野村望東尼・・・高杉晋作ら勤皇の志士たちに母のように慕われた尼

 幕末、血気盛んな勤皇の志士たちが母のように慕う女性がいた。野村望東尼(のむらぼうとうに)という人物だ。彼女は夫の死後、出家し、多くの志士たちと親交、とくに長州藩の高杉晋作とは親しかった。高杉が死の直前詠んだ辞世「おもしろきこともなき世をおもしろく」の上句を受けて、望東尼が「すみなすものはこころなりけり」の下の句を詠み、辞世を完成させたとされる。女だてらに勤皇なんて…と噂されようとも、新しい時代をつくるために自分が信じる道をひとすじに貫いたのだ。生没年は1806(文化3)~1867年(○○年)。

 野村望東尼は筑前早良郡谷(現在の福岡市中央区)で、三百石の福岡藩士、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれた。名を「もと」といい、招月、向陵(こうりょう)と号した。17歳のとき20歳も年上の知行五百石の郡利貫に嫁ぐが、半年で破局を迎え実家に戻る。その後、九州で著名だった大隈言道(ことみち)に和歌や書道を学び、この師のとりなしで、24歳のとき、同門だった福岡藩馬廻役、野村貞貫(さだつら)の妻となった。夫には先妻との間に17歳を頭に三人の男子がいた。また、もとも四人の子を産むが、皆早世してしまったという。しかし、夫婦仲はよく、二人は同じ趣味に生きた。互いに歌作を競っては、心の中を語り合い、ともに歌道を究めようと学んだ。

 夫の貞貫は彼女が40歳になったとき、家督を長子の卯左衛門貞則に譲って、現在の福岡市中央区平尾にあった隠居所、平尾山荘に移ってきた。それから二人は世俗を離れて十有余年をこの山荘で静かに送った。彼女が髪を降ろして尼となり、身を墨染めの衣に包むようになったのは、夫貞貫が66歳で亡くなったときからだ。そのとき彼女は54歳だった。彼女が尼となったのは世捨て人になろうと決心したからだった。

 しかし、彼女は世捨て人にはなりきれなかった。桜田門外の変(1860年)はじめ、ロシア軍艦による対馬占領事件(1861年)、そして坂下門外の変(1862年)などが相次いで起きた、激動の時代だったからだ。尼の耳には世の中の慌しい動きが嫌でも伝わってきた
この山荘には多くの志士が出入りした。元治元年、望東尼がこの山荘に住んで20年近く経ったころ、高杉晋作が訪れている。高杉は長州藩の佐幕派の俗論党に追われ、谷梅之介の偽名を使って長州を逃れ、多くの志士たちが頼りにしていると聞く望東尼の平尾山荘にやってきたのだ。

高杉は討幕の九州連合をつくることにより、外部からの長州の改革を企てたが、筑前もいぜん佐幕派が強く、博多に身を潜めるのも危険な状態になり、この山荘に身を寄せたわけだ。高杉はここで約10日間過ごし多くの志士たちと会い、また薩摩の西郷隆盛とも初めて会ったともいわれているが、真偽は定かではない。高杉はその後、長州へ戻り、1カ月後同士と謀り俗論党を倒し、藩の主導権を握った。

 高杉を匿った翌年、望東尼は福岡藩から、志士たちの隠匿の嫌疑で咎められ、玄界灘の姫島に流罪となった。60歳のときのことだ。荒格子だけの四畳牢で吹き晒しの中、食べ物を運んでくれる島民を支えに、彼女はここで10カ月を過ごす。高杉はこの厳しい流刑地の望東尼の身を案じていたが、小倉戦争後、病に伏せることが多くなり、信頼する者に救出に向かわせる。慶応2年望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せる。そして、喀血して病に倒れた高杉を看病する愛人おうのを助けたという。

 数えで29歳という若すぎる不世出の天才児、高杉の死を見届けた後、望東尼は下関を去り、薩長同盟が成立し、両藩の軍艦が集結する三田尻に行く。彼女は防府天満宮に7日間籠もり、断食して勝利を祈った。そのため、体を壊し病床につくことになった。しかし、大政奉還がなり、王制復古が実現したとの知らせが届き、彼女は満足して没したといわれる。高杉の死後、約7カ月後のことだった。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、三好徹「高杉晋作」、司馬遼太郎「世に棲む日日」