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私説 小倉百人一首 No.14 河原左大臣

河原左大臣
※源 融(とおる)

みちのくのしのぶもぢずりたれ故に
       乱れそめにし我ならなくに

【歌の背景】上二句「みちのくのしのぶもぢずり」は、「乱れそめにし」というための序詞。したがって、陸奥の信夫の郡でつくられたという信夫もぢずりは当時、京ではおそらくもてはやされたのであろう。恋の歌のやりとりで、自分の不実をなじる相手を逆にやんわりとなじる駈け引きの歌。

【歌 意】陸奥の信夫郡から産出するもじ摺りの衣の乱れ模様のように、私の心は乱れ始めた。一体誰のせいでこのように心が乱れ始めたのでしょう。それはあなたのせいです。(それなのに私の心をお疑いとは心外です。)

【作者のプロフィル】源融のこと。嵯峨天皇の第十二皇子。母は正四位下大原金子。承和5年臣籍に降り、源姓となる。皇位への思いままならぬ無念さを晴らすごとく、巨富に任せて邸宅河原院や嵯峨山荘棲霞観を営み、豪奢な生活を送った。貞観の初め従三位、同14年左大臣。陽成天皇元慶元年に正二位となる。宇多天皇のとき従一位まで昇り、寛平7年(895)8月、74歳で没。

私説 小倉百人一首 No.15 光孝天皇

光孝天皇

君がため春の野に出でて若菜摘む
       わが衣手に雪はふりつつ

【歌の背景】光孝天皇がまだ即位する前の時康親王といったころ詠んだ歌。自分で若菜を摘んで贈ったとも、贈った日にちょうど雪が降っていたのでこのように詠んだともいわれている。ただ、その若菜および歌を届けた相手の人とは誰か?定かではないが、藤原基経ではないかといわれる。基経は10代という若い陽成天皇を帝位から下ろし、55歳という高齢の光孝天皇に代えた“実力者”だけに、そう考えると恋歌のかたちを取りながら、別の意味を含んだ歌だ。

【歌 意】あなたに差し上げたくて、春の野に出て、かつては神に捧げたという若菜を摘んでいますと、私の衣の袖に雪はしきりに降ってきます。

【作者のプロフィル】第58代の天皇。名は時康。仁明天皇の第三皇子で、御母は贈皇太后藤原沢子。幼少から経書史書をよく読み、賢く穏やかなひととなり  だったので、祖母の橘太后に可愛がられた。55歳という高齢で即位し58歳で亡くなった。

私説 小倉百人一首 No.16 中納言行平

中納言行平
※在原行平。業平の兄。

たち別れいなばの山の峰におふる
       まつとしきかばいまかへりこむ

【歌の背景】因幡守に任じられた行平が、任地へ赴くため京を出立するにあたり、親しい人に名残りを惜しんで詠んだもの。「因幡」の国にある「稲羽」山、「松」と「待つ」というように掛詞を二つ使っているところにおもしろさがある。

【歌意】私はこうしてあなたと別れて行きます。でも、あの稲羽山の峰に生えている松の「待つ」という言葉のように、あなたが私を待っていると聞いたら、すぐにも帰って来よう。

【作者のプロフィル】在原行平。平城天皇の皇子・阿保親王の第二子。母伊豆内親王は桓武天皇の皇女。天長年間(826)在原氏として臣籍に下る。業平の兄。経済の才能があり治績をあげた。天慶年間、中納言正三位となり、寛平年間(893)76歳でなくなる。仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多の六朝に仕えた。

私説 小倉百人一首 No.17 在原業平朝臣

在原業平朝臣

ちはやぶる神代もきかず竜田川
       からくれなゐに水くくるとは

【歌の背景】二条の后・藤原高子がまだ清和天皇の女御で、東宮(後の陽成天皇)の御息所といわれていたとき、屏風に龍田川に散った紅葉が流れている絵が描かれているのを題にして詠んだ。
【歌意】いろいろ不思議なことのあった神々が住んでいたと想像された時代においても聞いたことがない。たつ田川の水をこんなに真っ赤にくくり染め(絞り染め)にするとは。
【作者のプロフィル】在原業平は現代風にいえば名うてのプレーボーイだった。彼の恋の相手は二条の后・藤原高子と恬子内親王。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母である。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢神宮の斎宮として男性との一切の交渉を禁じられていた女性である。このほか、清和天皇の后であり、貞数親王の母である姪の在原文子、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子らもアバンチュールの相手と噂された。いずれも高貴な女性であり、すべて禁忌(タブー)の不倫だ。
 彼は平城天皇の子、阿保親王の第五子であり、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女。したがって、本来ならこの平城天皇の系譜に彼の皇位は伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、子供たちもやむなく臣籍に下り「在原」姓を名のったというわけだ。
 そんな不遇の生い立ちがアバンチュールの相手として、何事もなければ社会的に同列に並んでいたであろう天皇の后妃たちを選び、彼をタブーの恋に駆り立てたのではないだろうか。
 「伊勢物語」の作者。六歌仙に一人。

私説 小倉百人一首 No.18 藤原敏行朝臣

藤原敏行朝臣

すみの江の岸による浪よるさへや
       ゆめのかよひ路人めよくらむ

【歌の背景】宇多天皇の母后班子親王の御殿で催された歌合に詠んだ歌。「住の江の岸による浪」までは「夜」を言い出すための序として使われている。住の江は住吉の古称。

【歌 意】かつて難波の都があり殷賑を極めた住の江の浦。そこに寄せる波のように、あなたに寄り添い一つになりたいと願っている私なのに、昼間実際に通って行く道でならともかく、夜でさえも夢の中で通って行く道においてまで、どうしてこんなに人目を避けるのであろうか。

【作者のプロフィル】従四位下陸奥出羽按察使富士麿の長男。母は刑部卿紀名虎のむすめで、妻が在原業平の妻の妹だったことから、業平らのグループと親しかった。仁和2年6月に従六位上、左兵衛権佐、右近少将、さらに右衛門督になる。彼の代表作は『古今和歌集』に収められている「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」で、優れた歌として名高い。没年については二説ある。昌泰4年(901)、延喜7年(907)のいずれか不明。若死にだったようだ。

私説 小倉百人一首 No.19 伊 勢

伊 勢
※伊勢守藤原継蔭のむすめ。

難波潟みじかき芦のふしの間も
       逢はでこの世を過ぐしてよとや

【歌の背景】宇多天皇の皇后温子の兄、藤原仲平との恋を詠んだもの。恋人に対する思慕と怨恨とが入り混じった、恋する女性の心情を詠んでいる。

【歌意】難波の潟に生えているあの芦の短い節の間ほどのわずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。(それはあんまりです。)

【作者のプロフィル】伊勢守、藤原継蔭のむすめ。仁和の頃、七条の后に仕えたので、父の官名を呼び名にしていた。はじめ藤原仲平、次いで宇多天皇の寵愛を受け、さらには宇多天皇の第四皇子敦慶親王と、恋人を変えた情熱的歌人。ただ、小野小町が情熱をそのまま表現したのに対し、彼女の歌は情熱を抑えた慎ましい表現であったのが特色。宇多天皇との間で行明親王を産んだため「伊勢の御息所(みやすどころ)」とも称せられた。

私説 小倉百人一首 No.20 元良親王

元良親王

わびぬれば今はた同じ難波なる
       みをつくしても逢わむとぞ思ふ

【歌の背景】元良親王が不倫の恋人との秘め事が露見して問題になったとき、逢うこともままならない侘しい心情を不倫相手の京極御息所に送った激情の歌。京極御息所とは藤原時平のむすめ、褒子。

【歌意】こうして心が晴れず寂しくつらい思いをしているのだから、今はもう逢わないでこうしているのも、逢って世事の煩わしさに苦しむのも同じことだ。だから、難波の海の澪標(みおつくし)のように、たとえこの身を滅ぼすことになっても、あなたにお逢いしたいと思う。

【作者のプロフィル】陽成天皇の第一皇子。母は主殿頭藤原遠長のむすめ。三品・兵部卿。和歌に優れ、抒情歌を多く詠まれた。また、非常に色好みな性格で、美しいと風聞のある女性には必ず言い寄られた。天慶6年(943)54歳でなくなられた。

私説 小倉百人一首 No.21 素性法師

素性法師
※俗名は良岑玄利(よしみねはるとし)。父は僧正遍昭。

今来むといひしばかりに長月の
       有明の月を待ち出でつるかな

【歌の背景】恋する女性の立場に立って詠まれたもの。男のかりそめの言葉を頼りにして、もう来るか、もう来るかと秋の夜長を一晩中、待ち明かし、有明の月を見る結果になったというやるせない気持ちを詠んだもの。男性、それも僧が恋歌を作っている点に陰翳が感じられる。

【歌 意】「すぐ来ます」とあなたが言ったばかりに、私はその言葉を信じてもう来るか、もう来るかと待ちました。そのうちに長い九月の夜も明けて、肝心のあなたは来ないで、待ってもいない有明の月を見ることになってしまったことです。

【作者のプロフィル】父は僧正遍昭で、その在俗中に生まれた。素性は俗名を良岑玄利といった。由性法師は弟。初め清和天皇に仕え、右近衛将監であった。父の意志で出家し、その後上京の雲林院に住み、権律師に任ぜられ、また大和の石上寺の良因院の住持となった。彼がなくなったとき、紀貫之、凡河内躬恒らが哀悼歌を贈ったほど当時有名な歌人だった。

私説 小倉百人一首 No.22 文屋康秀

文屋康秀

吹くからに秋の草木をしをるれば
       むべ山風をあらしといふらむ

【歌の背景】この歌の作者については、文屋朝康(文屋康秀の子)の作とする説もある。山風をあらしということに対して、草木がしおれてしまう、つまり草木をあらすから、あらしというのだろうという理屈をつけた歌。言葉の遊びとしての面白みだけのもの。

【歌 意】風が吹くとすぐに秋の草木がしおれて枯れるので、なるほど山の風を(続けて書けば)“嵐”という文字の読みの通り“あらし”というのであろう。

【作者のプロフィル】「姓氏録」には、文屋の姓は天武天皇の皇女二品長親王の後なりとある。貞観2年(860)に刑部中判事となり、後、三河掾になり、元慶元年に山城大掾、同9年に縫殿介となった。六歌仙の一人。

私説 小倉百人一首 No.23 大江千里

大江千里

月みればちぢにものこそかなしけれ
       わが身一つの秋にはあらねど

【歌の背景】是貞親王の歌合せに詠んだもの。秋の月を見て人の心に宿る悲しみを嘆いている。秋を悲しいもの、感傷的なものと見る季節観の型に合わせて作られた歌。

【歌意】秋の月を見ると、あれこれ悲しいことが思い起こされる。秋は世の中のすべての人に来た秋だのに、なぜか自分だけに来た秋のような気がして。

【作者のプロフィル】平城天皇の皇子・阿保親王(在原業平の父)の曾孫にあたり、参議大江音人の第三子。父音人の時代、もとは大枝と書いていたが、大江氏を賜り臣籍に下った。父に似て漢学、文学に優れ、とくに和歌に巧みだった。生没年不詳。