大倉喜八郎・・・鉄砲屋から一大財閥を築いた御用商人

 大倉喜八郎は幕末、鉄砲屋から身を起こし、明治維新後は軍の御用商人、日清・日露戦争では軍需産業…と、巧みに、そしてしたたかに時の権力に密着しつつ事業を拡大し、遂にその数20数社に及ぶ企業集団・大倉財閥を築き上げた。大倉の事業の隆盛を妬んだ世間から“奸商(かんしょう)”とか“死の商人”と蔑称を浴びせられたが、一向にひるむことなく、ひたすら蓄財に励んだ。

こうしたあくどい商法の反面、費用を惜しまず帝国ホテルを建設。また、私財を投じて創立した商業学校をはじめ各種教育機関や美術館を造って社会に供するなど、文化事業にも貢献した。
 大倉喜八郎の金銭哲学について、内橋克人氏はユダヤ人の商法に一脈通じるものがあるという。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで、鉄砲店「大倉屋」を開業していた喜八郎は、官軍、幕府軍の双方に鉄砲を売りまくったという伝説がある。

商売は商売という彼の徹底した商法は、第二次世界大戦中、敵国ドイツに火薬を売ったアメリカのユダヤ系財閥を連想させる。商売のコツもユダヤ商人との共通点が多い。喜八郎が重視したのは「現金主義」で、鉄砲売買はむろんのこと、あらゆる取引にキャッシュの原則を押し通した。ユダヤ人も2000年の迫害の歴史から、現金以外の何者も信じない。

 しかし、商売にはあくどいが、儲けたカネはスパッと使う。ユダヤ人は慈善事業などに思い切ったカネのつぎ込み方をするが、喜八郎も明治の初めからしばしば社会事業団体「済生会」などに、寄付献金を重ねている。
 大倉喜八郎は1837年(天保8年)、新潟県北蒲原郡新発田(現在の新発田市)の名主の家に三男として生まれ、18歳で江戸に出た。鰹節店の住み込み店員をしながら、乏しい俸給を貯え、21歳のとき独立、乾物店を開業。さらに鉄砲店を開店し、それが文字通り出世に火をつけた。

 ところで、「子孫に美田を残さず」という“金言”があるが、喜八郎は逆に子孫に事業を残そうと努力した数少ない成金事業家の一人だ。事業を継がせるべき長男の側に当時の帝大出の俊才を配し、巧みな人材活用法で、大倉財閥百年の体制を固めた。第二次世界大戦後、財閥解体の痛手を受けたものの、現在も大倉商事、大成建設、ホテルオークラなど20数社が大倉グループを形成している。一代限りで事業も巨財も雲散霧消させるタイプの多かった明治・大正時代の一群の成金たちとは、かなり趣を異にしている。

 喜八郎のタフネスぶりは超人的というべきで、84歳で妾に子供を産ませている。どんな多忙なときでも、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむという主義で、昼食はいつもウナギの蒲焼きと刺し身、それにビールがついていたという。働くために食うのではなく、食うために働く。そして長生きが義務という、そのあたりの生活感覚も日本人離れしている。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」
      三好徹「政商伝」、小島直記「人材水脈」