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正岡子規・・・ 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。

 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。

 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。

子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。

子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。

野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

松尾芭蕉・・・ 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 これは周知の通り、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の冒頭の言葉だ。単純に考えると、「月日」も「年」も旅人だというのは、冒頭の言葉に続く、次の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」遂に奥の細道の旅に出た、という言葉を導くための前口上のようなものと思われる。しかし、俳諧の天才、芭蕉はこの言葉をもっと奥深い言葉として表現しているのではないか?

梅原猛氏によると、月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。ところが、それは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」すなわち生死があるという。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのだ-と分析する。

このように考えると、芭蕉の宇宙論は地球を固定して考える天動説でもなく、太陽を固定して考える地動説でもなく、すべての天体を含む宇宙そのものを永久の流転と考える宇宙論なのだ。そして、この宇宙論は最近、現代科学が展開した宇宙論に似ており、芭蕉はまさに時空を超えた宇宙論を持っていたとも考えられる。

また、この「奥の細道」には多くの謎が隠されている。詳細にこの旅行記を分析した歴史家たちの間では、実は芭蕉は諜報員だったのではないかという説がささやかれている。この説には3つの根拠がある。1.「奥の細道」で訪ね歩いた場所が、ほとんど外様大名がいる藩2.芭蕉の生まれ育ちが伊賀3.同行した弟子の河合曾良が毎日几帳面につけていた日記から浮かび上がる芭蕉の不可解な行動-だ。「奥の細道」は芭蕉が45歳のとき、奥州地方と北陸地方を150日間かけ2400km近くを歩いて回った経験をもとに、3年後の元禄5年に書かれたものだ。

全国統治のため、徳川幕府が各藩の大名の行動や考え方を知るには、幕府お抱えの諜報員たちに実際に調べてもらうしかない。幕府の諜報員たちは薬売りなど商人に姿を変えたりして、全国各地を飛び回った。だが、地方分権に近い当時は治安維持のために藩内のどこにでも誰もが近づけるわけでもなく、ましてよそ者が好き勝手に行動することなどできなかった。

諜報員としての理想の条件は、どこにでも行ける旅の目的があり、藩内を自由に動ける権限を与えてくれる高官や、地元に詳しい人物とのコネを持つ人間だった。著名な俳人である芭蕉は、その条件にピッタリなのだ。

「奥の細道」と曾良の日記とは実に80カ所も日時と場所が異なっている。それは2日に1度の割合で違いをみせており、どちらが本当の行動なのか多くの歴史家が首をひねっている。互いに別々の宿に泊まっていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に2人が一緒ではなかったことが明らかだ。芭蕉は何か別行動を取る必要があったのか?

旅のペースも不思議だ。何かを追いかけるように急いだり、あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留している。「奥の細道」の記述をもとに類推すると、芭蕉はまるで忍者のように頑健な体力の持ち主なのだ。こうしてみると、芭蕉への謎は深まるばかりだ。

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれた。松尾家は農業を生業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。生没年は1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、“俳聖”と呼ばれた。

 弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。
 芭蕉の“俳聖”の顔と、裏の諜報員の顔、十分両立する気もするが、果たして現実はどうだったのか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

三井高利・・・「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 

 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。

 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。

 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。

 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。

そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。

天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」

                             

吉田松陰・・・「身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂」

 これは安政6年(1859)10月27日、江戸・伝馬町の牢内で斬首された吉田松陰の“最期の言葉”辞世の句だ。もう一つある。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」だ。これは安政元年(1854)正月、米艦六隻を率いたペリーが、前年に続いて浦賀港に現れた時、この米艦に乗り込み嘆願書を渡し、密航を企て交渉しようとして失敗。自首して江戸の獄に下る時に詠んだものだ。両句とも「大和魂」で結ばれているように、日本という国の行く末を見つめた“憂国の心情”があふれている。

わずか30年の生涯を閉じた吉田松陰は、日本の教育者の中でもまれにみる魂のきれいな学者だった。彼が開いた松下村塾が輩出した数々の門人たちが、明治維新の立役者となったことは周知の通りだ。教育現場の荒廃が叫ばれる今日、彼の生き方と彼が遺したものの一端を見てみたい。

 松陰、吉田寅次郎は、1830年8月4日、長門国萩松本村護国山の麓、団子岩に生まれた。父は家禄26石、杉百合之助常道。母は児玉氏、名は滝。幼名を虎之助といい、杉家七人兄妹の二男だった。杉家から数百歩離れた所に父の弟、玉木文之進が居を構えていた。虎之助に対する基礎的な教育は、父以上に封建武士に特有な精神主義者のこの叔父に負うところが多かったようだ。松陰は父と同時に、この叔父の大きな影響を受けて成長した。

 松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流軍学師範を家職としていた。世襲制である。したがって、吉田家の当主が早く死んだ後は、幼い松陰がこの家職を引き継いだ。天保6年(1835)6歳の時のことだ。厳格な叔父の、年齢を無視した求道者的な教育を受け、早熟な彼は11歳のときにすでに藩主の前で講義を行っているほど。

 松下村塾は松陰が開いたものではない。叔父の玉木文之進が開いたのだ。やがて、この塾を叔父から引き継ぐ。松陰は藩に正式な手続きを取らないで、東北など日本各地を歩き回った。その罪に問われて牢に入れられた。牢から出た後も、今後は一切他国を出歩いてはならないと禁足処分となった。そうした制約を加えられて、門人を教えることを許されたのだ。

 八畳と十畳の二間しかないこの狭い塾から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。また、驚くのは松陰がこの塾で若者たちを教えた期間がわずか2年にも満たないことだ。こんな短い期間に、あれだけ多くの英才が輩出したのだ。まさに奇跡といっていい。こんな指導者はどこにもいないだろう。

 松陰は死学ではなく、生きた学問を教え、「人を育てつつ、自分を育てる」ということを実行。そして、彼には私利私欲というものが全くなく、「人間は生まれた以上必ず死ぬ。だからこそ生きている間、国のため、人のためになるような生き方をしなければならない」と考えていた。弟子たちは松陰のそういうところに心を打たれ、敬慕の念を募らせたのだろう。

(参考資料)奈良本辰也「吉田松陰」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

浅野総一郎・・・並外れた体力で、廃物利用に目をつけたセメント王

 浅野総一郎は、自ら創設した株式会社の数は浅野セメント(後の日本セメント)はじめ30数社に上り、いまなお設立した会社の数において、わが国最多記録保持者の地位を維持している。
 総一郎は1848年(嘉永元年)、富山県氷見郡(現在の氷見市)で町医者の長男として生まれた。成人して後、事業に手を出し、失敗して養子先を離縁され、明治4年、24歳で借金取りに追われるように京都、次いで東京に出奔した。以後、大熊良三の偽名を使い債鬼の眼を逃れつつ、廃物利用産業に狙いを定め、遂にセメント王と称されるようになった。巨財を掌中にしてから畢生の大モニュメント「紫雲閣」を東京・港区の田町に築いた。巨富を手にしてからも質素、倹約の生活に徹し、好物は汁粉とうどんだけ。晩年も夫婦揃ってセメント工場内に職工たちが履き捨てた下駄を拾い集め、再生利用したといわれる。

 総一郎が手掛けた数多い事業の主柱は、何といってもセメントだ。その頃、セメントは煉瓦と煉瓦をくっつける接着剤程度にしか使われていなかったが、彼はセメントそのものが建築材料として大量に使われる日がくるし、そうあらねばならぬと主張。国の財産を保護するためにも、セメント製造を見限ってはならぬと説いた。

彼が渋沢栄一の引き立てをバックにして、官営セメント工場の払い下げを受け、後年の「セメント王」への端緒をつかんだのは、明治16年、36歳の時だった。この頃の総一郎は、朝は5時からセメント工場に入り、夜は12時過ぎまで。製造も販売もやった。一日、職工たちと一緒にセメントの粉にまみれて働いてから、夜は王子製紙の支配人について簿記を習い、夜更けまでかかって一切の記帳を自分でやった。さらに午前2時にまた起き、カンテラを提げて工場内を見回った。

従業員の気持ちをも引き締めた。出勤時間に背いた者は、懲罰の意味で黒板に名を書き出した。事務員には会計も購買も製品の受け渡しもやらせる。製造係に販売もやらせるといったふうに、一人二役にも三役にも働かせたが、その半面、従業員優遇法として社内預金による積立金制度を設けたりした。

 一日4時間以上寝ると、人間バカになる。20時間は労働すべきだと総一郎は考えていた。そんな彼がとうとう血を吐いた。そこで医師はかれに「あなたは命と金とどちらが欲しいのですか?」と詰め寄った。彼は平然と「命も金も両方とも欲しい」と答えた。医者は苦笑してサジを投げた。
 妻のサクも総一郎に負けず頑張った。彼女は総一郎が竹皮屋を始めた頃、布団を借りていた貸し布団屋の女中だった。総一郎は早朝から夜更けまでのなりふり構わぬ彼女の働き振りに惚れて結婚した。彼女は4人の子持ちになっても、なお工場に出て総一郎を助けた。当時のセメント工場は床土が焼けてくるため、職工たちは下駄を履いて仕事していたが、鼻緒でも切れると、すぐセメントの山の中に捨ててしまう。彼女はそのセメントの中から下駄を拾い、きれいに洗って鼻緒をすげ直し、また職工たちに履かせたという。

 総一郎が「セメント王」になった秘密は、廃物に目をつけた商才にあるが、いまひとつ忘れてはならないのが、並外れた体力だ。60歳を超えても体力はいささかの衰えもみせず、若い頃からの習慣である早朝4時起床、入浴、訪問客との商談、そしてオートミールと味噌汁の朝食を済ませると、6時には飛び出していくという日課を変えなかった。しかも60、70歳になっても性力が旺盛だった。好みの女を見つけると、即座に手を握って離さない。顔の方はどうでもよく、ただ太った女でさえあれば、目の色が変わってしまうくらいだった-との旧側近の懐古談があるほど。まさに絶倫男だったのだ。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

伊藤忠兵衛・・・現在の伊藤忠商事・丸紅の前身をつくった近江商人

“足で稼ぐ”をモットーとする近江商人の家に生まれた伊藤忠兵衛(当時栄吉)は、11歳から行商に出され、麻絹布の「出張卸販売」で成功。明治5年、29歳で大阪に呉服反物店・紅忠(現在の「伊藤忠商事」・「丸紅」の前身)を開店。晩年は海外進出にも力を注いだ。生没年は1842(天保13年)~1903年(明治36年)。

 近江国犬上郡豊郷村の呉服太物を商う紅長こと五代目伊藤長兵衛家に1842年(天保13年)、二人目の男児が出生。後の忠兵衛、当時の栄吉だ。紅長は店売りもしたが、近隣各地へ盛んに行商に出かけていった。栄吉も11歳になったとき、兄・万治郎のお供をして商いに行かされた。父は、次男の栄吉はいずれ家を出て独立するのだから、早くから商いに慣れた方がいいと判断したのだ。

兄の万治郎は持っていった荷を楽々と売りさばいたので、栄吉はこれくらい自分ひとりでもできると軽く考え、次は一人で行商に行ったが、ほとんど売れなかった。商売は難しいことを痛感する。難しさが分かってこそ本物の修業が始まる。

 1858年(安政5年)、15歳になった栄吉は名を忠兵衛と改め、いよいよ持ち下り商いに乗り出した。彼は麻布50両分を伯父の成宮武兵衛から出してもらい、最初なので伯父に連れられて豊郷村を後にした。荷持ち2人を連れ船で大津へ、そして京都伏見から大阪へ。八軒屋に着いて、常宿にしている問屋で荷を開いて客を待ったが、折からの激しい雨で買い手が一向に姿を見せなかったので、やむなく和泉から和歌山へと足を延ばして、ようやく57両の売り上げを得た。純益は7両だったが、初商売としてはまずまずだった。

 これに気を良くした忠兵衛は、伯父に頼んで次は山陽山陰と西国の旅に出かけた。そして、下関で紅毛人との交易で賑わう長崎の噂を耳にした忠兵衛は、伯父の制止を振り切って長崎へ向かった。物情騒然たる幕末の長崎に近づく商人はほとんどいなかったため、現地では品薄で、忠兵衛は大いに歓迎されて思わぬ利を拾った。

 ところで、忠兵衛の九州での麻布の持ち下り商いに立ちはだかったのが「栄九講」という一種の同業者組合だ。同じ近江商人でも神崎郡や愛知郡の持ち下り商人たちがお互い結束して、他地域の商人を締め出そうと組織したものだ。そこで、忠兵衛は真正面から「仲間に加えてもらえませんか」と乗り込んでいった。栄九講の仲間たちは当然の如く拒否した。

それでも忠兵衛はめげず、栄九講の宴会に飛び込み、反感と敵意に満ちた視線を一身に浴びつつ、「同じ近江の新参者です。皆様の後について商いの道を学ばせていただきたいと存じます。どうかよろしくお願いします」と臆せず、堂々と熱弁を振るった。その姿に栄九講の幹部たちは遂に新規参入を認めることに決めた。そして、忠兵衛は1年後には栄九講の代表に選ばれたという。彼の優れた資質が発揮されたのだろう。

 その後、持ち下り商いの商圏を長兄の万治郎改め長兵衛に譲って、1872年(明治5年)、忠兵衛は大阪・本町二丁目に呉服、太物店を開いた。それは大きな岐路であり選択だった。その頃、明治新政府が誕生して中央集権が実現。近江商人の持ち下り商いもその存在価値を失い、行商をやめ、定着化が始まった。忠兵衛は仲間より一歩先に動いたのだ。忠兵衛30歳のことだ。

 忠兵衛は近江から招いた羽田治平を支配人として、合理的な経営法を志した。画期的な褒賞制度をつくって、販売成績のよい者に歩合を出すことにした。店員は近江の出身者が多く、採用すると豊郷村にある自邸に住み込ませて、掃除や使い走りをさせつつ、読み書き算盤を習わせて、十分仕込んでから大阪の店へ送り出した。忠兵衛はいち早く丁髷を切って、店員とともにザンギリ頭とした。

 その後も・月に6回夕食会を開き、支配人・番頭・丁稚といった身分の垣根を取り払って自由に意見をたたかわせた・従来の習慣を改め、明治20年代から商業学校出身者を採用した・大阪ではこれまであまり扱わなかった関東織物を大量に仕入れて京物とともに売りさばいた・明治17年頃から現金取引を主義とした・英国、ドイツとの外国貿易に取り組んだ-など数々の斬新な経営手法を打ち出し成功させた。

 伊藤忠財閥の二代目当主、二代目伊藤忠兵衛(1886、明治19~1973年、昭和48年)は16歳で事業を継承。父である初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した「伊藤忠兵衛本店」を発展させ、「伊藤忠商事」と「丸紅」という2つの総合商社の基礎を築いた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

岩崎弥太郎・・・地下浪人から身を起こした三菱財閥創設者

 三井、住友は江戸時代からの富商だったが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力だ。この三菱の創業者が地下(じげ)浪人から身を起こした岩崎弥太郎だ。彼は明治の動乱期、藩吏時代の人脈をフルに活用。経済に明るかったことと、持ち前の度胸のよさで政府高官を強引に説き伏せ、海運業の雄となり、政商として巨利を得た最も有名な人物だ。生没年は1834(天保5)~1885年(明治18年)。

 岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一の宮に住む地下浪人、岩崎弥次郎と妻美輪との間に生まれている。つまり、土佐藩で幕末まで動かし難い階級・身分格差が厳然と存在した被差別階級の生まれなのだ。地下浪人とは郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士だった人に与えられる称号で、実際は名ばかりで、禄高もゼロ。何らかの職に就ける望みもほとんどなかった。

そのため、岩崎家も極貧を絵に描いたような生活ぶりで、わずかな農地を耕して飢えをしのいでいた。7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団一組を弟弥之助と引っ張り合って眠るという貧乏暮らしだった。

 普通ならこの時点で、生涯の出世の幅は限られ、ほぼ決まったも同然のはずだった。ところが、岩崎弥太郎は身分にふさわしくないほどの上方志向を持ち続けていた。それに加え、あるときは粘り強く、あるときは強引に、後藤象二郎をはじめとする藩の主流派上層部の人脈に取り付き、現代ではあり得ないほどの“運”をわがものとしたのだ。そして、驚くことに彼は一代で後の三菱財閥の基礎をつくった。

 弥太郎が21歳のとき、こんな悲惨な生活から脱出するチャンスが訪れた。藩士奥宮慥斎(ぞうさい)の従者となって江戸へ行く機会を得た。1855年(安政2年)のことだ。江戸では高名な安積艮斎(あさかごんさい)の門に入った。

 ところが、入門間もなく郷里から急報が届いた。父が入獄したという。驚いた弥太郎は師に別れを告げて土佐へ戻ることになった。もう二度と江戸へ出てくるチャンスはないだろう。だから、これで出世の道は閉ざされてしまった。そんな悔しさ、情けなさを振り払うかのように彼は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。そして土佐の井ノ口村まで三百余里を17日間で歩いて実家へ戻った。しかし、庄屋に憎まれていた父弥次郎の救出も覚束ない状況で、郡役所に抗議に出かけていった弥太郎まで役人を誹謗したかどで、父の代わりに今度は彼が入牢させられてしまった。

 出牢後、弥太郎は高知城の郊外で寺子屋を開いた。その頃、土佐藩の執政だった吉田東洋が一時、役を退き開いていたのが少林塾。その塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は後藤の論文の代筆をして東洋に近づいた。後日、藩政府に東洋が返り咲いて、弥太郎は西洋事情を調べよと長崎出張を命じられる。ここで彼は、これまでの貧乏暮らしの中で抑圧されていた欲望が頭をもたげ、藩金百両余りを使い込むという大失態をしてしまう。ようやく藩の役人になれるかという好機に、自ら招いた過失で見事に失敗したわけだ。

 その後、一時、藩政を握ったかにみえた、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が弾圧され、旧吉田東洋派が浮上。弥太郎は藩庁から召し出され、長崎にある「土佐商会」の主任を命じられた。同商会は土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易窓口だった。藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当たり次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借り入れを行っていた。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、「海援隊」が土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命により隊の経理を担当した。

 この頃、歴史の舞台は大きく変わった。徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生した。長崎で知り合った薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文、それに土佐の後藤や板垣退助などは江戸改め「東京」に移った新政府の要人となって大活躍していた。ところが、弥太郎はすっかり取り残されて、土佐藩の藩吏となって財政の一翼を担っているに過ぎなかった。

ただ、幸運の女神は弥太郎を見捨ててはいなかった。明治2年、少参事に任じられ、土佐藩の大阪藩邸を取り仕切るまでに出世。すると、大阪にありながら、弥太郎は藩の財政に関わって、物産の販売と金融といった経済面を担当することになったわけで、外国商会からの大金借り入れなどは一手に引き受けていた。その結果、彼は思わぬ昇進を勝ち取ったのだった。

 弥太郎は廃藩置県後の1873年(明治6年)、後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。

 最初に弥太郎が巨利を得るのは維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出したときのことだ。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを、事前に新政府の高官となっていた後藤象二郎からの情報で知っていた弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。今でいうインサイダー取引だ。

 後藤象二郎が様々な面で、岩崎弥太郎に肩入れし利益供与に近い、土佐藩の資財・資金、そして情報を与えた点について、司馬遼太郎氏は「その理由は維新史の謎に近い」と記している。弥太郎が藩政を預かる後藤に、相当額の裏リベートを支払ったうえでのことだったのか、なぜ、後藤が弥太郎にほとんど誰にでも分かる利益供与をしたのか。それほど不可解なのだ。

こうして彼は持ち前の度胸のよさと、藩吏時代の人脈をフルに活用。多くの政府御用を引き受け、武士上がりで経済に弱い新政府の高官たちを強引に説き伏せ業容を急拡大、現在の三菱グループの礎を築いた。彼の死後、彼の事業と部下たちは、弟弥之助の手によって新三菱社に引き継がれた。

(参考資料)三好徹「政商伝」、津本陽「海商 岩橋万造の生涯」、邦光史郎「剛腕の経営学」、城山三郎「野生のひとびと」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

大倉喜八郎・・・鉄砲屋から一大財閥を築いた御用商人

 大倉喜八郎は幕末、鉄砲屋から身を起こし、明治維新後は軍の御用商人、日清・日露戦争では軍需産業…と、巧みに、そしてしたたかに時の権力に密着しつつ事業を拡大し、遂にその数20数社に及ぶ企業集団・大倉財閥を築き上げた。大倉の事業の隆盛を妬んだ世間から“奸商(かんしょう)”とか“死の商人”と蔑称を浴びせられたが、一向にひるむことなく、ひたすら蓄財に励んだ。

こうしたあくどい商法の反面、費用を惜しまず帝国ホテルを建設。また、私財を投じて創立した商業学校をはじめ各種教育機関や美術館を造って社会に供するなど、文化事業にも貢献した。
 大倉喜八郎の金銭哲学について、内橋克人氏はユダヤ人の商法に一脈通じるものがあるという。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで、鉄砲店「大倉屋」を開業していた喜八郎は、官軍、幕府軍の双方に鉄砲を売りまくったという伝説がある。

商売は商売という彼の徹底した商法は、第二次世界大戦中、敵国ドイツに火薬を売ったアメリカのユダヤ系財閥を連想させる。商売のコツもユダヤ商人との共通点が多い。喜八郎が重視したのは「現金主義」で、鉄砲売買はむろんのこと、あらゆる取引にキャッシュの原則を押し通した。ユダヤ人も2000年の迫害の歴史から、現金以外の何者も信じない。

 しかし、商売にはあくどいが、儲けたカネはスパッと使う。ユダヤ人は慈善事業などに思い切ったカネのつぎ込み方をするが、喜八郎も明治の初めからしばしば社会事業団体「済生会」などに、寄付献金を重ねている。
 大倉喜八郎は1837年(天保8年)、新潟県北蒲原郡新発田(現在の新発田市)の名主の家に三男として生まれ、18歳で江戸に出た。鰹節店の住み込み店員をしながら、乏しい俸給を貯え、21歳のとき独立、乾物店を開業。さらに鉄砲店を開店し、それが文字通り出世に火をつけた。

 ところで、「子孫に美田を残さず」という“金言”があるが、喜八郎は逆に子孫に事業を残そうと努力した数少ない成金事業家の一人だ。事業を継がせるべき長男の側に当時の帝大出の俊才を配し、巧みな人材活用法で、大倉財閥百年の体制を固めた。第二次世界大戦後、財閥解体の痛手を受けたものの、現在も大倉商事、大成建設、ホテルオークラなど20数社が大倉グループを形成している。一代限りで事業も巨財も雲散霧消させるタイプの多かった明治・大正時代の一群の成金たちとは、かなり趣を異にしている。

 喜八郎のタフネスぶりは超人的というべきで、84歳で妾に子供を産ませている。どんな多忙なときでも、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむという主義で、昼食はいつもウナギの蒲焼きと刺し身、それにビールがついていたという。働くために食うのではなく、食うために働く。そして長生きが義務という、そのあたりの生活感覚も日本人離れしている。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」
      三好徹「政商伝」、小島直記「人材水脈」

紀伊國屋文左衛門・・・材木問屋を営み巨富を築いた?江戸前期の豪商

 江戸時代の成功者、成金の代表者の一人として挙げられるのが、この紀文こと紀伊國屋文左衛門だ。しかし、紀文の実像、いやもっといえばその実在性を示す文献資料さえ見つかっておらず、謎に包まれている。

講談や浪花節によると、暴風雨で荒天続きの熊野灘を乗り切って、紀州みかんを江戸へ運んで巨富を築いたということになっているが、この話も実は実証できていない。ただ太平洋戦争前に、紀州有田出身のある実業家が伊勢のある神社に奉納されていた、文左衛門のものと推定できるみかん船のひな型を発見した。有田みかんの歴史は古く室町時代に、みかんを九州から導入し栽培増殖したのが始まりという。江戸時代に入り、紀州徳川家がみかん産業を保護奨励した。1634年(寛永11年)からみかんの江戸出荷が始まり、まもなくわが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方(みかんがた)が作られた。文左衛門のみかん船の話が事実だとすると、貞享年間、彼が20歳前後で、この冒険物語は実現可能だ。

また、文左衛門は振袖火事の時、木曾の木材をわずかな手付け金で買い占めてボロ儲けしたとも伝えられる。ところが、明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢だ。紀文ではない。こうなると、果たして紀文は実在したのか、疑わしくなる。

ただ、周辺にはモデルになったのではないかと思われる人物はいる。一般に流布されている紀文物語によると、紀文は幼名を文平といい、有田郡湯浅で生まれたという。その湯浅町栖原(すはら)の出身で、栖原角兵衛(かくべい)、略して“栖角”という大成功者がいるのだ。栖角は房総から奥州へ手を伸ばして漁場を開き、後に江戸へ進出して鉄砲洲に薪炭問屋の店を持った。さらに深川で材木問屋を始めるなど多角経営で事業を広げている。

紀文が活躍した貞享から元禄期は、生活ばかり派手になって手元に金のない、いわば欲望過多の時代だった。そんな時代背景が、「いてもおかしくない」という思いも加わって、講談や浪花節の世界にしろ、瑞賢と栖角を足した架空の人物を生み出したのではないだろうか。

紀文のモデルに加えられた人物がまだいる。奈良屋茂左衛門だ。紀文とともに遊郭、吉原で贅を尽くしたという挿話を記した「吉原雑記」に名を残している豪商だ。江戸の当時の家屋は、竹と土と紙とでできているので燃えやすく、ちょっと風が強いとすぐ火事が起こった。大火事があると当然材木屋が儲かる。だから、江戸初期の富商は木材問屋が大部分を占めていた。ただ、木材は投機性の強い商品で、いったん的中すると儲けは莫大なものになったが、狙いが外れると厖大なストックを抱えて四苦八苦しなくてはならない。そんな浮き沈みの多い木材問屋の中でも、儲け頭は奈良茂こと奈良屋茂左衛門だった。

奈良茂は日光修復の工事入札で、普通の業者の半分にも満たない安値を入れて落札した。しかし、本来そんな値で木材を揃えることなどできるはずがない。ところが、ここに奈良茂のしたたかな計略があったのだ。まず奈良茂は江戸一の木曽ヒノキの問屋柏木屋へ行き、木材を売ってくれといった。だが、むろん柏木屋は頭から断った。すると、奈良茂は恐れながらと訴え出て、柏木屋に木材を売るように命じてほしいと願った。そこで、役人が柏木屋へ行き、木材はないのかと問うと、船が入らないのでと、通り一遍の口実を使った。ところが、それこそが奈良茂の思う壺だった。同業の事情に明るい奈良茂は、いえそんなはずはありません、柏木屋の木材の隠し場所へご案内しましょう-といって、貯木場へ案内した。最初、体よくあしらわれた役人はカンカンに怒って、柏木屋の隠し場所にあった木曽ヒノキを片っ端から焼印を捺して奈良茂に下げ渡した。そして柏木屋の当主と番頭は、三宅島へ送られてしまった。奈良茂はライバルを没落させたばかりか、日光修復の工事用木材をタダ同然で手に入れ、しかもなお2万両分の余剰木材が残ったという。半ば伝説の主人公、紀文にふさわしい逸話だ。

実際は、紀文はもっと地味な商売人で、こうしたモデルになったともみられる豪商ほど詳細は分からない。だが、材木商としての地歩を固めた紀文が、当時の幕府の“大物”、勘定奉行の荻原重秀を抱き込み、幕府の土木事業の指名を受けたことは確かなようだ。中でも幕府が行った上野寛永寺の中堂建設の材木を一手に引き受けて、50万両の儲けをはじき出したという。彼が紀文大尽として、吉原の大門を締め切って、傾城(けいせい)を買い切りにしたなど、“勇名”を馳せるのはこれからのことだ。

(参考資料)津本陽「黄金の海へ」、邦光史郎「豪商物語」、南原幹雄「吉原大尽舞」、中田易直・南條範夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

鴻池新六・・・十人両替商の筆頭で大名並みの権威持った江戸の大富豪

 江戸時代を通して、豪商と呼ばれたのが鴻池家だ。全国一の富豪で、諸大名に何千万石もの大金を貸し付け、その各大名から扶持をもらって、合わせると一万石を超え、大名並みの権威を持っていたといわれる。現在の銀行業務を行っていた十人両替商の筆頭として知られた鴻池家の始祖が新六幸元だ。生没年は1570年(元亀元年)~1650年(慶安3年)。

 鴻池の姓は、摂津国伊丹在鴻池村に住んだことに由来する。元は山中姓だったという。それも、尼子十勇士を率いた尼子の家老、山中鹿之介幸盛の子が新六だと伝えられている。新六は幼時、大叔父にあたる山中信直に養われたが、この大叔父が没して後は大叔母に育てられた。15歳で元服して幸元と名乗ったが、武士の身分を隠すため、名前も新右衛門と変え、両刀を捨てた。豊臣秀吉の天下となって、彼の身の上はかえって処世の妨げとなったのだ。

 摂津国鴻池は古来、酒造の地で、やがて新六もその仲間の一人になることができた。当時の酒は今でいう濁り酒だ。ある時、新六に叱責されて、それを恨んだ使用人が仕返しのため、酒桶の中に、灰汁を投げ込み、そ知らぬ顔をして主家を出て行った。翌朝、いつものように新六が酒造場の見回りにいくと、大桶の酒が、どうしたことか、濁り酒から清酒に変わっていたので驚いた。調べてみると灰汁桶が空になっていて、清酒に変わった酒桶の底に、灰汁が残っていた。そこで、あの男のしわざと気付いた。ところが、この美しく澄んだ酒をすくってみると、香気があって、味がいい。不思議なことだ。使用人にも試飲させると、皆に評判がいい。

そこで実験を重ねて、清酒づくりに励み新製品を売り出すことになった。これが鴻池の「諸白(もろはく)」と称された清酒だ。この清酒は評判を呼んだので、新六は江戸ヘ出すことを決めた。当時、江戸は人口100万人に達し、ロンドン、パリを抜いていた。この100万人の人口の半数は旗本や諸大名の家臣とその家族、つまり消費するだけの武士階級だ。しかも江戸近辺は当時、米さえ作れない乾いた土地が多く、酒はすべて伊丹や伏見から送っていた。

新六はこの「諸白」を、初めは馬で、次には船でどんどん江戸へ大量輸送し、売れに売れたのだ。そこで、鴻池は自ら廻船問屋を開業するに至った。こうして新六は酒造家として成功した。
新六は妻・花との間に10人(8男2女)の子に恵まれた。次男と三男は分家して、別の酒造家となり、1619年(元和5年)、新六も鴻池村を出て、大坂城下の内久宝寺町に店を開いた。鴻池村の本宅は七男が継ぎ、大坂の店舗は後に、八男正成が相続するようになった。その頃の鴻池家は約240坪の敷地に、酒造蔵と米蔵それぞれ2棟を持ち、年間1万7000石の清酒を醸造していた。

新六は64歳のとき海運業を始めた。天下の台所と称された大坂は、様々な物産の出船入船千艘という一大商都となって、物流手段として船への需要が大きくなるとの判断だった。初め、自家製の酒を江戸へ運んでいるだけだった鴻池の船も、江戸の帰りに大名から頼まれた参勤交代用の荷物を運ぶようになり、やがて大名家出入り商となって、米を扱うようになった。やがて、大名の蔵元となり、大名貸しする両替商となっていくのだ。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」