律を破った隊士に対しては切腹を命じており、隊士から恐れられていたという。そのため、新選組隊士の死亡原因の第一位は切腹だったといわれているほど。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、鈴木亨「新選組99の謎」、三好徹「さらば新選組」

藤田東湖・・・幕末、尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を集めた傑物

 藤田東湖は水戸藩第九代藩主・徳川斉昭の側近を務め、その懐刀として活躍した。とくに水戸学の大家として著名で、幕末、全国の尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集め、彼らに大きな影響を与えた。

薩摩藩主・島津斉彬が水戸家を訪れた際、接待役を務めた藤田東湖に西郷の名を挙げ、「よろしく教導して引き立ててくれるように」と挨拶している。若き日の薩摩藩士、西郷隆盛も1854年(安政元年)、同志、樺山三円とともに東湖の元を訪れ、東湖の学識、胆力、人柄、態度に感銘を受けている。戸田忠太夫と水戸藩の双璧を成し、斉昭の腹心として「水戸の両田」、また武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称された。東湖の生没年は1806(文化3)~1855年(安政2年)。

 藤田東湖は常陸国東茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷(水戸上町梅香)で、水戸学者(彰考館総裁)、藤田幽谷(ゆうこく)の次男として生まれた。母は町与力、沢氏の娘。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持っていた。「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことに因む。ほかに梅庵という号も用いた。藤田家は遠祖が平安時代前期の政治家、小野篁に遡るといわれ、中世に常陸へ移り住んだといわれている。

 東湖は幼少の頃より、父で水戸学の儒臣、藤田幽谷から薫陶を受けて育ち、父の家塾「青藍舎(せいらんしゃ)」で儒学を修めるなど、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現した。1827年(文政10年)家督を相続し、進物番200石となった後は、尊王思想「水戸学」藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編修、彰考館総裁代役などを歴任した。そして、当時、藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立した。

 1829年(文政12年)の第八代藩主・徳川斉脩(なりのぶ)の継嗣問題に際しては、徳川斉昭派に加わり、斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進。1840年(天保11年)には側用人として藩政改革にあたるなど藩主、斉昭の絶大な信頼を得るに至った。そして、その名は藩の内外に知れ渡るようになった。

その結果、水戸は維新の震源地だといわれ、全国の藩士・志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集める存在=藤田東湖がそのマグマとなった。各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれるほどだ。信州から佐久間象山、長州から吉田松陰、越前から橋本左内、熊本から横井小楠、薩摩から有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など次々と訪ねてきた。そこで、単に東湖の怪気炎に圧倒されるだけでなく、訪ねてきた若者同士が議論した。そういう日本の若者たちの“場づくり”をした意味でも、東湖の果たした役割は大きい。

 ここまで順風満帆な人生を送ってきた東湖だったが、この後、思わぬ挫折を味わうことになる。1844年(弘化元年)、藩主・斉昭が隠居・謹慎処分を受けたのだ。これに伴い東湖も失脚し、その後、禄を剥奪された。さらに1846年(弘化3年)、斉昭が謹慎解除されると、東湖はそれまでの責めを受け、江戸屋敷に幽閉され、翌年謹慎処分となった。1850年(嘉永3年)、ようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)やっと処分を解かれたのだ。

 約8年間にわたる、東湖自身の“冬”の時代から一転、大きく変わり始めた日本の世相・時代が、東湖を表舞台に引っ張り出す。1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画することになった。すると、東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになったのだ。そして、1854年(安政元年)には側用人に復帰している。舵取りの難しい激動の時代を迎え、これで水戸藩の体制も整ったかに見えた。

 ところが、そんな東湖を不慮の事故が襲う。1855年(安政2年)に発生した「安政の大地震」だ。関東地方を襲った、マグニチュード7とも伝えられるこの地震で、彼は母親を守り、脱出させるため、落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死したのだ。あっけない最期だった。享年50。
 主な著書に『弘道館記述義』『回天詩史』『正気歌(せいきのうた)』『常陸帯(ひたちおび)』などがある。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、童門冬二「明日は維新だ」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、小島直記「無冠の男」

藤原能信・・・摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者

 藤原能信(よしのぶ)といっても、一般にはあまり知られてはいない。彼は藤原摂関政治の生みの親、藤原道長の子だ。父の道長亡き後、王朝社会の陰の実力者となり、表舞台に出ることはなかった。だが、皮肉なことに彼自身は、そうした意識を持っていたのかどうかは分からないが、計らずも摂関政治から院政への橋渡し役を演じた人物だ。平安時代の政治史の節目を彩る藤原氏のキーパソン、藤原氏北家の礎を築いた藤原冬嗣、そして天皇の外戚として、まさに我が世を“謳歌”した道長の二人に比べると、彼の地位は大納言どまりで、随分見劣りする。しかし、この時代の真の主役は、藤原頼通や教通ではなく、間違いなく能信だった。

 藤原能信は藤原道長の四男、母は源明子。官位は権大納言で、春宮大夫を務めたが、頼通・教通らと比べると、随分地味なものだ。生没年は995(長徳元)~1065年(康平8年)。

 父・道長には主な夫人が2人いた。頼通・教通を産んだ源倫子(左大臣源雅信の娘)と、能信の母・源明子だ。倫子は道長の最初の妻であると同時に、当時の現職大臣の娘で、道長の出世の助けになったのに対し、明子の父高明は同じ左大臣でもすでに故人で、しかも「安和の変」で流罪になった人物だった。そのため、倫子の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対し、明子の子供たちはそれ以下の出世に限られていた。

そこで、能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとした。ところが、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して、父の怒りを買うことさえあった。こうした姿勢が結果的に出世の途を閉ざしたのか、能信は1021年(治安元年)、正二位権大納言昇進を最後に、その後は官位の昇進をみることはなかった。彼はあくまでも「ゴーイング・マイウエイ(わが道を行く)」の姿勢を貫き通した。もっといえば、彼は開き直って、異母兄弟との出世競争の不利は十分承知のうえで、大胆にも対立陣営に身を置いたのだ。

 1037年(長元10年)、後朱雀天皇の中宮(後に皇后)に禎子内親王(後の陽明門院)が決まると、その側近である中宮大夫に能信は任じられた。実はすでに実力者の頼通の養女、_子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営のトップに立ったのだ。そして、彼は禎子内親王所生の尊仁親王(後の後三条天皇)の後見人を引き受けることになった。ここで彼は異常な粘り強さをみせる。1045年(寛徳2年)に後朱雀天皇が重体に陥ると、彼は天皇に懇願して、後を継ぐ後冷泉天皇(親王の異母兄)に対して「尊仁親王を皇太弟にするように」という遺言を得たのだ。

 しかし世間ではここに至っても、後冷泉天皇には頼通・教通兄弟がそれぞれ自分の娘を妃に入れており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろう-と噂していた。また、それだけに尊仁親王やその春宮大夫となった能信への周囲の眼は冷たいものがあり、現実に親王が成人しても妃の候補者が決まらなかった。有力貴族が実力者の頼通・教通兄弟の敵になることを恐れて、娘を妃に出すことを遠慮したためだ。そこで、今度は能信はやむを得ず、自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)、藤原茂子を妃に入れ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を引き受けることで、辛うじて「皇太子妃不在」という異常事態を阻止したのだ。

 これほど献身的にサポートし、以後20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支持者であり続けた能信だが、悲しいことにその“果実”を自ら手にすることはできなかった。彼は、恐らく夢にまで見たであろう、親王の即位を見ることもなく、しかも右大臣・藤原頼宗(能信の同母兄)の急死で後任大臣への道が開かれたにもかかわらず、その6日後にその生涯を閉じてしまうのだ。

 だが、その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに死去すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子の白河天皇が即位した。亡き能信の悲願が達成されたわけだ。そして、後三条天皇は能信の養子で、養父の死後に春宮大夫を継いだ藤原能長(実父は頼宗)を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官を遺贈、必ず「大夫殿」と呼んで、生涯尊敬の念を忘れることはなかったと伝えられている。まさに、能信の長年にわたる労苦が報われたのだ。

 能信に果たして摂政関白への野心があったか否か、定かではない。だが、後三条・白河天皇による政治とその後の「院政」の開始は、能信の人生に暗い影を落としてきた摂関家による摂関政治を終焉に導いたことは確かだ。

(参考資料)永井路子「望みしは何ぞ」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条時頼・・・策謀も駆使し他氏族を屠り、北条執権家の安定強化図る

 北条時頼は鎌倉幕府の第五代目執権だ。能楽『鉢の木』に登場する時頼は、花も実もある、立派な為政者に仕立て上げられている。それは温和で最も実直なイメージの三代泰時に重なる。だが、実態は陰の主役となって、血なまぐさい陰謀の数々をやってのけ、執権家としての北条氏の基礎を初めて確立した二代義時の姿に近い人物だった。つまり、時頼こそ北條氏の“執権らしい執権”だったのだ。

 北条時頼は、北条時氏を父とし、安達景盛の娘(後の松下禅尼)を母として生まれた。幼名は戒寿丸、通称は五郎。11歳のとき祖父泰時の邸で元服。烏帽子親は当時、鎌倉府の首長だった摂_将軍、藤原(九条)頼経(よりつね)だ。1243年(寛元元年)、左近将監に任ぜられ従五位下に進んだが、1245年(寛元3年)、四代目執権北条経時と図って、時頼は27歳の将軍頼経を辞任させ、子の頼嗣を新将軍の座に据えてしまった。頼経の年齢が、ロボットとして操りにくい段階にまで達したからだった。この交替からまもなく、経時が病死したため、執権職は弟の時頼に回ってきた。

 経時の死が、23歳という若死にのせいもあり、不可解な部分もある。権位への野望のために時頼が兄を殺したのではないかとの疑問だ。何故なら、兄を立てるなら経時の遺児たちが幼少の間、一時政権を預かったにせよ、成長後はこれを返上してやるはずなのだ。しかし、経時の子供たちはいずれも出家し、経時の系統はそのまま絶えてしまっている。そして、この後、代々得宗として一族の上に君臨したのは時頼の子孫なのだ。それだけに、黒い噂がより真実味を帯びてくる。

 しかし、五代目執権職に就いた20歳の時頼はしたたかだった。時頼の強引なやり口に疑惑と反感の目を向ける者には、一門であっても、反対に彼らを挑発し、機先を制して屠ってしまう。三浦一族に対してもそうだった。

 三浦氏は、幕府の創業時代から目覚しい武威を持ちながら常に北条氏の走狗となって裏切り、煽動、離間など血みどろ仕事の先棒担ぎ、他族の蹴落としに一役買ってきたため、北条側の弱味も握っており、時政(初代)や義時(二代目)、泰時(三代目)にさえ一目置かせていた存在だったのだ。当然、時頼にとっても目の上の瘤(こぶ)だった。そこで彼は謀略の限りを尽くして三浦氏を挑発し、虚をついて、これを滅亡させた。こうして彼は北条執権家の基盤の、より一層の安定強化を図ったのだ。

 時頼は30歳で出家し、嫡男の時宗が幼弱だったため一時、執権職を一門の長時に譲ったが、なお最高指導者としての活動はやめず、自宅で秘密会議を開き、重要政務を決定した。時頼は37歳で亡くなったが、やり遂げた仕事の量は、彼が生きた歳月の量をはるかに上回っていたといえる。
 六代目長時のあとは泰時の弟で当時、長老的な立場にあった政村が担当、時宗を連署(副執権)とし、その成長を待って八代目を時宗に譲った。

 130年、十六代にわたって執権職を務めた北条氏。これほど長きにわたって権力を保持するにはどすぐろい、権謀術策の限りを尽くし、さぞかし人間的に“欲望の塊”と化した人物が揃っていたのだろうと思いたくなるところだ。だが、違うのだ。確かに、得宗と呼ばれている宗家嫡流の権力保持には、後世の人々に陰険な氏族として毛嫌いされているにもかかわらず、一人ひとりの生き方は、権位にありながら珍しいほど清潔だった。藤原道長、平家の公達、足利将軍義満、義政、豊臣秀吉、徳川家斉ら数多い。ところが、北条執権職を務めた人物のうち、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した者は、十四代の高時を除いてほとんど見当たらない。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

保科正之・・・名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。

 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。

 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。

 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。

大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。

まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。

刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

前田利家・・・壮語せず篤実な姿勢が好感され、大藩の基礎作りに貢献

 加賀藩の藩祖・前田利家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、徳川の世に、全国で最大の120万石を領有する大藩の基礎をつくった人物だ。加賀藩の華麗さは今日もよく知られている。100万石以上もの大名第一等の大封を持ちながら、幕府への遠慮から、殊更に武の印象を抑え、学問と美術工芸を奨励した。このため藩都の金沢は、小京都といっていいほどに優美だった。

 前田利家は、尾張愛智郡荒子村で土豪の前田縫殿助(ぬいのすけ)利春(利昌ともいう)の四男として生まれた。幼名は犬千代。通称は又左衛門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将。渾名は槍の又左衛門、槍の又左。利家の生没年は1537(天文6)~1599年(慶長4年)。

 利家が生まれたのは、まさに戦国時代の真っ只中だ。このとき武田信玄18歳、上杉謙信9歳、織田信長5歳、そして徳川家康は4年後に生まれている。天下平定の覇気に燃える武将の中で尾張一円を勢力下に置き、まず頭角を現すのが織田信長だが、この信長の配下に属し、その勢力圏内で、荒子一帯を領していたのが前田利春だった。

 若い頃の利家は負けん気でやんちゃ、ことに信長に仕え始めたころは“かぶき者”で、周囲のひんしゅくを買う青年だった。こうした若い頃の無軌道ぶりや挫折が、中年以後の利家の器の大きさをもたらしたといえよう。利家は信長の父・信秀の死後、起こった「尾張海津の戦い」が信長配下としての初陣だ。この戦いで活躍した後、信長の伯父・津田孫三郎信家を烏帽子親として元服。犬千代から孫四郎利家と名乗ることになった。その後、1556年(弘治2年)、「尾張稲生(いのう)の合戦」に参戦。この戦いは、信長の弟・信行を擁した林美作守の反乱だったが、ここでも戦功を挙げ、利家は100貫の加増を受け150貫(石高にすると357石)の禄高となった。またこの合戦の後、利家の上手なとりなしで柴田勝家が信長の配下となった。

 ところで、利家はその生涯で二度、大きな挫折を味わっている。最初の挫折は1559年(永禄2年)、信長の同朋衆・拾阿弥を斬り、信長の勘気に触れ追放されたのだ。この後、変転目まぐるしい戦国の最中、2年もの間、主を持たない浪々の時期を過ごしている。そして「美濃森部の戦い」の功により晴れて帰参。「赤母衣(あかほろ)衆」に取り立てられ、300貫加増された。赤母衣衆とは指揮班の将校にあたる。

 1582年、主君・織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれると、利家は初め柴田勝家に付くが、後に秀吉に臣従。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀・越中を与えられ、加賀百万石の礎を築いた。1598年(慶長3年)には秀吉から徳川家康と並び、豊臣政権の五大老の一人に、また秀頼の傅役(後見人)に任じられた。秀吉がいま少し長寿であれば、まだ平穏な時が続くはずだった。

 ところが、同じ1598年(慶長3年)、五大老・五奉行など豊臣政権の行く末を定めた数カ月後、その要の秀吉が亡くなると時の流れは一気に加速。徳川家康に付く福島正則らの武断派と、石田三成らの文治派の対立が顕在化、事態は激しさを増していく。この争いに利家は加わらず、仲裁役として懸命に働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力する。
しかし、利家には傅役を全うする時間はもう残されてはいなかった。秀吉の死後、わずか8カ月後、病没した。

俗に“加賀百万石”と呼ばれ、大名のトップとしての権勢を誇った前田家は、菅原道真の後裔ということになっている。この菅原道真と戦国大名の前田と、どこに接点があるかといえば、配流された筑紫(九州)で生まれた子供の一人が前田氏の先祖となり、その一族が尾張愛智郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子町)に住みつき、前田姓を名乗ったという。

さらに、前田家にとって運が良かったことは利家が「関ケ原の戦い」(1600年)の前年に亡くなったことだ。前田家として、豊臣恩顧は利家までで、子の代になると、その点が身軽になった。秀吉の死後、豊臣家は石田三成派と徳川家康派に分裂したが、前田家はこの内紛に直に引き込まれずに済んだ。

 家禄を含め前田家を守るに際しては、利家の未亡人、芳春院(まつ)の果たした役割が大きい。頑固であまり融通の利かない利家とは違い、なかなかな政略家だった。彼女は若い頃からの友達だった秀吉の未亡人、高台院(北政所=ねね)と語り合い、徳川家康方に加担。お家取り潰しや改易を狙う徳川方からの挑発には一切乗らず、前田家(利家の晩年の石高、83万5000石)を守るべく、彼女は自ら江戸へ赴き、人質になった。徳川方にとっては想定外の離れ業だったに違いない。

(参考資料)酒井美意子「加賀百万石物語」、司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

前田綱紀・・・藩主在位78年間で加賀前田家の家風を確立した名君

 加賀藩第五代目藩主・前田綱紀は加賀前田家の家風を確立した名君で、前田家で最初の教養人でもあった。綱紀が在位した78年間、領国の政治に緩みがなく、新田開発などの経済面だけでなく、一種の社会福祉政策も遂行したことで知られる。江戸城における謁見の席も、1698年(元禄2年)、徳川第五代将軍綱吉から、外様大名ながら御三家に準ずる待遇を与えられた。

 前田綱紀は、加賀藩第四代目藩主・前田光高の長男として生まれた。母は水戸藩・徳川頼房の娘(徳川第三代将軍家光の養女)清泰院。幼名は犬千代丸、元服後の名は綱利。元服して亡き父と同じ官位を授けられ、後年、四代将軍家綱の一字を賜って綱紀を名乗り、加賀守に任ぜられた。藩祖・前田利家の曾孫。綱紀の生没年は1643(寛永20)~1724年(享保9年)。

綱紀の78年の在位を将軍の代で数えると、三代将軍家光の1645年(正保2年)、3歳で家督を継ぎ、八代将軍吉宗の1723年(享保8年)に隠居した。6代(家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗)の将軍に仕えたことになる。

 1645年(正保2年)、31歳の若さで早世した父・光高の後を受けて綱紀(当時は犬千代丸)は、わずか3歳で五代目藩主の座に就いた。藩政は、小松で隠居していた祖父・利常(三代目藩主)が取り仕切ることになった。1654年(承応3年)、元服して綱利と名乗った。そして、徳川家との絆を維持するため、保科正之の二女摩須子(徳川第二代将軍秀忠の孫)を妻に迎えた。綱紀16歳、迎えた姫はまだ10歳だった。

1658年(万治元年)、利常が脳溢血で亡くなると、岳父・保科正之の後見のもとで、綱紀は藩政改革を行うことになった。新田開発や農政から着手、彼が始めた「荒政の九法」は飢饉や不作などに備えた、いわば郡村の組織化で、長く農政の規範となった。当時、備荒貯蓄米を蓄えるため藩が設けた義倉は、金沢に一カ所、越中に三カ所、能登に二カ所、常時十万石から二十万石に及ぶ米が貯蔵されていた。そのため、江戸時代は全国でしばしば大飢饉に襲われ、悲惨な結果を招く例は少なくなかったが、加賀藩領では飢饉のために領民が困窮したという記録はほとんどない。

 綱紀は稗の種子を朝鮮から輸入したり、農民に副業として養蚕を奨励するなど凶作の対策に心を砕いている。「百姓は生かさぬように、殺さぬように」「百姓と菜種は絞れば絞るほどよし」といった思想が農政の根底にあった時代、利常・光高・綱紀ら三代の指導のもと、加賀藩が取った農政は稀有な例と高く評価されている。

 徳川八代将軍・吉宗のブレーンとして世に知られた荻生徂徠は、その著『政談』で「加賀の国に非人一人もなし、真に仁政なり」と絶賛している。当時の藩主は綱紀だ。祖父や岳父の後見も卒業して、彼が自ら政務を執るようになったのは27歳のときからだった。
ところで、治世上何かミスやトラブルがあれば、それを引き合いに領地没収や改易などを課そうと、幕閣は虎視眈々と狙っていた感のあったこの時代、お家を守ることは大変だった。前田家は並大抵の努力でその大身の家を守ったのではなかった。江戸城の龍の口にあった江戸・前田家の上屋敷は1657年(明暦3年)1月の振袖家事(明暦の大火)という江戸時代最大の火事で焼けた。火元は本郷丸山の本妙寺で、火は乾(北西)の烈風に煽られて江戸市街地ばかりか、江戸城の天守閣をも焼き、内堀の大名・旗本屋敷も焼き尽くし灰になった。

 その後の防火計画では、空地をつくること、道路を広くすること、町家の草葺きを禁じることなどが盛り込まれたが、江戸城の周りについても、大名屋敷をことごとく取り除いて空地とした。このため、加賀前田家は移転せざるを得なくなり、代替地として、本郷に大きな地所をもらった。後の東大構内の主要部で、本郷から不忍池に至る10万3000坪という広大なものだった。

 前田家は財政のいい家だった。だが、倹約して金を貯めたりすると、幕府からどんな疑いを受けるか分からないという理由から、財政能力を上回るほどの豪華さで、新しい本郷上屋敷をつくり上げた。ここで、前田家にとっては不運というか、全くありがた迷惑な事態が起こった。五代将軍綱吉が「加賀殿の屋敷は、庭といい、普請といい、見事というではないか」といったらしいと聞かされ、一大事となった。1702年(元禄15年)のころのことだ。

綱吉は幕閣政治を好まず、権力を一身に集め、苛烈に信賞必罰の政治をやり、このため幕臣の気風が萎縮した。その結果、側用人・柳沢吉保など側近に権勢が集まった。綱吉の言葉を聞き流すわけにはいかない。綱吉に誉められた以上、前田家としては御成りを乞うほかない。前田綱紀にすれば、一代の危機というべきだった。

 何故なら、綱吉がおしのびでやってくるわけではなく、側近から老中、若年寄などもくる。警護の番士もくる。そのうち、「加賀殿の新邸を拝見したい」という者が多くなり、規模が膨れ上がって、遂に5000人の供という前代未聞の招待になったのだ。江戸城の大工の棟梁たちまで加わったという。
 江戸時代は階級社会だ。客を同身分ごとに集めて酒肴を出さねばならない。老中や側用人の権勢の者には、とくに気を使う。大工の端々まで、それ相当の席を設け、酒肴を出すのだ。将軍や大名たちが満足してくれても、それ以外の者に対して粗相があっては、苦心も水の泡になる。

 司馬遼太郎氏の『街道をゆく 本郷界隈』によると、綱紀はこのために未曾有の借金をした。国許や江戸、あるいは上方の商人から莫大な金を借り、その後それを返すのに十数年かかった。将軍綱吉の半日の遊覧のために、迎賓館ともいうべき御成御殿を建てた。敷地8000坪、建坪3000坪、棟の数が45という壮麗なものだった。それに伴って、林泉も整えられた。さらに、もてなすために江戸詰めの家臣だけでは手が足りないので、国許から大勢の人数を呼び寄せた。それらの宿舎を400棟も建てたという。

 当日、将軍綱吉は大いに満足した。他の5000人も喜んだ。わずか一日の歓を得るために、加賀前田家は戦争そこのけの総力を挙げたのだ。だが、この壮麗な御成御殿も翌年の関東・東海大地震でことごとく焼けた。江戸末期の安政地震(1854~55年)でも加賀藩上屋敷は大きな被害を受けた。その後も地震が頻発し、本郷の加賀藩上屋敷は1855年(安政2年)の直下型の地震で壊滅したらしい。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、酒井美意子「加賀百万石物語」

前野良沢・・・蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者

 前野良沢といっても、いつ、どのようなことを成した人物かと問われても、とっさには出ない人が多いのではないか。良沢はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の編纂に携わった主幹翻訳者の一人だ。ところが、解体新書発行当時、良沢は自らの名前を出さなかったため、その業績は知られておらず、『解体新書』発行の功績は杉田玄白一人に帰した感がある。だが、現実に即していえばオランダ語に群を抜いた知識を持つ良沢を除外しては、翻訳事業が成り立たなかった。ひいては、1774年時点で、内容的にあのレベルの『解体新書』刊行はなかったと思われる。

杉田玄白はターヘル・アナトミアの翻訳事業を推進させた功績者ではあった。だが、彼にはその翻訳を一日も早く公にすることで名声を得たいという野心も十分にあった。それは人間としてある意味では当然の欲望だったが、学究肌の良沢にはそれが度を超えたものとして映った。そのため、良沢は翻訳事業が終了したとき、『解体新書』はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけた後に行うべきだと考えていた。しかし、玄白は刊行を急いだ。良沢はそれについていく気になれず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。玄白はそれを素直に聞き入れた。その結果、『解体新書』の訳者は杉田玄白ただ一人となったのだ。

 『解体新書』が華々しい反響を得た中で、前野良沢は書斎に閉じ籠った。53歳だった。病と称して門を閉じ、交際も極力避けた。訳書の量は増えていったが、名利を卑しむ彼は、それを刊行することすらしなかった。生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。そして。研究は医学から天文・暦学・地理などにも及び、多くの訳書がその手によって残された。

対照的に杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。また玄白は医術に精励したという理由で十一代将軍家斉に拝謁も許された。それは蘭方医として初の大きな栄誉でもあった。しかし、玄白のオランダ語研究は『解体新書』刊行と同時にほとんどやんだ。玄白は開業医として経済的にも豊かな後半生を送り、85歳の天寿を全うした。玄白の出世の道が『解体新書』を刊行したことで拓けたとするなら、それはストイックなまでに学究肌の、名利を卑しむ前野良沢という蘭学に一生を捧げた人物がいたからこそ実現したのだ。良沢がいなければ、玄白の人生はあるいはもう少し違ったものになっていたかも知れない。

 前野良沢は豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。生没年は1723(享保8年)~1803年(享和3年)。筑前藩士、谷口新介の子として江戸牛込矢来に生まれた。幼時に父は死亡、母も良沢を捨てて去り孤児となった良沢は、山城国淀藩主稲葉丹後守正益の医官で、叔父の宮田全沢に引き取られ育てられた。1769年(明和6年)、蘭学を志して晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。留学中に入手したのが西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』だった。

 良沢はこの書を翻訳するにあたって大宰府天満宮に参詣し「名声利欲にとらわれず、学問のため一生を捧げる」と誓った。『解体新書』が完成したとき、彼は天神への誓いを守って書中に自分の名をあらわさなかった。そうした蘭学に対する真摯な姿勢により、藩主・奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と賞賛された。そして、彼はこれを誉として「蘭化」と号した。
 寛政の三奇人の一人、高山彦九郎とは親しかった。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。

(参考資料)吉村昭「冬の鷹」、吉村昭「日本医家伝」

槇村正直・・・東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。

 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。

 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。

 槇村が行った主な京都近代化政策は・1869年(明治2年)、小学校の開設・1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建・1871年(明治4年)、京都博覧会の開催・1872年(明治5年)、都をどりの創設・1872年(明治5年)、新京極の造営・女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。

 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。

 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。

 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」