月別アーカイブ: 2013年12月

私説 小倉百人一首 No.24 菅 家

菅 家
※菅原道真

このたびは幣もとりあへず手向山
       もみぢのにしき神のまにまに

【歌の背景】宇多天皇が退位後、昌泰元年(898)10月ちょうどもみぢの美しい季節、奈良の山荘へ行かれた。そこで、幣を奉るよりはと、もみぢの美しさを讃えて詠んだもの。
  このたびは「この度」と「この旅」の掛詞。「手向」は「たむける」と「手向山」の山との掛詞。大和国から山城国へ越す奈良山の峠をいう。
【歌意】手向山の神よ、今度の旅ではたむける幣も取る暇もなくここへやってきました。でも、この手向山は色とりどりの、一面の美しいもみぢです。とりあえずこのもみぢの錦を手向け致します。どうか御意のままにお納めください。
【作者のプロフィル】菅原道真。参議是善の第三子。幼少から文才を知られた。遣唐使の廃止を奏した。これに伴い250年にわたって続いてきた日本と唐との国交は途絶えることになる。
昌泰2年(899)左大臣藤原時平(29歳)、右大臣道真(55歳)となったころが、宮廷における彼の人生のピークで、これ以後は藤原氏との覇権競争に敗れ、転落の一途。延喜元年(901)時平一派は道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を皇位に立てようとする陰謀を企てていると奏上。17歳の少年、醍醐天皇はそれを信じて道真の大宰府・権帥への左遷を勅裁してしまう。そこで道真は厚い信頼を受けていた宇多天皇に「ながれゆく 我はみくずとなりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」の歌を届け哀訴したが、法皇にもなす術はなく、道真の配流を止めることはできなかった。延喜3年(903)大宰府で悲嘆のうちに59歳でなくなった。
時平一派の讒言によって左遷された、その無念の思いは怨霊となって都の貴顕を襲ったといわれる。そこで、鎮魂の意を込めて天暦元年(947)京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。そして、それから1000年以上の時の中を生き続け、現在でも学問の神様として親しまれ、全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。また天暦4年本官を復され、太政大臣を追贈された。

私説 小倉百人一首 No.25 三条右大臣

三条右大臣
※藤原定方

名にし負わば逢坂山のさねかづら
       人に知られでくるよしもがな

【歌の背景】忍ぶ恋の思いを歌ったもの。「逢坂山」には「逢う」、「さねかづら」には「さ寝」が、「来る」には「繰る」が掛けてあり、歌の作り方としてはなかなか凝っている。

【歌 意】逢うて寝るという名を持つ逢坂山のさねかづらよ、その名前通り恋人に逢って寝るという力を備えているものなら、誰にも知られることなく蔓を手繰ってあなたのもとにたどり着き、逢って共寝する。そんなこっそりと逢う方法があればいいのだが。

【作者のプロフィル】藤原定方。正二位内大臣藤原高藤の二男。母は宮内大輔弘益のむすめ。醍醐天皇の延長2年正月右大臣に任じられ、従二位になった。京の三条に邸を構えていたので三条の右大臣といわれた。管弦の名手としても知られた。承平2年(932)8月、60歳(57歳とも)で没。

私説 小倉百人一首 No.26 貞信公

貞信公
※藤原忠平

小倉山峰のもみぢばこころあらば
       いまひとたびのみゆき待たなむ

【歌の背景】宇多上皇が大堰川に御幸されて、あまりよい景色なので醍醐天皇(宇多上皇の皇子)も一度行幸されればよいがといわれたので、藤原忠平がこのことを天皇に奏上しましょう-といって詠んだもの。

【歌 意】小倉山峰のもみぢ葉よ、お前の見事な美しさを上皇がめでられ、み子の醍醐天皇にもお見せになりたいといわれたぞ。もしお前にもののわかる心があるならば、天皇の行幸までもみぢ葉の美しさを保って待ってほしいものだ。

【作者のプロフィル】藤原忠平。藤原基経の第四男。母は弾正尹人康親王のむすめ。兄時平の後を継いで藤原氏全盛の基を磐石にした。醍醐天皇の昌泰14年に右大臣、朱雀天皇即位にあたり摂政、承平6年太政大臣、天慶4年関白となり、村上天皇の天暦3年(949)に70歳で没。法性寺に葬られ、貞信公とおくり名された。

私説 小倉百人一首 No.27 中納言兼輔

中納言兼輔
※藤原兼輔。

みかの原湧きてながるるいづみ川
       いつ見きとて恋しかるらむ

【歌の背景】みかの原は京都府相楽郡加茂町にあり、ダム建設以前は水量豊かな大河だった木津川を南に、北、東、西の三方を山に囲まれた要害の地で、かつて元明天皇の甕原離宮、聖武天皇の恭仁京があった、いわば古京の地。「湧きてながるる」から「出づ水」であって、それに地名(今の木津川)を掛けている。

【歌 意】かつてなんぴとかが甕をいくつも埋めた。そのおびただしい甕の口が泉となって水があふれるという甕の原。その湧き出て流れる泉川のように、いったいいつ見たからあの人がこんなに恋しいのだろうか。まだあの人とは会ったことはないのに。

【作者のプロフィル】勧修寺家の先祖良門の孫で、右中将利基の子。加茂川の堤の下の下粟田に住んでいたので堤中納言といわれた。寛平9年7月昇殿し、同10年正月讃岐掾に任ぜられ、延喜5年正月、従五位下、延長5年正月、従三位中納言、同8年12月、右衛門督を兼ね、承平3年(933)2月、57歳で没。

私説 小倉百人一首 No.28 源宗干朝臣

源宗干朝臣

山里は冬ぞさびしさまさりける
       人目も草もかれぬとおもへば

【歌の背景】冬の山里を詠んだもの。春、夏、秋は草木や花の彩りもあり、都から離れて一人でいても自然の慰めを楽しむこともできる。しかし、冬になると人の往来もなくなり、山野の姿も灰色に塗り込められ、いわば寂寥の世界となる。そんな冬の山里の寂しさを歌った。

【歌 意】山里はどの季節でも寂しいけれど、冬は殊更に寂しさを増す。春、夏、秋は草木や花、もみぢなどそれなりに愉しみもあり、人も行き来する。しかし、冬になると人の姿もだんだん少なくなり草木も枯れてしまうので。

【作者のプロフィル】光孝天皇第一皇子の一品式部卿是忠親王の子。一説に仁明天皇の御子本康親王の御子ともいう。寛平6年源姓を賜った。官途では恵まれず、没年に正四位下に進んだのみ。朱雀天皇の承平3年に右京大夫になった。天慶2年(939)に没。

私説 小倉百人一首 No.29 凡河内躬恒

凡河内躬恒
※父祖は不明。

心あてに折らばや折らむ初霜の
       置きまどはせるしら菊の花

【歌の背景】初霜が降りた晩秋の白菊の花を詠んだもの。正岡子規が『歌よみに与うる書』で酷評して以来、評価がた落ちの一首。

【歌 意】白菊を折ろうかと思うのだが、何とか見当をつけて折るほかない。思いがけず早い初霜が一面に降りて、その白さでどれが花だか霜だかわからなくなってしまった。

【作者のプロフィル】父祖は不明。家柄はよくなく、貧乏でもあったが、歌が上手だったので、寛平年間に甲斐少目となり醍醐天皇に召され、御所所に出仕し丹波権目、淡路権掾を経て、和泉大掾になり六位を授けられた。寛平・延喜の古今集時代に活躍したが、生没年ともわからない。「古今集」の撰者に加えられており、歌人としては他の撰者と同列にあったが、歌学者としては貫之に一歩譲っていた。

私説 小倉百人一首 No.30 壬生忠岑

壬生忠岑

有明のつれなく見えしわかれより
       あかつきばかり憂きものはなし

【歌の背景】当時の男女は、男が宵に女の家に行き、一夜を過ごして翌朝に帰ってくるというものだった。後朝(きぬぎぬ)の別れのとき、女がいかにも冷淡によそよそしくしていた。つらい思いで帰ろうとして暁の空を見ると、そこには有明の月が残っていたが、その光がいかにも白々しく、すげなく思われた。それ以来、暁になるとそのことが思い出されてたまらなくつらい気持ちになる。そんな気持ちを詠んだもの。

【歌 意】夜明けにまだ残っている有明月のように、私の思いはまだ残っているのに、あなたは前夜のことを忘れたかのように冷たかった。あれ以来、私にとって暁ほどつらいものはない。

【作者のプロフィル】安綱の子、忠見の父とされるが、壬生氏についてはよくわからない。古代の皇族の養育に関わった乳部(みぶ)に通じるのか?生没年についても不明。右衛門府生、御厨子所預などを経て、六位摂津権大目になった。身分は低かったが、躬恒と同様、和歌が上手だったので「古今集」の撰者になった。陽成・光孝・宇多・醍醐の四朝に仕えた。

私説 小倉百人一首 No.31 坂上是則

坂上是則
※坂上田村麻呂から4代目の好蔭の子。

あさぼらけ有明の月と見るまでに
       吉野の里に降れるしらゆき

【歌の背景】是則が大和の吉野へ旅して、旅寝の朝見た、有明の月の光と見まごうばかりの雪が真っ白に降った朝の感動を歌ったもの。

【歌 意】夜明けごろ、有明の月が出て照らしているのではないかと思ったら、吉野の里に降り積もった白雪ではないか。本当に真っ白で美しいなあ。

【作者のプロフィル】征夷大将軍坂上田村麻呂から四代目の好蔭の子。坂上氏の先祖は応神天皇の時にに帰化した後漢の霊帝の曾孫阿知使主だという。延喜8年大和権少掾になり、21年大内記、延長2年(924)正月、従五位下加賀介になり、醍醐・朱雀両天皇に仕えた。没年不明。

私説 小倉百人一首 No.32 春道列樹

春道列樹

山かはに風のかけたるしがらみは
       流れもあへぬもみぢなりけり

【歌の背景】山城国から如意岳を越えて近江国の志賀山を行くと晩秋のもみぢが美しい。山路一面に、そして山中を流れる谷川には流れようとして流れられないほどのもみぢを浮かべている。その様子をまるでしがらみのようだと歌ったもの。 

【歌 意】志賀越えの山道から見ると、谷川の激しい流れをせき止めて、おびただしいもみぢがたまっている。あれは(志賀越えの名に因み)人ならぬ風がかけたもみぢのしがらみだ。

【作者のプロフィル】従五位下歌の雅楽頭だった新名宿禰の子。延喜10年(910)文章生に補せられ、のち太宰大典、延喜20年(920)に壱岐守に任ぜられたが、任地に向かう前に没したという。

私説 小倉百人一首 No.33 紀友則

紀友則
※紀 有友の子。貫之とはいとこの関係。

ひさかたの光のどけき春の日に
       しづ心なく花の散るらむ

【歌の背景】春、そして花を詠んだ定番ともいえる名歌。古今和歌集中の秀作で、平安朝の代表作として愛される。

【歌意】うららかな日の光が射している春の日に、どうしてこんなに慌しく桜の花は散るのであろうか。

【作者のプロフィル】紀有友の子。貫之とはいとこの関係。紀氏は名族だが、友則の官歴は不遇であった。延喜4年(904)に大内記となったのが記録に残る最後の官職。翌年61歳でなくなったとみられる。