私説 小倉百人一首 No.77 崇徳院

崇徳院

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
       われても末にあはむとぞ思ふ

【歌の背景】独特の表現で、線が太い、激しい恋の歌。前向きな意志があふれた、恋の心情がよく表現されている。

【歌 意】瀬が速いので、岩にせき止められて滝川の水流は一時は左右に分かれるが、また流れは合流するものだ。それと同じように世間に妨げられて、私は恋しい人と別れ別れになっているが、将来は必ずその人に逢おうと思う。

【作者のプロフィル】崇徳天皇。鳥羽天皇の御子。顕仁。元永2年(1119)生まれる。5歳で即位。関白忠通が摂政となる。18年後、父鳥羽法皇の意志で、3歳の近衛天皇に譲位し、鳥羽法皇と区別して「新院」と呼ばれた。さらに法王の死後、御子重仁親王をさしおいて、後白河天皇が即位したので不満やるかたなかった。崇徳上皇は、兄忠通を敵視する左大臣頼長と計って兵を挙げようとし、かえって天皇、忠通側に襲われて敗北、讃岐に流された。これが保元の乱だ。配所で8年、悲憤の日を送られ、長寛2年(1164)46歳で崩御。