月別アーカイブ: 2013年12月

山内一豊の妻・千代・・・へそくりで名馬を買い入れた内助の功で有名

 戦国末期の武将で、信長・秀吉・家康に仕え、後の土佐二十四万石の大名となった山内一豊(1546~1605)の妻。近江の若宮家の出といわれるが、確かなことは分からない。千代の生没年は1556年(弘治2年)~1617年(元和3年)。出生地には諸説あり定かではないが、郡上市八幡町と米原市近江町の二つが有力だ。千代は良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、彼女の「内助の功」に関する逸話は周知の通り。へそくりで奥州の名馬を買い、馬揃えで織田信長の目にとまった話が有名だ。

 浪人生活の一豊と貧乏の中で結婚し、その日の糧にも事欠く生活を送っていたとき、一人の馬喰が見事な馬を売りにきた。一豊が大層欲しがるのをみて、千代は“夫の一大事の折に用いよ”と嫁ぐときに育ての親からもらった十両を、鏡筐の底から出して夫に差し出し、その奥州の名馬を買い入れた。

翌年、馬揃えの式で信長の目にとまり、馬を買い入れた経緯を聞き「あっぱれなる女房を持って一豊は天下一の果報者ぞ」と褒められた。その後、一豊はその馬にまたがり、様々な戦場をかけめぐって勇猛振りを発揮したという。ただ、残念ながらこの逸話を証明する史料は何もない。

 一豊は信長、秀吉と仕え、秀吉に掛川(静岡)五万石をもらい、大名になる。さらに関ケ原では徳川につき、家康から抜擢を受けて土佐をもらった。一豊というと、奥方の千代が偉くて様々な逸話があるが、作り話が多い。いずれにしても「奥方のおかげ」は幕末までいわれたようだ。頼山陽に千代の才覚をうたった詩があって、これが知れわたって、伝説が文学になって一層広まったとみられる。

 では、一豊は千代の力なしには出世できないような人だったのか?確かなことは分からないが、人間の器量が割合大きく「いいたいやつには言わせておけ」とあまり気にとめなかっただけなのではないか。一豊自身、関ケ原の時、掛川の城を家康に「おたくでお使いください」と明け渡した。家康は後で「あそこで山内殿がああいってくれたから、みんなが右へならえしてくれた」と一豊を褒めた。そして、それが土佐二十四万石につながったのだ。

一豊は決してボンクラではなかった。物事はよくできるが、千代の方が頭がよく、カンがよく、世間の見える女だったので、亭主の仕事に口を出したということのようだ。そして、それが幸運にもすべて適切だったというわけだ。

 一豊は土佐入国から5年、1605年(慶長10年)61歳で亡くなった。夫の死後、妻千代は出家し、見性院(けんしょういん)となり一豊の冥福を祈りつつ、念仏三昧の穏やかな生活を送るはずだった。ところが、彼女は一豊の存命時代と同様、その政治・外交力などで山内家を助け、京都で61歳で没した。
 
(参考資料)司馬遼太郎「巧名が辻」、対談集 永井路子vs司馬遼太郎

天秀尼・・・豊臣秀頼の子で、駆け込み寺の守護女神

 天秀尼(=奈阿姫、なあひめ)といっても馴染みがない人がほとんどだろう。実は淀君の孫娘、豊臣秀頼の娘だ。ただ、母は有名な正室、千姫ではない。側室の小石の方(こいわのかた、成田五兵衛の娘)だ。名は千代姫ともいった。出家後の名が天秀尼(てんしゅうに)。兄の豊臣国松とは異腹。千姫とは義理の親子だったが、仲がよかったとされる。この天秀尼、三百数十年前、かよわい女性の身で、救いを求めてきた何人かの女性の命を助けた、女神のような存在だったのだ。 生没年は1609年(慶長14年)~1645年(正保2年)。

 奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。1612年(慶長17年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。1615年(元和元年)、大坂夏の陣での豊臣方の敗北は彼女を、いわば戦災孤児へ突き落とした。兄の国松は斬殺されたが、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入った。

もともとこの寺は格式の高い尼寺で、代々、毛並みのいい女性が住持になる習わしで、罪を犯した人やその家族をかくまう、いわば治外法権的な権力を持っていた。身分は高いが戦犯の娘で、しかも孤児となった彼女には、極めてふさわしい住み家だったといえよう。

 天秀尼が東慶寺に入ったのは8歳のとき。後に師の跡を継ぎ、その20世住職となる。彼女が30歳前後のとき、後世に彼女の名が残る事件が起こった。会津若松40余万石の城主、加藤明成と家老の堀主水の妻子が救いを求めて転がり込んできたのだ。夫の主水が主君と意見が合わず、一族ともども会津を出奔したという。主水は主君の非を幕府に訴えるつもりだったが、それより早く、怒った明成が追ってきたので、兄弟揃ってとりあえず高野山に逃げ込んだ。ところが高野山は女人禁制。そこで何卒、私どもだけ、この寺におかくまいください-と主水の妻は訴え、天秀尼の法衣にすがりついた。

 ただ、当時は「主君に忠」が憲法第一条の時代だ。いかに主水の言い分が正しくても、主君に背くのは憲法違反の重罪だ。高野山も昔から罪人をかくまう治外法権的な特権を持っていたのだが、徳川の全国統一によって次第に力が薄れ、このときは明成の脅しに遭うと、あえなく腰砕けになって、遂に主水兄弟を引き渡してしまう。勝ち誇った明成は彼らを斬殺、今度は東慶寺に妻子を引き渡せと言ってきた。ここで天秀尼は、徳川の忠君憲法と、明成の強情の前に厳しい選択を迫られることになった。堀主水の妻子を助けるか助けぬか-。

 天秀尼は、昔からここに逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟があるのをご存知ないのですか-と悩んだ末に遂に堀主水の妻子をかくまう道を選んだ。そして、明成の非を養母の千姫を通じて三代将軍家光に訴えた。無礼者明成をつぶすか、この寺をつぶすか、二つに一つでございます-と。捨て身の彼女の訴えに、幕府は彼女の言い分を聞き入れ、明成の40余万石は没収、代わりに1万石を与えて家名だけを継がせることにした。千姫という後ろ楯があったにせよ、天秀尼は見事に勝ったのだ。天下の高野山が守りきれなかった憲法違反者の妻子の命を女の細腕で守り通したのだ。こうして同寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として広く認知され、夫や姑に虐待されても自分の方から離婚を申し立てられなかった当時の女性にとって、長く救いの場所になったのだ。
彼女の死去により、豊臣秀吉の直系は断絶した。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」

中西君尾・・・勤皇・佐幕派を問わず様々な人物とつながりを持った芸妓

 幕末、京都祇園の芸者だった中西君尾(なかにしきみお)は、高杉晋作を介して、井上聞多、品川弥二郎など多くの長州藩士とつながりを持ち、彼らの心を癒した。とくに井上聞多の命を救った贈り物の逸話は知られているが、桂小五郎と幾松のように、君尾と井上は結ばれることはなく、結果的に君男は祇園で多くの勤皇の志士のために手助けをすることになる。君尾の生没年は1843(天保14)~1918年(大正7年).

 中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれた。本名はきみ。19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となった。主に縄手大和橋の御茶屋『魚品(うおしな)』で後の明治時代に元老となる井上聞多(後の井上馨)と出会い、親密な間柄となった。元治元年、井上が長州藩内で敵対する俗論党に、山口・湯田温泉で襲われ、虫の息の彼が止めの刃を胸に受けたとき、懐の鐘に切っ先があたり死を免れた話が残っている。これは、これより数年前井上がロンドンに向かうときに、井上が自分の小柄と交換した君尾の鐘で、彼がずっと肌身離さず持っていたものだったという。

 君尾は芸妓という立場上、当然ともいえるが勤皇・佐幕派を問わず、実に様々な人物とつながりを持った。彼女はまず長州の寺島忠三郎に頼まれ、スパイとして志士弾圧の急先鋒だった島田左近の“思われもの”になったこともあるといわれ、この後、島田は天誅第1号として斬殺されている。
 近藤勇も祇園の『一力』の座敷で君尾と出会ったことがあるが、近藤が口説いたところ、君尾は「禁裏様のお味方をなさるなら、あなたのものになりましょう」といい、近藤は「我々は会津に従う。(だから、お前の)言葉には従えぬ。無礼は許せ」と酒を一気に呑み干し、席を立ったという話が残されている。

 また、鴨川の川座敷で桂小五郎、久坂玄瑞、鳩居堂の主人らと酒を酌み交わしかえる途中、新選組隊士に壬生の屯所に引き立てられ拷問にかけられるが、君尾は気丈にも同席者の名や話の内容など肝心なことは口を割らなかった。そのため、近藤は「新選組は無茶な殺生はしない」と駕籠を呼んで送り返してやったという。まだある。君尾はまた追われていた中村半次郎(後の桐野利秋)を匿ったり、会津藩士に踏み込まれた勤皇の青年を裏から逃がしたり、多くの志士たちを救っている。

 長州の品川弥二郎もその一人だ。君尾は弥二郎と恋仲になった。慶応4年に東征軍が進発のときに歌った「宮さん、宮さん~」のトンヤレ節は品川の作詞といわれる。また曲をつけたのは君尾だとされている。君尾は品川の子供を宿し、その子、巴は祇園の役員になった。
 明治時代になっても、君尾はずっと祇園の芸妓を通した。そして維新で高官となった、かつての志士たちと昔語りをするのを楽しみにしていたという。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」

野村望東尼・・・高杉晋作ら勤皇の志士たちに母のように慕われた尼

 幕末、血気盛んな勤皇の志士たちが母のように慕う女性がいた。野村望東尼(のむらぼうとうに)という人物だ。彼女は夫の死後、出家し、多くの志士たちと親交、とくに長州藩の高杉晋作とは親しかった。高杉が死の直前詠んだ辞世「おもしろきこともなき世をおもしろく」の上句を受けて、望東尼が「すみなすものはこころなりけり」の下の句を詠み、辞世を完成させたとされる。女だてらに勤皇なんて…と噂されようとも、新しい時代をつくるために自分が信じる道をひとすじに貫いたのだ。生没年は1806(文化3)~1867年(○○年)。

 野村望東尼は筑前早良郡谷(現在の福岡市中央区)で、三百石の福岡藩士、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれた。名を「もと」といい、招月、向陵(こうりょう)と号した。17歳のとき20歳も年上の知行五百石の郡利貫に嫁ぐが、半年で破局を迎え実家に戻る。その後、九州で著名だった大隈言道(ことみち)に和歌や書道を学び、この師のとりなしで、24歳のとき、同門だった福岡藩馬廻役、野村貞貫(さだつら)の妻となった。夫には先妻との間に17歳を頭に三人の男子がいた。また、もとも四人の子を産むが、皆早世してしまったという。しかし、夫婦仲はよく、二人は同じ趣味に生きた。互いに歌作を競っては、心の中を語り合い、ともに歌道を究めようと学んだ。

 夫の貞貫は彼女が40歳になったとき、家督を長子の卯左衛門貞則に譲って、現在の福岡市中央区平尾にあった隠居所、平尾山荘に移ってきた。それから二人は世俗を離れて十有余年をこの山荘で静かに送った。彼女が髪を降ろして尼となり、身を墨染めの衣に包むようになったのは、夫貞貫が66歳で亡くなったときからだ。そのとき彼女は54歳だった。彼女が尼となったのは世捨て人になろうと決心したからだった。

 しかし、彼女は世捨て人にはなりきれなかった。桜田門外の変(1860年)はじめ、ロシア軍艦による対馬占領事件(1861年)、そして坂下門外の変(1862年)などが相次いで起きた、激動の時代だったからだ。尼の耳には世の中の慌しい動きが嫌でも伝わってきた
この山荘には多くの志士が出入りした。元治元年、望東尼がこの山荘に住んで20年近く経ったころ、高杉晋作が訪れている。高杉は長州藩の佐幕派の俗論党に追われ、谷梅之介の偽名を使って長州を逃れ、多くの志士たちが頼りにしていると聞く望東尼の平尾山荘にやってきたのだ。

高杉は討幕の九州連合をつくることにより、外部からの長州の改革を企てたが、筑前もいぜん佐幕派が強く、博多に身を潜めるのも危険な状態になり、この山荘に身を寄せたわけだ。高杉はここで約10日間過ごし多くの志士たちと会い、また薩摩の西郷隆盛とも初めて会ったともいわれているが、真偽は定かではない。高杉はその後、長州へ戻り、1カ月後同士と謀り俗論党を倒し、藩の主導権を握った。

 高杉を匿った翌年、望東尼は福岡藩から、志士たちの隠匿の嫌疑で咎められ、玄界灘の姫島に流罪となった。60歳のときのことだ。荒格子だけの四畳牢で吹き晒しの中、食べ物を運んでくれる島民を支えに、彼女はここで10カ月を過ごす。高杉はこの厳しい流刑地の望東尼の身を案じていたが、小倉戦争後、病に伏せることが多くなり、信頼する者に救出に向かわせる。慶応2年望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せる。そして、喀血して病に倒れた高杉を看病する愛人おうのを助けたという。

 数えで29歳という若すぎる不世出の天才児、高杉の死を見届けた後、望東尼は下関を去り、薩長同盟が成立し、両藩の軍艦が集結する三田尻に行く。彼女は防府天満宮に7日間籠もり、断食して勝利を祈った。そのため、体を壊し病床につくことになった。しかし、大政奉還がなり、王制復古が実現したとの知らせが届き、彼女は満足して没したといわれる。高杉の死後、約7カ月後のことだった。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、三好徹「高杉晋作」、司馬遼太郎「世に棲む日日」

新島八重・・・会津の戊辰戦争で砲術者として奮戦した、新島襄の妻

 新島八重は幕末から昭和初期の日本女性で、同志社創立者の新島襄の妻として有名な人物だ。また、戊辰戦争時には会津若松城籠城戦で、断髪・男装し、砲術者として奮戦したことが知られており、後に「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれる、武士の魂を持った女性、男勝りの“猛女”でもあった。生没年は1845(弘化2)~1932年(昭和7年)。史料によっては「新島八重子」と書かれている場合もある。旧姓は「山本」。

 新島八重は、会津藩の砲術師範だった山本権八・さく夫妻の三女として生まれた。戊辰戦争が始まる前に、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚したが、会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中、尚之助は行方不明になった。また、この戊辰戦争で八重は父と弟を失った。

 八重の長兄、山本覚馬は師の林権助が江戸出府を命じられた際に随行し、佐久間象山、勝海舟に師事。また西周らとも親交があり、全盲となりながらも京都府の府政を担い、後に新島襄と同志社を創立している。

 1871年(明治4年)、八重は京都府顧問となっていた実兄、覚馬を頼って上洛する。翌年兄の推薦により、京都女紅場(にょこうば)(後の府立第一高女)の舎監兼教導試補となった。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになった。

 八重は兄のもとに出入りしていた新島襄と知り合い、1875年(明治8年)府知事・槇村正直の仲人で襄と婚約。女紅場を退職、翌年襄と結婚した。1876年(明治9年)、八重は京都初の洗礼を受けた。全国的にまだキリシタン迫害の気風が残っていただけに、女性が堂々と洗礼を受けることは相当の勇気が必要だったと思われる。ともあれ、欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦だった。

 1878年(明治11年)、同志社女学校が正式に開校となり、同志社社長に襄、結社人山本覚馬、教師は外国人宣教師があたった。
 1890年(明治23年)、夫の襄が46歳の若さで病気のため急逝。二人の間には子供がおらず、新島家にも襄以外に男子がいなかったため、養子を迎えた。ただ、この養子とは疎遠で、その後の同志社を支えた襄の多くの門人たちともソリが合わず、同志社とも疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知り合った円能斎で、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献した。

 当時の女性としては珍しく、精神的にも経済的にも自立した八重は、世間の目に左右されることなく、自分の気持ちに忠実に生きたといえよう。日清・日露戦争では篤志看護婦となって、劣悪な環境の下で傷病兵の看護にあたった。看護婦の中には伝染病で亡くなった女性もいたほど。その功績により勲七等、そして勲六等を受章し、1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に、銀杯を授与された。その4年後、夫の襄の死から42年間、一人で過ごした寺町丸太町上ルの自邸(現在の新島襄旧邸)で、八重は87年の生涯を閉じた。

(参考資料)徳富猪一郎「蘇翁夢物語-わが交遊録」

額田 王・・・天武、天智両天皇とのロマンスが光彩放つ万葉集のスター

 大海人皇子(天武天皇)と中大兄皇子(天智天皇)の二人に愛された額田王のロマンスは日本古代史を飾る大輪の花のように華やかな光彩を放っている。彼女は初め、宮廷に仕えていたとも言われているが、美しいうえにずば抜けた歌の才能を持っていた。「万葉集」には長歌三首、短歌九首が載り、万葉初期歌人中、群を抜いている。落ち着いた愛の歌、女の息吹が聞こえる情熱の歌など数が多いだけでなく、格調も一段高い。「万葉集」のスターだ。

 天智天皇が蒲生野で薬草刈りをしたとき、彼女と昔の恋人・大海人皇子の間に取り交わされた相聞歌
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる
はとくに有名。これは怖い亭主(天智天皇)のいる前で、かつての恋人(大海人皇子)が人目を忍んで手を振るのを見てハラハラするというものだ。そして、これに応えて、大海人皇子は
 紫の匂える妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
と歌っている。

 しかし、近年の研究分析では、これらの歌は密かに贈った歌ではなく、薬草刈り後の宴で、この二人がかけあいで詠んで宴の興趣を盛り上げたという説が有力になっている。したがって、兄弟で一人の女を取り合って火花を散らしたということではないようだ。

 また、当時の女性は二婚三婚しているケースは決して珍しいことではない。一人の女を二人の男が争うといっても、命を賭けるような争いにはならず、きょう結婚してあす別れ、一週間後に別の男と、などということはよくあったという。現代の“不倫”などとは全く違う次元のものだ。

 額田王をめぐって、中大兄皇子と大海人皇子の兄弟が争って、それが壬申の乱になったという説があるが、これは俗説だ。ただ、斉明女帝の御世、朝鮮出兵のとき伊予で有名な
熟田津に船のりせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
と歌ったころに、額田王の心は夫・大海人皇子から中大兄皇子に移ったといわれる。

というのは、この少し前に中大兄皇子は自分の二人の娘(姉・大田皇女と妹・後の持統天皇)を大海人皇子に嫁がせている。これは皇太弟で実力者の大海人皇子を抑えるための、いわば懐柔策ともみられているが、恐らく額田王としては内心穏やかではない。二人の皇女は自分より10歳以上も若いのだ。そんな精神状態のとき、これはあくまでも推測だが、中大兄皇子が「ゆくゆくはあなたの娘(十市皇女)をわが子大友皇子(弘文天皇)の嫁にもしよう」といったような、いい条件を持ち出して口説いたのではないか-と思われる。中大兄皇子はこのときの朝廷一番の権力者だ。そこで、娘の十市皇女の将来を考え合わせ、才女・額田王は中大兄皇子に乗り換えた(?)のではないか。その結果、二人の兄弟天皇に愛を受けた女性、額田王というヒロイン像ができあがったのだ。

(参考資料)永井路子「茜さす」、黒岩重吾「茜に燃ゆ 小説 額田 王」、永井路子対談集「額田 王」(永井路子vs大岡信)、日本史探訪/池田弥三郎「古代の激動期を彩る女流歌人 額田王」

ねね・・・士民出の戦国女性代表で、識見高い、太閤秀吉の正室

 ねね(のちの高台院)は応仁の乱を機に、それまでの階級制が崩れ、台頭してきた才覚、実力のある士民階級出の代表的な戦国女性の一人で、識見豊かな太閤秀吉の正室=北政所だった。幼名には諸説あるが、一般的には「ねね」、あるいは「おね」。秀吉の養子となり、後に小早川家を継いだ小早川秀秋は甥。

 豊臣秀吉の死後、天下が東軍・西軍に二分して対立した際、京都・高台寺に隠居したねねの“関ケ原工作”が奏功していれば、豊臣家は小大名として名を残し、今日でも「豊臣さん」という人がいたはずだ。

ねね=高台院は、豊臣秀頼を総大将とする西軍ではなく、時流は東軍=徳川にあると苦渋の判断を下した。そして秀吉子飼いの家来で、かつては彼女が母のように面倒をみた加藤清正、福島正則らとともに徳川方についた。それもこれも小大名となっても、豊臣の名を残すことが、亡き秀吉への最良のプレゼントになると考えたからに他ならない。しかし、故太閤の遺児と側室という、誇りや意地にこだわった、秀頼と淀君の愚かな対応が、ねねのその思いを無にしたのだ。

 大坂の陣が始まったとき、ねねは秀頼・淀君を説得するため大坂城に行こうとした。しかし、政治的に混乱すると困ると考えた徳川家康は人を使ってこれを止めている。また、家康は関ケ原以後、豊臣家攻略には随分、時間をかけている。これは天下の人心を考えたからだが、このねねの存在に十分配慮したためで、一気に決着をつける、むごい仕儀を差し控えたのだ。
 
 ねねの官位は従一位。生没年は推定1542~1624。杉原、木下、浅野の三姓があって、父親は不明。出生地もよく分からない。叔母の嫁ぎ先、尾張国海東郡津島(現在の津島市)の、織田信長のお弓頭・浅野長勝の養女だったが、14歳のとき木下藤吉郎(秀吉)に請われて結婚。当時は政略結婚が普通だったが、この結婚は珍しく恋愛結婚の部類に入るだろう。

ねねの性格はおおらかで、識見高く、秀吉が関白になってから、大名の処分や国、郡統廃令などについて意見を求められた。秀吉には多くの愛妾がいたが、妾たちには公正な態度で臨み、嫉妬や自分の好悪の感情で傷つけることはなかった。

 1585年(天正13年)、秀吉が関白に任官したことに伴い。従三位に叙せられ北政所と称した。1588年、後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の際に従一位に叙せられた。1598年(慶長3年)、秀吉が没すると落飾し、高台院湖月尼と称した。1599年、大坂城西の丸を退去し、京都三本木の屋敷に隠棲。1605年(慶長10年)、秀吉の冥福を祈るために家康に諮り、京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後も、江戸幕府の保護を受けていた。

(参考資料)対談集 永井路子vs司馬遼太郎

一橋直子・・・幕末、一橋家を取り仕切り、慶喜を助け支えた若い義母

 一橋直子(ひとつばしつねこ)は伏見宮家の姫として京都に生まれたが、わずか11歳で一橋慶寿のもとへ嫁いだ。子に恵まれぬまま夫が他界したため、養子を迎えた。その養子が、後に徳川第十五代将軍となった慶喜だった。慶喜よりわずか7歳年上の彼女は、慶喜の母親として、そして当主・慶喜が不在の折は女当主として一橋家を見事に取り仕切り、才女ぶりを示した。また、京の中川宮、輪王寺宮、仁和寺宮らは直子の甥にあたり、朝廷工作をする慶喜を、直子は実家である伏見宮家の縁を利用し、陰から慶喜を助け支えたと思われる。直子は京都の有力公家の出の姫ながら、才覚のある女性だった。

 一橋直子は東明宮直子といい、のち嫁ぎ先の夫に先立たれた以降は徳信院といった。直子は天保12年の暮れ、わずか11歳で江戸へ下り、一橋慶寿のもとへ嫁ぎ、不幸にも子宝に恵まれないまま夫は他界。そこで幼少の養子を迎えるが、その養子が2歳で死去。その養子として迎えたのが慶喜だった。直子とは系図上、祖母と孫養子の関係になるが、慶喜が一橋家を相続した12歳当時、直子改め徳信院はまだ19歳だった。つまり、わずか7歳年上の母親で、周囲の目には姉弟のように映ったといわれる。

 慶喜が一橋家に入った当時は、ともに永代一橋別邸で穏やかな日々を送った。当時の十二代将軍家慶は、この少年当主(慶喜)を可愛がり、よく別邸を訪ね、その聡明さに感心していたという。そのため5年後、浦賀にペリーが来航した際、一橋慶喜が将軍家存続の要人として注目を浴びるもととなったのだ。

 一橋家は田安・清水家と並び、将軍家となる資格を持つ三卿の家柄の一つで、本邸は江戸城の一ツ橋内、現在の皇居平川門に面する細長い土地にあった。一橋家は個人よりも家、家よりも主君、将軍家を大事とする。その家の主人である直子は、個人の幸せよりも将軍家を大事としなければならなかった。

十三代の新将軍家定が病弱で、この黒船騒ぎ以後、慶喜を次期将軍に推す動きが慶喜の実父、水戸藩主水戸斉昭、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平春嶽らから起こり、紀州慶福(よしとみ)を推す大老井伊直弼らと対立。一橋家は当主が早世のために慶喜を迎えてやっと安定したというのに、この政争に一橋家が巻き込まれることを直子は悩み、慶喜に一橋家に留まるよう詰め寄ったといわれる。慶喜も一時はこれに応じ、大奥へ働きかけて、このときの将軍後継話は潰れている。直子が政治に関して自分の意見を言った点で、当時の将軍家周辺の女性としては珍しい存在だったと思われる。

 大名ならば跡継ぎがなければお家断絶とされていた当時、三卿(田安家・一橋家・清水家)の場合は一代ごとに将軍から禄を拝領する形になり、当主不在でもお家の存続は可能だったため、女当主が取り仕切ることもできた。そのため、慶喜が「安政の大獄」で井伊直弼から隠居謹慎処分を受けた間、将軍後見職として京で政権を動かした間と、維新に至るまで直子が一橋家の当主として家を守ったのだ。

 慶喜の三女、鉄子を一橋家跡取りの達道の妻に迎えたのを見届け、直子は明治26年、他界した。

(参考資料)遠藤幸威「女聞き書き 徳川慶喜残照」

細川ガラシャ クリスチャンが最後は“武士の妻”で生涯を全う

 細川忠興の妻ガラシャ(おたま)は「関が原の戦い」の直前、豊臣方の石田三成が豊臣家に縁のある大名を味方につけようとして、その妻子を大阪城内に移そうとした。その際、徳川家康に従って上杉征伐に出陣している夫・忠興の命でなければ行動できないと三成の命令を拒み、キリシタンで自害できない彼女は火が放たれた屋敷で、家来の振りかざす白刃の下で果てた。享年37歳。一本気な彼女らしい壮烈な最期だ。その最期の言葉が

 ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花は花なれ人は人なれ
の辞世だ。ちょっと妙に思われるのは、彼女はガラシャという洗礼名を持つクリスチャンだ。その彼女が日本風の辞世を詠んで死を迎えたことだ。当時の彼女は朝夕のお祈りなど精神的にはクリスチャンとしての生活を送っていたと思われるのに、最後は“日本の武士の妻”として波乱万丈の生涯を全うしたのだ。そのことが後世の人の、細川ガラシャに対する哀憐の情をさらに深めていることは言うまでもない。 

 細川ガラシャ(おたま)は明智光秀の三女。生没年1563~1600。織田信長の仲介による政略結婚。三男二女を産む。美男美女で夫婦仲は大変よかった。ところが、1582年6月、父・光秀が主君信長を本能寺で討って、事態は急変。夫・忠興が光秀を見捨てて秀吉側についたため、当時のおたまは形の上で離縁され、丹波山中に幽閉された。父の叛乱のショックと、この山中での瞑想生活がキリスト教入信の契機になったと思われる。二年後、信長に代わって天下を統一した秀吉に許され復縁、夫婦として再スタートした。

 1587年、洗礼を受けてガラシャの霊名を受けた。ただ、忠興は嫉妬心が異常に強く、ガラシャは教会への礼拝さえ思うに任せなかったらしい。ざっくばらんに言えば二人はしょっちゅう火花を散らすようなケンカをしていた。当時の大名家の夫婦としては極めて珍しい、ある意味で近代的な感じの夫婦だったのかもしれない。
 文献によると、ガラシャ(おたま)は容貌の美しさは比べるものなく、精神活発にして鋭く、決断力に富み、心情高尚、才智抜きんずる-とあり、誇り高く、冒しがたい気品のある女性だった。

(参考資料)永井路子対談集「細川ガラシャ夫人」(永井路子vs司馬遼太郎)

まつ・・・加賀百万石を築く礎として力のあった藩祖・前田利家の妻

 まつ(のちの芳春院)は加賀百万石の祖・前田利家の妻。「ねね」と同様、士民階級出の女性で、現実にねねとまつは幼い頃、隣同士だったようだ。そして、それぞれやはり士民階級出の秀吉、利家に嫁ぎ、亭主たちの死後起こった天下分け目の関ヶ原で、秀頼を捨てて家康側についた。歴史を変えた関ケ原で、どちらにつくかという大事なことを、味噌や醤油を貸し借りあった無二の親友は、相談して決めた気配がある。

 まつの生没年1547~1617。尾張(愛知県)に生まれ、父親は不明。幼い頃、親類の荒子城主・前田利昌の養女となり、数え12歳で兄妹のように育った利家(城主の4男)と結婚、前田家の繁栄を支えた。利家との間に二男九女をもうけた。戦国時代の女性は比較的、多産だが、それでも11人の実子がいる女性は稀有だ。1599年、利家の没後、芳春院と号した。

まつ=芳春院は腹の座った女性で、秀吉、そして夫・利家の死後、1600年(慶長5年)家康が前田家を滅ぼして天下制覇の足がかりにしようとしているのを知り、自ら人質となって江戸へ行き、14年間江戸城で過ごし、前田家の危機を救った。

このとき前田家を継いでいた長子、利長に、家康から挑発的な難題がふりかかっても「何事もお家第一。そのためには迷わず母を捨てなさい!」と言い置いて江戸へ向かったという。これにはまだ後日譚がある。まつの見返りに徳川方は二代将軍秀忠の次女おたまを前田家に出し、これで徳川家と前田家はがっちりと握手を交わすことになるのだ。

 まつは加賀百万石を築く礎として力を発揮した。彼女が結婚したときの利家はせいぜい二千石。利家自身そんな大きな身代になる能力があったとは思えない。運のよさと、秀吉から頼まれたことをきっちりやる律儀さ、実直さで身代を大きくしたと思われる。

 それだけに、人間的なスケールは利家よりまつの方が大きい。秀吉に加賀をもらって城主になったとき、隣の富山の佐々成政と戦いになる。大名に成りたての利家は、秀吉が長浜で募集したように人を集めようとするが、利家がケチでカネを出し惜しむから、なかなか人が集まらない。見かねたまつが蔵から金銀の袋を持ち出して、利家の前に袋を投げ出したという。これに奮起した利家が佐々成政を破って凱旋する。

 まつが賢夫人と評されるのが賤ヶ嶽の合戦の柴田勝家と羽柴秀吉への対応だ。秀吉が勝家を破ったこの合戦は夫・利家にとってはつらい闘いだった。秀吉は刎頚(ふんけい)の友。勝家は「おやじどの」と敬愛する先輩で、戦国の常として双方に娘を人質として(秀吉へは養女として)差し出してあった。利家は勝家に加担すべく近江まで出兵して布陣するが、戦意なく潮時をみて軍を引き揚げる。昇竜の勢いの秀吉に全面敵対する決断がつかなかったのだ。

資料によると、越前府中の城に入った利家のもとに立ち寄った勝家は、利家の心中を察し、湯漬けをふるまわれ、進呈された替え馬で北の庄(福井)へ落ちていく。その後へ秀吉軍が現われる。秀吉は城門を開けさせると、ずかずか入ってきて、まず台所のまつを訪ねる。聡明な彼女は、すかさず長子、利長に「筑前殿(秀吉)の先手を受け持たせていただくように」という。すると、秀吉は「亭主殿(利家)はあとからゆるゆると来られよ。とりあえずせがれどのを借りる」と応じ、まつ手作りの湯漬けをサラサラかき込むと、慌しく北の庄へ向かって進撃していく-という具合だ。まつは刎頚の友でありながら、一時的とはいえ敵対した夫(利家)と秀吉のきまずさを、さりげなく救ったのだ。

(参考資料)対談集 永井路子vs司馬遼太郎、酒井美意子「加賀百万石物語」
      戸部新十郎「戦国武将の本領」