『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」
 一般にはあまり広くは知られていないことで、少し専門的になりますが、
後に政官界のナンバーワンに躍り出た大久保利通の大出世のきっかけになっ
たのが、内務省の新設と、彼自らがそのトップの内務卿に就任したことなの
です。

内務省の新設と内務卿就任が大久保の大出世のきっかけ
  誰の目にも分かるきっかけは、1873年(明治6年)の征韓論争で西郷隆
盛、板垣退助ら征韓派5人の参議が“下野”したことでしたが、後の「大
久保独裁」は、実は冒頭に述べた内務省の新設および、自身の内務卿就任
が実態としては大きかったといえるでしょう。
 もし、征韓派参議の下野後、大久保が政権中枢に座を占めていたとして
も、効果的な権力掌握や政権運営の実を示せていなければ、あるいはこの
内務省の新設、内務卿就任がなければ、後の歴史ほど大久保による明治維
新政府の運営が円滑に進んだかどうか?殖産興業、さらには近代天皇制の
絶対的権力樹立に果たした役割からみると、それほどに重要なステップだ
ったということです。

内務省新設が「大久保独裁」体制への伏線に
 内務省は、それまであった大蔵省・工部省・司法省の三つの省から、殖産
興業関係と民政関係の部局を移管して新設されたもので、一等寮として勧業
寮と警保寮の二つが置かれました。これは、内務省の主な仕事が殖産興業と
警察の二つにあったことを如実に物語っています。とくに注目されるのは警
保寮で、これは司法省では二等寮だったものが、内務省新設とともに格上げ
されているため、内務省新設の狙いがそこにあったといっても言い過ぎでは
ありません。ちなみに、内務省の二等寮には戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理
寮が置かれていました。
 内務省の新設後、政府は内務省・大蔵省・工部省の三つの省庁が中心とな
り、しかも内務卿・大久保利通は地方官を指揮する広範な権限を持つことに
なり、「大久保独裁」と呼ばれる大久保政権が樹立されることになったので
す。

天皇の補佐役という形で中央集権化と天皇神格化をセットで推進
 近代天皇制の絶対的権力樹立に際し、この内務省、とりわけ警保寮の果た
した役割は極めて大きなものがあったと思います。というのは、警察権力が
それまでの犯罪人の捜査・逮捕といったレベルから、一挙に思想統制なども
含めた“公安”警察のレベルに引き上げられたと考えられるからです。
 大久保が征韓論争で手を組んだ岩倉具視も含め、彼らには西郷隆盛のよう
なカリスマ性はありません。むしろ明治天皇を頂点にいただくことによっ
て、自分たちはあくまでもその補佐役-という形を取りながら、実際には実
権を握る方法を取りました。その場合、「万世一系」という皇統を強調し、
それを神格化させることによって、天皇の権威を持ち出す道を考え出したと
いうわけです。つまり、明治維新政府の中央集権化の動きと、天皇神格化の
動きがセットになって推進されていったのです。

天皇の地方”巡幸”で民衆に「現人神」を印象付ける
 とはいえ、民衆にとって天皇は遠い存在でしかありませんでした。そこ
で、大久保らが考え出したのが天皇の地方“巡幸”でした。明治天皇の地方
“巡幸”をみると、1872年(明治5年)の近畿・中国・四国・九州方面への
“巡幸”を手始めに、ほぼ毎年この“巡幸”が行われ、天皇の「現人神
(あらひとがみ)」を民衆の中に強く印象付ける旅が繰り返されたのです。
 こうして明治維新政府で強固な基盤を築いた大久保は、幼友達で無二の親
友、西郷隆盛と最も激しく対立することになり、西郷が起こした「西南戦争」
(1877年)では、大久保自らが大阪に出向き、西郷討伐の最高指揮を執って
います。