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私説 小倉百人一首 No.74 源俊頼朝臣

源俊頼朝臣

うかりける人を初瀬の山おろし
       はげしかれとは祈らぬものを

【歌の背景】祈っても思う人に逢えない恋を歌っている。逢うというのは、逢って恋が叶えられるということを意味する。恋の成就を初瀬山の長谷寺の観音に祈ったのに、女の気持ちが自分になびくどころか、かえって冷たさを増してしまった。これは一体どうしたことかと観音に恨みを訴えている、やや難解な歌。

【歌 意】長谷寺の観音よ、私につれなく逢ってくれようともしない人が、さらにつれなさを増すようなことは祈っていないのに、初瀬の山おろしのように、つれなさがひどくなるのです。

【作者のプロフィル】大納言源経信の第三子。堀河・鳥羽・崇徳の三帝に仕えた。右近衛少将から右京大夫になった。官位は低かったが、歌壇の実力者で歌合の判者になり、白川法王の命をうけて崇徳天皇の大治2年(1127)に「金葉集」を選んだ。父の遺志を継ぎ、歌道に革新をもたらし、歌材や表現時に用語の上で清新の気を吹き込んだ。このため伝統派の藤原基俊と争った。

私説 小倉百人一首 No.75 藤原基俊

藤原基俊

契りおきしさせもが露を命にて
       あはれ今年の秋もいぬめり

【歌の背景】基俊の子の光覚が、毎年10月に興福寺で行われる維摩経を講ずる会の講師になりたいと願っていたのに幾度も選に漏れた。太政大臣藤原忠通に恨みごとを言うと、忠通は清水観音の歌と伝えられる「ただ頼めしめぢが原のさしも草われ世の中にあらむかぎりは(新古今集)」から引用して「しめぢが原だ。おれのいる限りは安心しろ」といった。ところが、また今年の選にも漏れた。そこで父、基俊がもぐさの産地である「しめぢが原」にかけて、「させもが露」と歌いこみ、違約をそれとなく忠通に訴えたもの。

【歌 意】あれほど堅くお約束してくださったお言葉を命とも頼み、待っておりましたのに、そのお約束は今年も叶えていただけず、秋も過ぎてしまうようです。

【作者のプロフィル】右大臣藤原俊家の子。御堂関白藤原道長の曾孫で名門だが、官位は低く従五位上左衛門佐に終わっている。出家して覚舜といい、近衛天皇の康治元年(1142)83歳で没。歌才・学才があり、源俊頼と歌の上で競った。伝統派の旗頭だったが、狭量で傲慢なところがあって、人望がなかったようだ。

私説 小倉百人一首 No.76 法性寺入道前関白太政大臣

法性寺入道前関白太政大臣
※藤原忠通

わたの原漕ぎ出でてみればひさかたの          
       雲居にまがふ沖つ白波

【歌の背景】崇徳上皇の天皇在位時代、保延元年(1135)4月に行われた内裏歌合の席で「海上望遠」という題が出て、それに応えて詠んだもの。ただ、この背景には後の保元の乱に至る、天皇家と摂関家を二分した複雑な政争がある。
この争いは鳥羽(そしてその子後白河)-藤原忠通(この歌の作者本人)ラインが勝者となり、崇徳-藤原頼長(作者の弟)ラインが敗者となる。頼長は流れ矢に当たって死に、崇徳院は讃岐に配流となった。

【歌 意】大海原に船を漕ぎ出してはるか遠くを眺めると、空の雲と見分けが付かないくらいに、(怪しげな)沖の白波が立っている。(油断されるな)。

【作者のプロフィル】藤原忠通。関白忠実の子。左大臣頼長の兄。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の4代に仕え、摂政・太政大臣を2度ずつ務めた。保元・平治の乱の渦中にあって、政治的手腕を示した。久安6年(1150)摂政を改めて関白となり、応保2年(1162)66歳で出家、法性寺に入って円観と号したが、長寛2年(1164)68歳で没。

私説 小倉百人一首 No.77 崇徳院

崇徳院

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
       われても末にあはむとぞ思ふ

【歌の背景】独特の表現で、線が太い、激しい恋の歌。前向きな意志があふれた、恋の心情がよく表現されている。

【歌 意】瀬が速いので、岩にせき止められて滝川の水流は一時は左右に分かれるが、また流れは合流するものだ。それと同じように世間に妨げられて、私は恋しい人と別れ別れになっているが、将来は必ずその人に逢おうと思う。

【作者のプロフィル】崇徳天皇。鳥羽天皇の御子。顕仁。元永2年(1119)生まれる。5歳で即位。関白忠通が摂政となる。18年後、父鳥羽法皇の意志で、3歳の近衛天皇に譲位し、鳥羽法皇と区別して「新院」と呼ばれた。さらに法王の死後、御子重仁親王をさしおいて、後白河天皇が即位したので不満やるかたなかった。崇徳上皇は、兄忠通を敵視する左大臣頼長と計って兵を挙げようとし、かえって天皇、忠通側に襲われて敗北、讃岐に流された。これが保元の乱だ。配所で8年、悲憤の日を送られ、長寛2年(1164)46歳で崩御。

私説 小倉百人一首 No.78 源兼昌

源兼昌

淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
       いく夜ねざめぬ須磨の関守

【歌の背景】人里離れた須磨の関所の関守の夜ごとの寂寥を思いやって、哀感の迫ってくる優れた一首。

【歌 意】淡路島へ飛び通っていく千鳥の哀れな声に、須磨の関守は幾度、眠れずに目を覚ましたことだろう。

【作者のプロフィル】美濃守源俊輔の子。従五位下皇后宮大進だったらしいが、伝記はよく分からない。鳥羽天皇の天永3年(1112)39歳で亡くなったという。

私説 小倉百人一首 No.79 左京大夫顕輔

左京大夫顕輔
※藤原顕輔

秋風にたなびく雲の絶え間より
       洩れ出づる月の影のさやけさ

【歌の背景】手の込んだ技巧のない、素直で分かりやすい歌。平凡にみえるが、当時としてはこうした歌いぶりに新味があった。

【歌 意】秋風に吹かれてたなびいていた雲が一瞬切れた。すると、その切れ間から洩れ出た月の光の、なんとすがすがしいことか。

【作者のプロフィル】藤原顕輔は修理大夫顕季の三男。中宮亮を経て右京大夫になった。堀河・鳥羽・崇徳・近衛の四代の帝に仕えた。久寿2年(1155)66歳で没。父顕季は、俊頼や基俊の二派とは別に、一派を立てていた。顕輔は父のその遺志を継いで、いわゆる六条家をはじめ俊成・定家らの御子左家に対立した。六条派は、当時流行の技巧的な歌を否定し古風に返ろうとした。

私説 小倉百人一首 No.80 待賢門院堀河

待賢門院堀河
※堀川は待賢門院璋子に仕えていた。

長からむ心も知らず黒髪の
       乱れて今朝は物をこそ思へ

【歌の背景】この歌は「小倉百人一首」の中でも、恋の激しさと恋の不安とを詠んだ女性の歌で最も優れたものの一つといわれる。

【歌 意】あなたに末永く私を愛し続ける心があるのかどうか、私にはわかりません。お別れしたばかりの今朝は、寝乱れた黒髪のように私の心は思い乱れて悩んでいるのです。

【作者のプロフィル】神祇伯源顕仲のむすめで、初め前斎院白河皇女令子内親王に仕えて六条、後に鳥羽院中宮待賢門院しょう子に仕えて堀河と呼ばれた。康治元年(1142)の待賢門院の落飾に殉じて出家した。父も和歌に巧みだったが、彼女も女流歌人として第一級の実力者という名声を持っていた。

私説 小倉百人一首 No.81 後徳大寺左大臣

後徳大寺左大臣
※藤原実定

ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
       ただ有明の月ぞのこれる

【歌の背景】暁にほととぎすを聞くという題で詠まれた歌。ほととぎすは万葉集以来、秋の月、冬の雪、春の花に並ぶ夏の代表的題材として繰り返し詠まれてきた。なぜなら、山間ならともかく、都では滅多に声を聞くことのできない鳥、もし幸い聞くことができたとしてもほんの一声、しかもその姿を捉えることはほとんどできない鳥だからだ。

【歌 意】ほととぎすが一声鳴いたので、はっと思って声のしたと方を眺めると、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月が残っているだけだ。聞いたと思ったその声さえ、空耳ではなかったかと思われるはかなさだ。

【作者のプロフィル】藤原実定のこと。右大臣公能の子。祖父実能が徳大寺左大臣といったので、それと区別して「後」をつけた。左大臣になったのは文治5年(1189)。建久2年(1191)53歳で没。学識もあり、才能にも恵まれた人で、歌人としても優れていた。

私説 小倉百人一首 No.82 道因法師

道因法師
※俗名藤原敦頼

思ひわびさても命はあるものを
       憂きにたへぬ涙なりけり

【歌の背景】恋する男の心情を詠んだもの。ただ情(こころ)ではなく理屈の歌。

【歌 意】恋のために思い悩んで、それでも死なずに生き長らえている。それなのに自分でどうにかなりそうな涙は、恋のつらさに耐えられなくてあふれ出てくる。人間の生理はままならないものだ。

【作者のプロフィル】俗名は藤原敦頼。父は治部丞清孝。崇徳天皇に仕え、官位は従五位上左馬助になり、後に出家した。歌に熱心だったが、とくに優れた歌人ではなかった。寛治4年(1090)に生まれ、没年は不明だが90歳までの生存が確認されている

私説 小倉百人一首 No.83 皇太后宮大夫俊成

皇太后宮大夫俊成
※藤原俊成、定家の父。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る
       山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

【歌の背景】保元・平治の乱や王朝の交代あるいは朝廷の没落と武家の台頭という転換期の慌しい世相に生きた人間の厭世的な思想をうたったもの。

【歌意】ああ、この憂き世の辛さから逃れる道はないものだなあ。世を捨ててしまいたいと堅く決意して山の奥へ分け入ってみると、ここでも鹿が悲しげに鳴いている。

【作者のプロフィル】藤原俊成は権中納言俊忠の子。後鳥羽天皇に仕え、正三位皇太后宮大夫になる。五条室町に住んだので「五条三位」と呼ばれた。63歳で出家して釈阿といった。歌は藤原基俊に師事、歌才に優れ、やがて歌壇を統一してこれに君臨した。元久元年91歳でなくなった。