月別アーカイブ: 2013年12月

松尾多勢子・・・10人の子供を産み育て上げた後、討幕運動で活躍した女性

 松尾多勢子は幕末、討幕運動で活躍した女性活動家だ。多勢子は6男4女、10人の子供を産み、旧家の大家族の主婦として家事を取り仕切り、主婦の座を嫁に渡した後、上洛し討幕活動に参加。渉外・連絡・スパイ活動などをするかたわら、20歳前後の若者の多い活動家たちを、物心両面で助けた。また、岩倉具視の信任を得て、維新後は新政府の要人となった岩倉に招かれ、岩倉家の家政を取り仕切り、岩倉家の女参事と呼ばれた。この当時としては異例の生涯を送った女性だ。多勢子の生没年は1810(文化8)~1894年(明治27年)。

 松尾多勢子は信濃国下伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の庄屋、竹村常盈の長女として生まれた。12歳のとき、父の実家、北原家に預けられ、従兄の北原因信から読み書きと和歌を学び、北原因信の妻から家事と礼儀作法を学んだ。19歳のとき、伊那谷伴野村の豪農、松尾家の長男、左次右衛門と結婚。6男4女をもうけた。主婦として30余年を過ごし、その間に和歌を学び、とりわけ飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に深く感化された。また、平田篤胤の養嗣子、銕胤のもとに入門し学問を再開した。

 多勢子の人生が大きく変わるのがこれからだ。それも普通なら、もうそろそろ人生も“たそがれ”と思われる52歳のとき、1862年(文久2年)彼女は夫の了解を得て、意を決して上洛したのだ。まだ自分にはやりたいこと、やり残したことがあるとの思いからだったか。彼女は“信州の山奥から出てきた歌詠みおばさん”という触れ込みで諸卿の門に出入りし、宮中の女官と親交を結ぶようになった。

長州藩の久坂玄瑞、品川弥二郎、藤本鉄石らとも交わり、志士を堂上家に紹介したり、両者の連絡にあたったりした。老女のため、警戒されることも少なく、様々な頼みごとを持ち前の義侠心で引き受けその実現に奔走、農民や商人などに変装し活動を続けたのだ。

 多勢子の人生をさらにステップアップさせたのは、岩倉具視の信任を得たことだ。これは岩倉が奸物として志士に命を狙われたとき、彼女が志士たちに岩倉が奸物でないことを説いて危険を免れさせたからだという。彼女は快活で弁舌に長じ、世話好きで資力も豊かだったから、志士でその世話になった者が多かった。

多勢子は1863年(文久3年)、等持院の足利三代木像梟首事件に関係し、また天誅組の志士を保護して幕吏に疑われ、捕らわれの身となる恐れもあったが、長州藩邸に匿われて事無きを得たこともあった。同年、国許から迎えにきた息子らとともに帰郷するが、郷里では多勢子を頼ってくる志士も多く、松尾家には常に数人が滞在していたという。

 明治維新後、多勢子は新政府の要人となった岩倉具視に招かれ、再び上洛して女中の教育や客の応対など岩倉家の家政を取り仕切ったりし、岩倉邸の女参事と呼ばれた。具視の多勢子への信頼は厚く、彼女の進言は必ず受け入れられたという。また、彼女の口入れで官途に就こうとする者も多かった。晩年は郷里に隠居して静かに余生を送り、1892年(明治25年)には皇后から白縮緬を下賜された。
 島崎藤村の『夜明け前』には松尾多勢子の名が13回も出てくる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」

三浦環・・・日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手

 三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手だ。十八番だった、プッチーニの『蝶々夫人』の蝶々さんと重ね合わされて、国際的に有名だった。三浦環の生没年は1884(明治17)~1946年(昭和21年)。

 三浦環は東京・芝で公証人の柴田猛甫を父に、永田登波を母に生まれた。元の名は柴田環、次いで藤井環。1900年に東京音楽学校に進みピアノを滝廉太郎に師事。1903年、東京音楽学校在学中、日本人による最初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』上演にエウリディーチェ役で出演した。1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務、その後助教授となった。この間に山田耕筰らを指導したといわれる。

1911年に帝国劇場に所属し、翌年からプリマドンナとして活躍を続けた。1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学した。しかし、第一次世界大戦の戦火を逃れて、イギリスに移動。1915年、ロンドンのオペラハウスに日本人として初めてプリマドンナとして出演。プッチーニの『蝶々夫人』を歌った。この英国デビューの成功を受けて、1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じた。好意的な批評によってその後、「蝶々夫人」やマスカーニの『あやめ』をニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで演ずることができた。ちなみに三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手だ。

 三浦環はその後、ヨーロッパに戻り、ロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年、米国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評だった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演した。1922年帰国すると、長崎に留まり『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに、長崎市のグラバー園に建っている。

 三浦環は欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。ソプラノのその明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどだった。1935年(昭和10年)帰国し、翌年、歌舞伎座で2001回目の『蝶々夫人』演奏会を開催。以後、死ぬまで10年間は日本で演奏教育活動を行った。

 『蝶々夫人(=マダム・バタフライ)』はJ.L.ロングの原作(1895年)で、明治中期の長崎を舞台に、士族の娘お蝶とアメリカ海軍のピンカートン中尉との愛と悲劇を描いた作品だ。二人は恋をし、結婚して子供までもうける。しかし、ピンカートンは帰国することになる。彼はそのうち戻るからといって単身でアメリカへ帰ってしまう。やがて3年の月日が流れ、やっとピンカートンが長崎にやってきたが、彼の側にはアメリカで結婚したケイトが付き添っていた。ピンカートンを信じきっていたお蝶はショックを受け、このまま侮辱を受けるよりは、武士の娘として高貴な死を選ぼうといって自刃して果てる-こんなストーリーだ。

 この物語は実話を元にしているとされ、グラバー園のトーマス・グラバーと夫人の鶴さんがモデルではないかとの説もある。ただ、この種の話は当時、随分多かったようで定かではない。実際にはグラバーは帰国せず、日本で様々なビジネスに取り組み、東京・麻布で亡くなっている。

(参考資料)白石一郎「異人館」

茨城県鉾田市が北スマトラ州北タパヌリ県で農業支援事業

茨城県鉾田市が北スマトラ州北タパヌリ県で農業支援事業
 茨城県鉾田市の鬼沢保平市長は12月2日、インドネシア北スマトラ州北タパヌリ県の農業を支援する「官民連携による市場志向型農業支援プロジェクト」が、国際協力機構(JICA)の「草の根技術協力事業(地域経済活性化枠)」に採択されることが内定したことを明らかにした。日本国内手続きは完了、インドネシア側の承認が得られれば正式採択される。2014年1月にも支援を開始する。同市の棒業者の海外進出や農産物の輸出も視野に入れている。
 事業費は6000万円以内で、政府開発援助(ODA)から拠出される。実施機関は16年まで。同事業では堆肥から栽培、生産管理、加工、流通、販売までの全工程で支援する。農業を同県の基幹産業として成長させ、雇用創出の機会の拡大を狙う。茨城大学農学部の研究者も協力する。加工品開発などで成果を上げている鉾田市産地ブランドアップ振興協議会が実施主体となり、同協議会の協力企業、事務局役を務める県中小企業振興公社も同市とともに事業に参加する。加工品開発が進んだ段階で、現地と東南アジア各国での展示即売会なども実施する計画だ。

ハラル・フード・プロジェクト始動 認証取得を支援

ハラル・フード・プロジェクト始動 認証取得を支援
 経済産業省のクール・ジャパン戦略推進事業に採択された「ジャパン・ハラール・フード・プロジェクト」が12月4日、日本とジャカルタで始動した。インドネシア進出を検討する日本企業に、NPOの日本アジアハラール協会を通じて、インドネシアの公的認証期間であるイスラム指導者会議(MUI)の認証が取得できるようサポートする。また、現地消費者には日本の食文化に関する情報を発信する。
 日本アジアハラール協会によると、同協会は設立から2年間で日本の食品メーカー11社に対してハラル認証を付与。同日、中央ジャカルタのホテルで開かれた会見では、同協会が認証を付与したコメやしょうゆなど食品・食材が紹介された。東京では食品・食材関連メーカーや外食チェーンなどを対象にしたインドネシア市場ハラルセミナーも開催され、定員の200人を上回る280人が出席した。
 2014年3月4~5日にはインドネシアから有力バイヤー約20社を招へいし、現地での事業展開を検討する日本企業との商談会を実施する予定だ。現地の消費者向けには日本食のレシピや日本食レストランに関する情報をウェブサイト「クッキング・ジャパン」(www.indonesiacookingjapan.com)を通じて発信。14年2月にはジャカルタの小学校5校で親子が参加する日本食の料理教室を開く。

トヨタが政府と折半出資し南ジャカルタの交差点を改良

トヨタが政府と折半出資し南ジャカルタの交差点を改良
 トヨタ自動車グループがトヨタ・アストラ財団を通じて実施した南ジャカルタ・マンパン交差点の改良計画の完成式が11月30日、同交差点で行われた。改良計画は日本政府の草の根・人間の安全保障無償資金協力で769万円を供与。官民連携の枠組みで、インドネシアのトヨタ・グループや部品供給企業23社がほぼ同額を拠出し、総予算約1500万円で約2カ月かけて完成した。高架道下の交差点で安全地帯、中央分離帯、Uターン地点などを設計し直し、左折車線の道路幅も2車線分を確保。交通標識、信号機を移設、舗装や標識設置なども行い、より効率的な運行を図った。
 式典には在インドネシア日本大使館の牛尾滋公使、トヨタ・アストラ財団のジョニー・ダルマワン理事長(トヨタ・アストラ・モーター社長)、ジャカルタ特別州のスタント・スホド産業・運輸担当補佐官、トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・インドネシアの野波雅裕社長らが出席した。
 首都ジャカルタ市内の交通渋滞は日に日に悪化し、今年は過去最多の120万台の新車販売が見込まれている好調な自動車業界への風当たりが強くなる中、こうした自動車メーカーの渋滞緩和および軽減に向けた取り組みが一層求められそうだ。