月別アーカイブ: 2013年12月

松平春嶽・・・開明的藩政指導行うが、幕政参画後は“労”報われず

 御家門筆頭の国持大名として家格が高かった越前松平家の養子となり、第十六代越前福井藩主となった松平慶永(のちの春嶽)は、藩政改革に着手、積極的な人材登用、殖産興業・富国強兵による藩財政の立て直しを推進した。だが将軍継嗣問題で井伊直弼らと激しく対立し、隠居・謹慎処分を受けることになる。そこで彼は家督を養子茂昭に譲り、一時は5年にも及ぶ謹慎生活を送った。

だが、春嶽は井伊大老亡き後、見事に復活、幕府の要職に復帰する。幕府から政事総裁職を拝命、幕政に参画したのだ。そして、・参勤交代制の緩和・洋式軍制の採用・幕府職制の改正・京都守護職の新設-などを実施。第十四代将軍家茂による229年ぶりという将軍上洛を実現させた。

ただ、幕末の開国と攘夷、倒幕派勢力の台頭と幕府安泰・朝廷尊崇の理念の狭間で、春嶽の行動自体が振り子のように揺れ動き、そのために当事者たちに絶対の信頼を得られなかったためか、調停役としての春嶽の多くの“労”は報われなかった。

 松平慶永は徳川御三卿、田安家三代斉匡の八男として生まれた。母は閑院宮家木村某の娘礼井。幼名は錦之丞。徳川第十二代将軍家慶の従弟。天保9年、11歳のとき将軍の命で越前福井藩32万石の藩主・松平斉善(なりさわ)の養子となり、斉善の病没後を継承、藩主となった。将軍家慶の一字を賜り慶永、元服して越前守を称したが、隠居後、生涯愛用した雅号「春嶽(しゅんがく)」の方が有名だ。春嶽の生没年は1828(文政11)~1880年(明治23年)。

 福井松平家の藩祖・秀康は徳川家康の次男で、嫡男信康早世後、三男秀忠の唯一の兄で、豊臣秀吉の名をもらって結城家に養子に出されていなければ、家康の後継男子としては最年長だった立場だ。慶永は16歳で初入国し、90万両の負債を抱えた福井藩財政立て直しのため、近侍御用役に股肱の臣、中根雪江をはじめ、村田万寿、若手の逸材、橋本左内、三岡三四郎(後の由利公正)らを登用。また、「国是三論」を著した横井小楠を熊本から顧問として招き、洋式兵制の導入や種痘館、藩校明道館を創設。殖産興業策を推進して開明的藩政指導を行った。

 春嶽は幕末、幕政に参画してからは島津久光、山内容堂、伊達宗城らとともに有力賢候の一人として一目置かれたが、労多くあまり成果は挙げられなかった。彼の持論でもあった政権返上は、土佐の懸案を容れた大政奉還奏上によって実現、次いで王政復古の大号令が発せられる。ここで十五代将軍徳川慶喜の「辞官納地」が挙げられると、春嶽は徳川家のために抗議、慶喜の朝政参加を図ろうと努めたが、鳥羽伏見の戦いが勃発。遂に慶喜は朝敵となって政治復権の道は断たれた。

 春嶽は維新後、明治新政府側において徳川家の救済に尽力。内国事務総督、議定となり、明治2年、民部卿、大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍続となった。だが、明治3年、一切の官職を辞して以後、文筆生活に入った。「逸事史輔」などの幕末維新史の記録、武家風俗史上、貴重な著述類を執筆。また伊達宗城らと「徳川礼典録」を編纂、注目すべき業績を残した。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき」、童門冬二「小説 横井小楠」

三浦梅園・・・死後100年以上経過して認められた「条理学」の思想家

 三浦梅園は、儒学と洋学を調和した独自の自然哲学によって、大宇宙の原理を解明しようとした江戸時代中期の自然哲学者、思想家だ。その思想は独学独想で構築されたもので、「条理学」といわれる。梅園の学問は当時認められなかったが、死後100年以上経過した明治の終わりになって、人々に知られ認められるようになった。生没年は1723(享保8)~1789年(寛政元年)。

 三浦梅園は豊後国、現在の大分県国東市安岐町富永で生まれた。本名は晋(すすむ)。梅園の生まれた三浦家は、この富永村で代々医者を家業としていた。二男六女、八人兄弟の次男に生まれたが、長男が幼くして死んだため、事実上、一人息子として育てられた。

 梅園は非常に小さいときから物事を何でも疑うという性質があった。他の人が説明してくれればくれるほど、自分は分からなくなる。人はそれで分かったというけれど、自分は話を聞くとますます分からなくなってくる。何でも疑わしくなってくるというわけだ。梅園の旧宅から山を越えて4・隔たった村に、西白寺(さいはくじ))という禅宗の寺がある。ここに少年時代の梅園の勉学ぶりをしのばせるエピソードがある。

15歳の頃、彼はまず中国の詩の本を一人で読み始めた。しかし、梅園の家には字引がない。あちこち探し、やっとこの禅寺にあることを知り、月に4、5回、分からない字をためておいて、ここまで字引を引きに通ったという。17歳になると、杵築(きづき)の城下まで毎日通学した。富永から杵築まで、山を二つ越えて往復30・の道のりだ。こうして梅園の真理探究の行脚が始まった。

 当時、ヨーロッパの自然科学が漢文に翻訳されて、中国から長崎にもたらされていた。梅園はこれらを通して、西欧の実証的な学問の方法を貪欲に取り入れていった。梅園自製の天球儀が旧宅に保存されている。梅園はこれを手元に置いて、富永村の空を仰いで天体の運行を観測したのだろう。

そして、30歳のとき梅園は自然界の現象の現れ方には決まった筋道があることを見い出した。梅園はこれを「条理」と名付けている。彼には、これこそ天地万物の謎を解く鍵だと思われた。そして、彼の独創的なことはこの条理を探求していく際、数学・数式ではなく、図形をもとに緻密な思索を繰り返している点だ。

 例えば、手を離せば石がなぜ落ちるかという疑問を手掛かりとして、梅園は自らの思索を進めていった。同じように、りんごの落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したアイザック・ニュートンの例がある。両人とも通常、人が不思議としないことを不思議として、自らの問いとしたのだ。しかし、そのために用いた方法は、全く違ったものだった。ニュートンが数学の発展を考えの土台にしたのに対して、梅園は古代中国の易の陰陽の考え方を基本とした。

 梅園が自分の思想を述べた著作には畢生の大著「玄語(げんご)」のほか、「贅語(ぜいご)」と「敢語(かんご)」とがある。これらを合わせて「梅園三語」と呼んでいる。この三著作が梅園の思想の骨格を成すものだ。このうち生前に印刷されたのは、「敢語」だけだった。せっかく刊行をみた「敢語」も、当時の多くの学者からは受け入れられなかった。それは、端的に言えば難解だったからだ。梅園自身それは、他の学者に話しても簡単に理解してもらえることではないだろうと思っていたのだ。

 梅園は近隣諸藩の仕官の招聘を固辞し、生涯、三回の旅行を除いては死ぬまで郷里を離れずに学問と思索の日々を送った。三回の旅行のうち、二回までは長崎への旅だった。長崎ではオランダ通詞(通訳)に会って西洋事情を聞いたり、珍しい外国の本を写している。56歳になって梅園は、オランダ語にも並々ならぬ関心を示した。梅園の旧邸に、オランダ通詞の吉雄耕牛から梅園に贈られた木製の顕微鏡がある。耕牛は、「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」を著した中津藩の蘭学者兼医師、前野良沢のオランダ語の師だ。

 梅園の対象とした学問は天文事・物理・医学・博物・政治・経済・文学と、非常に幅広い範囲にわたっている。今日でいえば百科事典のようなものを自分でこしらえているほどだ。梅園にとっては、それらのすべては、天地万物の条理を究めていくために必要なものだった。郷里には大学者・大思想家、三浦梅園が生涯をかけて著した原稿はいまも残っており、思索を重ねた屋敷もほとんど変わらぬ姿で残されているという。

(参考資料)湯川秀樹「日本史探訪/国学と洋学」

山内容堂・・・武力倒幕画策の薩長尻目に「大政奉還」実現の演出者

 幕末、薩摩・長州両藩などが武力倒幕を画策する中、討幕を断念させたのが、土佐藩が幕府に建白した「大政奉還」だった。このとき、事実上藩政を掌握していたのが、「安政の大獄」で隠居、謹慎処分を受け、藩主を退いていた前藩主の山内容堂(隠居前は豊信=とよしげ)だった。「大政奉還」は容堂の腹心、後藤象二郎が坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策」をもとにしたもので、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することがその主旨だった。血を見ずに革命を実現させる、まさに妙案だった。これにより、山内容堂の名が広く知られることになり、土佐藩は後世に名を残し存在感を示したのだ。

 土佐十五代藩主を継いだ豊信は門閥の南家の出で、十二代藩主豊資の弟、豊著(とよあきら)の子だ。この分家南屋敷の家禄は1500石だった。藩主豊信は、吉田東洋を仕置役(参政)に抜擢し藩政改革に努めた。また、この東洋によって後年、土佐藩を背負って立つ有能な人材が発掘された。後藤象二郎(のち参政)・福岡孝弟(たかちか、のち参政)・岩崎弥太郎・乾(板垣)退助・谷干城(たてき)らだ。

 司馬遼太郎氏は山内容堂について、「諸侯きっての剛腹な男で、大酒飲みであり、剣は無外流の達人で、言辞は針を含むように鋭く、しかも言い出したら後に引かない男だ」と記しているように、長州藩主・毛利敬親らの印象とはかなり異なる、アクの強い人物だったようだ。

 一口に西南雄藩といっても、それぞれ藩内は様々な事情を抱えていた。したがって、思想は異なっていたのだ。急進・過激的な諸藩の中でも、とりわけ薩長両藩が典型的な倒幕派であったのに対し、土佐藩は「上士」・「下士」で分かれていた。土佐藩郷士(下士)は倒幕派だったが、土佐藩上士は会津藩・幕府とともに公武合体派だった。この上士を指揮していたのが容堂というわけだ。したがって、土佐藩の幕末の様々な動きは、決して藩主が了解したうえで行われたわけではない。

いや、「上士」と「下士」という動かし難い階級・身分格差が厳然として存在した同藩の場合、藩上層部は上士とつながってはいたが、倒幕派に与した郷士(下士)が中心となって進められた改革の動きは、藩主および藩上層部の全くあずかり知らぬことだった。土佐勤王党の盟主、武市半平太(瑞山)は郷士の出であり、坂本龍馬や中岡慎太郎らは脱藩しているのだから、彼らの動きをコントロールできるはずがなかった。

 幕末の土佐は、この土佐勤王党の出現により、新しい政治の時代を迎えた。武市半平太は1856年(安政3年)、江戸に出て知名の剣客桃井春蔵の道場に入門し、1857年(安政4年)塾頭を務めた。諸国の尊攘志士と交わり、江戸築地の土佐藩別邸で土佐勤王党を結成した。盟約署名の党員は192名、志を通ずる者は数百人を超えた。武市は参政・吉田東洋を説き、土佐藩を薩摩・長州と同じく勤王に固めようとした。しかし、幕府との協調路線を取る東洋は説得に応じない。焦った武市らは遂に東洋暗殺を決意、決行。保守派の門閥家老らと結び、新政権を誕生させた。この政権を武市らは陰で操縦したのだ。

しかし、「八月十八日の政変」(1863年)を機に京都の尊攘派は急激に凋落。これを好機とみた容堂が江戸より土佐に帰国し、藩政を掌握。土佐勤王党の弾圧に乗り出した。東洋暗殺の報復だった。容堂は遂に武市を追い詰め、切腹させる。だが、多数の勤王党員は脱藩、もはや藩上層部の意思で事を収められる段階にはなかった。時代の新しい潮流はもう止めようがなかった。

 容堂は薩摩藩・島津斉彬、越前福井藩・松平春嶽、伊予宇和島藩・伊達宗城らとともに、「幕末の四賢候」と呼ばれた名君とされている。だが、土佐藩の場合、後藤象二郎ら一部藩士を除けば、容堂あるいは藩上層部が主体的に藩を動かしたのではなかった。むしろ、亀山社中・海援隊を組織した坂本龍馬、土佐商会を興した岩崎弥太郎ら脱藩藩士はじめ下士ら、もっぱら彼ら藩上層部が弾圧した者たちが、したたかに、逞しく時代を動かした要素が強い。

(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、司馬遼太郎「酔って候」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、司馬遼太郎「慶応長崎事件」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、豊田穣「西郷従道」

山片幡桃 ・・・江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタント

 山片幡桃は江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタントでもあった。「幡桃」というのは彼自身が大坂の豪商升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじって付けたペンネームだ。彼は単なる豪商の番頭ではなく、彼の唱えた学説は現在でも多くの学者が高く評価している。

 山片幡桃こと、升屋小右衛門は播州印南郡米田村(現在の兵庫県高砂市米田町)の農民の子として生まれた。彼は小さいときから学問好きで、大坂の中井竹山・履軒の営む懐徳堂で学んだ。また、日本科学の先覚者だった麻田剛立(ごうりゅう)に天文学や蘭学を学んだ。

幡桃の本姓は長谷川氏だ。長谷川の家は、大坂の升屋とは親戚にあたっていた。そこで、小右衛門は小さいときから升屋の丁稚小僧として奉公した。もっとも、その前に大坂の両替商河内屋へ丁稚奉公に上がったが、生来の読書好きのため店を追い出されたと伝える史料もある。当時の常識からいえば丁稚に学問は不要ということだろう。

 ともかく他の丁稚小僧と違って、多少は血のつながりがあったために、早く番頭の役に就いた。もちろん、このころの商家のしきたりとして、ただ親戚だからといって、すぐ取り立てることはしない。それでも小右衛門がどんどん出世したというのは、それなりに彼の能力が優れていたからだ。番頭になったとき、彼は24歳だった。

 小右衛門が番頭になったとき、升屋は対外的にも内部的にも大きな危機に見舞われていた。まさに“内憂外患”の状況だったのだ。内憂は、ときの当主に実子がいなかったため、養子をもらったが、この養子をもらうとすぐ、皮肉なことに実子が生まれてしまったのだ。そうなると、当主はやはり実子が可愛く、この子に家を継がせたくなった。そこで、養子にいろいろと注文をつけ「もし、お前の身持ちが悪かったら、いつでも養子縁組を解消して、実子に家を継がせるからな」と迫り、升屋にゴタゴタを起こす原因になりかねない情勢だった。

 外患は大名貸しの破綻だ。このころの大名家はすべて極度の財政難に陥っていたから、なかなか借りた金を返してくれない。それだけでなく、借金を踏み倒すような大名家も次々と出てきたのだ。そのため、升屋では資金繰りに苦慮、本業の米屋の方も思わしくなくなっていた。

 小右衛門はまず内部固めから始めた。そして打ち出したのが当主の隠居と、養子を説得し、当主の実子に店を継がせる-との方針だった。いわば痛み分けだった。ただ、当主はまだ年少だったから、彼は補完する組織として「番頭会議」を設置した。合議制による集団指導システムだ。つまり、隠居した当主は自分の望み通り実子に店を譲れた。しかし、実権は「番頭会議」にあって、実子にはない。形の上でも、実質的にも「痛み分け」としたのだ。小右衛門は店の大事なことはすべてこの番頭会議にかけた。

 これにより、番頭たちのモラルは一挙に上がった。これも小右衛門の狙ったところだった。彼はクールな合理性を持って判断し、日本人特有の“情”にあまり煩わされることはなかった。
 次は外患の解決だ。大名家に貸した金を返してもらうことだ。そんなとき、大口の貸付先、仙台の伊達家から「わが藩のコンサルタントになって、財政を再建してくれないか」と申し込んできた。それは常日頃、小右衛門が店の者にいっていることを評価したからこその依頼だった。

彼は「貸した金が取れないからといって、うろたえてただ催促するだけでは、ことは解決しない。なぜなら相手方も財政が逼迫しているからだ。それは日本の経済がコメを中心に動いているからだ。ところが、実際に品物を買って、その支払いをするのは金だ。コメと金の相場がうまくいっていればいいが、大抵うまくいかない。それと根本的に大名家の収穫高は、昔から決まっている。積極的に新田開発をしない限り、増収は望めない。貸した金を返してもらうためには、やはり借り手の方が富まなければだめだ。だから、貸した方も借り手に対し、積極的に知恵を提供すべきだ」というのがその主旨だ。

現在でいえば、金融機関の考え方だ。つまり、ただ金を貸し付けるだけでなく、金を借りた側の経営手法についても、いろいろコンサルタント的な知恵を提供して、一緒に富むことを考えるのだ。
 依頼のあった伊達家に対し、彼が経営コンサルタントとして・コメの生産量を上げ、品質を良くすること・コメは藩政府が買い上げ、これをできるだけ多く大坂市場に出して売ること・生産性を高めるため、農民に対して肥料や農具の貸し付け行うこと・農民からコメを買い上げるとき、藩政府は藩札で支払い、大坂で売ったコメの代金は正札で差し上げること-などを助言した。

これらの施策で仙台藩は財政を好転させた。そして、彼はその正札の中から貸し金を正貨によって全部回収してしまった。この方法は各藩で評判になった。そこで尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩が、藩財政の立て直しを依頼してきた。彼は可能な限りこれを引き受けた。その期間は、番頭になったときから約30年間にわたった。主家を支えると同時に、依頼のあった各大名家の財政の再建に努力したのだ。

 山片幡桃の代表作は「夢の代(ゆめのしろ)」という本だ。この本は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書(陰陽)、異端、無鬼(神道、儒教、仏教)、雑論などの各章に分かれているが、彼の説は少し乱暴な表現をすれば、「この世に神や仏はない。すべて人間の作り出した想像物だ」と言い切っているところに特色がある。
江戸時代の稀有な経営コンサルタント、山片幡桃は、「夢の代」完成の1年後、74年の生涯を閉じた。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」

足利尊氏・・・「文武両道は、車輪の如し。一輪欠ければ人を度さず」

 これは室町幕府の創設者、足利尊氏が最晩年の延文2年(1357)に書き残した、二十一箇条からなる『等持院殿御遺言』の一節だ。国を治めるものは学問を身につけるべきである。とはいえ、戦だけを働きとする武者には学問などは無用である。

「五兵にたずさわる者に、文学は無用たるべし」。刀など五種類の武器をもって戦う男たちに学問は無用。生かじりの学問をもてあそべば、口先ばかり達者で心正しからざる侫(ねい)者となる者多し、心得るべきことだ-と尊氏は説く。

 足利氏の祖は八幡太郎源義家の第三子、源義国が晩年、足利の別業(別荘)にこもり、その次男の源義康が足利の庄を伝領したことから始まる。尊氏(初名は高氏)はこの直系、足利貞氏の嫡男として生まれている。彼の名前が歴史の舞台に表れるのは元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を企て、途中で露見して笠置(現・京都府相楽郡笠置町)に潜幸したとき、幕府の差し向けた討手の六十三将の一人として登場する。27歳の時のことだ。

 ただ、高氏は鎌倉幕府への反逆を起こす立場になかった。なぜなら先祖は源頼朝や北条政子とも縁戚を結び、以後、足利氏は北条一門とも代々、密接な血縁関係を幾重にも結んできたからだ。本来彼は革新的な人物ではなかった。性格は保守的で、日和見主義者であったとさえいえる。現代風に表現すれば、名家のお坊ちゃんだ。足利家に代々伝わる遠祖義家の「置文」(遺言状)がなければ、後世の尊氏はなかっただろう。

「天下を取れなかった八幡太郎義家が、七代目の子孫に生まれ変わって、かならず天下を取る」がそれだ。そして足利家ではこれを信奉し、義家の七代後の子孫である家時は、ご先祖の「置文」の通りに天下が取れなかった自分を嘆き、恥じ、八幡大菩薩にわが命を縮めるかわりに、これより三代の後に今度こそ、望みを叶えてくれと置文を残して、切腹して果てた。その三代目が高氏だった。彼は周囲に押し上げられるように、謀反決起を考えねばならなくなった。

その点、尊氏は時代の趨勢を的確に読んでいた。鎌倉幕府に対する不平・不満は全国の武士の間に満ちていた。そこへ天皇が反旗を翻して、一部の公家が荷担した。幕府はこれを弾圧したものの、政権としての権威の失墜は明らかだった。

元弘3年、笠置で捕らえられ隠岐(島根県)に流された後醍醐帝は再び脱出。後醍醐帝軍を討つことを命じられた高氏は、密かに後醍醐帝の綸旨(みことのり)を得て丹波、篠村八幡宮で鎌倉幕府に反旗を翻して、軍を反転して六波羅探題を討ち、北条一族を滅亡に導いた。高氏は殊勲第一の者として鎮守府将軍に任ぜられ後醍醐帝の尊治の一字を賜り尊氏と改名する。ところが、尊氏はほどなく後醍醐帝と対立し、持明院統の豊仁親王を担ぎ皇位につけ、光明天皇として遂に足利十代にわたる悲願であった足利幕府を樹立する。

ただ、ここに至る行動の采配は実弟の直義や執事の高師直が振るっているのだ。室町幕府の創設期、幕府の実権は直義と師直の両者が握ることになる。この両者に実権を握られ続けながら、「人望」のある尊氏は時代の方向を的確に読み、カリスマ性を発揮しつつ、遂には征夷大将軍となった。
   
(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

在原業平・・・「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」

 人間の死に例外はない。誰にでも訪れる。しかし、昨日今日とは思わなかった-という驚きと不安と絶望、さらにはこの世に対する未練など様々な心情や思いが含まれた歌だ。 

 在原業平(825~880年)は平安初期の歌人で六歌仙の一人だが、「色好み」として知られている。業平の恋のアバンチュールの相手は二条后・藤原高子と恬子内親王とが主なものだ。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母だ。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢の斎宮として男性との一切の交渉を禁止されていた女性だ。このほか、清和天皇の后で貞数親王の母である姪の在原文子とも、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子、すなわち五条后とも男女関係があったとみられている。すべて貴顕の、いやもっといえば、通常は全くタブーの相手ばかりなのだ。

 こうみてみると、業平の恋の情熱は普通の形では燃え上がらず、なぜかタブーを犯した時に初めて激しく燃え上がるのではないか。その理由は彼の生まれにあるのではないだろうか。彼は平城天皇の皇子・阿保親王の第五子で、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女だ。平城天皇は嵯峨天皇の兄で、本来なら彼はこの平城天皇の系譜に伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、阿保親王は親王の位として最も低い四品にとどまり、伊豆内親王は无品であり、その子供たちも826年、やむなく臣籍に下り、「在原」姓を名のったのだ。

 これは勝手な類推に過ぎないが、業平の心の中に“天皇”への野望が隠れていたのではないかと思われる。「薬子の乱」などの混乱が起こらなければ、本来、自分は天皇となるべき存在だったのに-との密かな思いがあったのではないだろうか。それで、現実には叶えられぬ痛切な、無念の思いを、タブーの天皇の后妃たちとの恋に身をやつし、人生のすべてを捧げたのではないか。

 業平はその容姿が美しく、美男の典型とされている。放縦で物事にこだわらず、天才肌で多くの優れた歌を残している。次の歌などはよく知られている。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
世の中に桜がなかったら、春の日々はもっとゆったりと暮らすことができるだろうに。桜があるために忙しくてしかたがない-という意味だ。それほど、この時代の人々は桜の咲く頃を、桜の美しさを讃えるとともに、桜に様々な思いを託して楽しんだのだ。
 
 『伊勢物語』は色好みの男としての伝説を歌物語に結晶させたものだ。この中のよく知られた秀歌も取り上げておきたい。

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
これは武蔵と下総の境の隅田川で詠んだ歌だ。都鳥(ユリカモメ)という名をもつ鳥と聞いて都の恋人を想い起こすのは業平ならではだ。いま、東京の中心を流れる隅田川には言問橋(ことといばし)、その支流に業平橋がかかっている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」
                             

伊能忠敬・・・「緯度一度の距離を測る」 日本全土の精密地図をつくる

 伊能忠敬は19世紀の初頭、それまでは存在しなかった日本全土の精密地図を、50歳を過ぎてから取り組んだ第二の人生でほぼ独力でつくり上げた。その基本となるのが上記の「緯度一度の距離を測る」ということであった。

といっても、実測する以前に難しい点や高いハードルがいくつもあった。周知の通り、徳川時代は「幕藩体制」で「中央集権と地方自治の混合時代」だ。幕末時点でも全国に280の大名家・藩があり、藩と藩との間には厳しい国境が設けられ、関所がつくられていた。人の出入りや、ものの流れのチェックが、現在ではとても信じられないほど厳しい時代だった。

また、固く確立した「士農工商」の身分制があった時代のことだ。「一農民が何人もの大名の領地に入って、いろいろと測量することは大きな反発を招く」というわけだ。そこで、忠敬の身分は「公儀お声掛り」という幕府公認の測量者という体裁がつくられた。

 忠敬は寛政12年(1800年)、55歳のときから文化13年(1816年)、71歳のときまで16年間にわたり10回もの日本国内測量を続けた。測量のために歩いた距離は4万3000・・。地球を一周してなお、おつりのくる長さだ。総日数3753日にもなる測量の旅で、第一の人生で家業立て直しや村政で培った合理主義と創意工夫で問題を一つ一つ解決しながら、測量法や測量機器の改善を重ねて、精密な「大日本沿海輿地全図」を完成させた。

 ただ、残念なことに忠敬は自分の手では完成させることはできなかった。文政元年(1818年)、持病のぜんそくが悪化し、忠敬は74歳の生涯を閉じる。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海輿地全図」が、門人たちの手で幕府に納められた。

だが幕府はこの地図を公開せず、秘蔵してしまう。「伊能図」の優秀さが世界に知られるのは、それから40年後のことだ。文久元年(1861年)、来日した英国の測量艦隊は、幕府から派遣された役人が所持していた伊能小図を見て、その精密さに驚嘆した。

そのため、その測量艦隊は改めて測量する必要がないと判断。それを写させてもらい、日本近海の深さだけ測って帰ってしまったという。明治になっても、陸軍参謀本部測量局が作成した20万分の1の地図の中心となったのは、伊能中図だった。

 「人生わずか50年」といわれた200年も前に、50歳を過ぎて新しい学問に取り組み、これをマスター。そして、日本列島北から南までのほとんどを踏査、また独自に測量機器に改善を加えながら、当時の外国人からみても驚嘆するほどの精密な日本地図を完成させた伊能忠敬のすさまじいエネルギーには脱帽するしかない。

(参考資料)童門冬二「伊能忠敬 生涯青春」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉鷹山・・・ 「国家は私すべきものにあらず」 江戸期に「主権在民」謳う

 これは米沢藩・九代藩主上杉鷹山が前藩主の実子、治広に藩主の座を譲り隠居するときに藩主の心得として与えた『伝国之辞(譲封之詞)』にある言葉だ。

全体を記すと、
一、 国家ハ先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にハ無之候
一、 人民ハ国家に属し足る人民にして、我私すべき物にハ無之候
一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には是なく候

 ここでいう国家とは米沢藩、人民とは領民のこと。「藩と藩民は大名やその家臣が私するべきものではない」と力強くその公共性を説いている。これは今日でいう「主権在民」の思想だ。まだジャン・ジャック・ルソーも生まれていないし、フランス革命も起こっていない。米国でリンカーンが「人民による、人民のための、人民の政治」と声高に叫んだあの有名な演説よりはるか前に書かれたものだ。徳川の厳しい幕藩体制の枠組みの中での発言だけに、その勇気には目を見張らせるものがある。現代の政治家にも、大いにかみ締めてもらいたい言葉だ。米国大統領ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人として挙げたのもうなずける。

 鷹山は明和4年(1767)、17歳で米沢藩主になった時に、自分の決意を和歌に詠んでいる。「うけつぎて国の司の身となれば 忘れまじきは民の父母」がそれだ。きょうからは家臣や藩民の父となり母となり、彼らを慈しむ政治を行おう-との覚悟を述べたものだ。

 上杉鷹山(1751~1822)は日向(宮崎県)高鍋藩3万石秋月種美の次男で幼名直丸、のち治憲、鷹山は号。宝暦10年(1760)出羽(山形県)米沢15万石の藩主、上杉重定の養嗣子となる。家督を継いだ時の藩財政は、万策尽きた前藩主重定が藩主の地位を放棄し、15万石の領土を幕府に返上しようという前代未聞の決断をしたほどの窮状ぶりだった。

この倒産同然の老朽会社ともいえる米沢藩を鷹山は・従来の諸儀式、仏事、祭礼、祝事を取り止めまたは延期・50人の奥女中を9人に減らす・藩主以下全員、食事は一汁一菜、綿服の着用、贈答の廃止-など12カ条に及ぶ倹約令を公布。また農村の復興に取り組み、藩士たちにも開墾を奨励したほか、農家の副業を奨励し桑・コウゾ・漆の栽培を指導し、製糸技術の改良、織布技術の輸入を図り、京都や越後の小千谷から職人を招いて、産業技術振興に務めた。その結果、藩内に大いに織布工業が興り、江戸でも米沢の織物の声価を高めた。

こうした様々な諸施策によって、天明5年(1785)米沢藩を黒字財政に乗せた後、まだ35歳の若さで鷹山は藩主の座を譲り隠居した。当時はもとより、現代ではとても考えられない見事な進退の処し方だ。

(参考資料)童門冬二「上杉鷹山の経営学」、童門冬二「小説 上杉鷹山」、藤沢周平「漆の実のみのる国」、内村鑑三「代表的日本人」、神坂次郎「男 この言葉」

勝海舟・・・ 「党派をつくるな、子分をもつな」

 勝海舟が遺した言葉には様々な名言があるが、これは『氷川清話』に出てくる言葉だ。
その件(くだり)を引用すると

「なんでも人間は子分のない方がいいのだ。見なさい。西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。おれの目でみると、大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことができないで、子分にかつぎ上げられて、ほとんど身動きもできないではないか。およそ天下に子分のないのは、おそらくこの勝安芳一人だろうよ。それだから、おれは、起きようが寝ようが、しゃべろうが、黙ろうが、自由自在、気随気ままだよ」

人を食ったような、皮肉たっぷりな口ぶりで語っている。
確かに、勝海舟は徒党を組んで事を運ぶということはなかった。幕末~明治維新の大きな節目の一つとなった江戸城の“無血開城”にしても、幕府軍すべての実権を掌握、軍事取り扱いに昇進した海舟が、西郷隆盛との会談でまとめあげたものだ。

当時は慶応4年(明治元年、1868)鳥羽伏見の戦いに幕軍を撃破し、勢いに乗る官軍が江戸城総攻撃を叫んでいたわけで、西郷に対する相手が海舟だったからこそできたことといわざるを得ない。
 とはいっても海舟は幕臣であり、生涯“一匹狼”的に行動したわけではない。海舟のもとに様々な人が群がり集まった時期もあった。万延元年(1860)正月、海舟は軍艦咸臨丸の艦長として太平洋を横断、米国へ渡った。帰国後海舟は14代将軍家茂の信任を得て軍艦奉行並、従五位下安房守となり、神戸海軍操練所を建設。

こんな幕府海軍きっての高官で、当代随一の海外新知識の持ち主である海舟のもとに勤皇・佐幕を問わず様々な人材が集まった。坂本龍馬、吉村寅太郎、桂小五郎(木戸孝允)などで、中には“人斬り以蔵”の異名で恐れられた土佐の岡田以蔵までやってきて、結局は海舟に説かれて心服し、彼の身辺警護を務めるという時期もあったほど。

しかし、海舟は彼らと“党派”を組むこともなければ、誰かを“子分”にすることもなかった。大胆かつ沈着冷静な進言により、抜擢・登用と失脚を繰り返した幕臣、海舟。彼は最終的に「西南戦争」で散った盟友、西郷に対し、「西郷も、もしあの弟子がなかったら、あんなことはあるまいに、おれなどは弟子がないから、このとおり今まで生きのびて華族様になっておるのだが、もしこれでも、西郷のように弟子が多勢あったら、独りでよい顔もしておられないから、何とかしてやったであろう」と人間の弱さを認めつつ、「なんでも人間は子分のない方がいいのだ」と子分を持つことを戒めている。

(参考資料)「氷川清話」(勝海舟 勝部真長編)、「男 この言葉」(神坂次郎)
      「江戸開城」(海音寺潮五郎)、童門冬二「小説 海舟独言」

河村瑞賢・・・「なすところはみな夢幻にして、実相を悟るべし」

 これは河村瑞賢が晩年、その著書『農家訓』の中で語っている言葉の一節だ。長いので中略して主旨部分を記すと「夢幻の身を以って夢幻の身を養い、夢幻の身を育て夢幻の身を厭い、なすところはみな夢幻にして、不思議(思考を超えた)の法門に入り、すなわち実相(真理)を悟るべし。(略)すみやかによろしく有縁(仏法に縁のある)の教法によって、未来の解脱(現世の苦しみから解放され絶対自由の境地に入る)を得るべし」だ。

 徳川・元禄時代、天下有数の政商となり、旗本にまでのし上がった瑞賢にしては、ずいぶん気弱な無常観に満ちた言葉だ。これが功成り名遂げた人間がたどりついた、枯れた境地なのか。
 瑞賢は元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村の貧しい農夫太兵衛の長男に生まれた。通称を十(重)右衛門。生活の道を求めて13歳で江戸へ。だが、江戸での車力(車曳き)暮らしに絶望した彼は、やがて都落ちする。その失意の道中の小田原宿で、彼は旅の老僧に諭され、再び江戸へ引き返して行く。そして品川の海岸まで来たとき、折から盂蘭盆過ぎで浜辺には仏前に供えた、おびただしい量の胡瓜や茄子が打ちあげられていた。「これだ」と感じた彼は、乞食たちに銭をやり、それを拾い集めさせ漬物にして売り出し、大もうけした。一般によく知られている瑞賢の出世譚の一つだ。 

こうして稼いだカネを資金に、大八車を買い求め車曳きたちを集め車力業の第一歩を踏み出した。大江戸開発ブームの花形である車両運送の親方になった十右衛門は、稼ぎ集めたカネを投入して材木商となり、さらに普請と作事、つまり土木と建築の請負業へと転進する。 

 そして明暦3年(1657)江戸城をはじめ江戸市街の大部分を焼き尽くした未曾有の大火が起こる。「いまだっ」と感じた瑞賢は手元にあった10両を懐中にして木曾へ走った。江戸大火の風評も届かぬ先に木曾にたどりついた彼は、山林王といわれる屋敷の門に駆けつけ、庭先で遊んでいたその家の子供を見ると、懐から小判3枚を取り出し、小柄で穴を開けこよりを通してガラガラ玩具をこしらえて与えた。

子供がもらった小判の玩具に驚いた主人は、瑞賢をよほどの分限者(富豪)と思い、後からカネを持ってくる番頭を待っているという瑞賢を信用し、持ち山すべての材木を売り渡す証文に印を捺した。そして、瑞賢が雇った人夫たちが伐り出してきた材木に「河村」の刻印を打っているころ、ようやく江戸の材木商たちが木曾材の買い付けになだれ込んできた。

 が、もう遅い。彼らは瑞賢から彼の言い値で高価な材木を買うしかなかった。材木商たちに売却した代金で山林王への支払いを済ませ、残りの大量の材木を江戸に運んだ瑞賢は、他の材木商よりはるかに安い材木を売り出し、すべて売り尽くして巨利を博したという。抜群の知恵者、瑞賢の一端を示すエピソードの一つだ。

 ディベロッパーとしての瑞賢の偉大さも見落とせない。彼は「幕府御用」の金看板のもとに海運界の地方分権(諸国大名領)を解体し、幕府のお声がかりの事業として奥州(福島、宮城、岩手、青森)からの東廻りの航路、そして近世海運史上画期的ともいう出羽(山形)からの西廻り航路を開発したのだ。この航路の出現によって、江戸、大阪はもとより諸国の都市に飛躍的な繁栄をもたらした。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」、神坂次郎「男 この言葉」