『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」
 1873年(明治6年)、8月17日の正院で、参議・西郷隆盛を隣国朝鮮へ使節
として派遣することが決定しました。岩倉具視ら政府首脳が欧米視察に出か
けている留守の間の「留守政府」で決められたことでしたが、ここから征韓
論争が始まったのです。

朝鮮への使節派遣決定を”ウルトラC”の奇策で覆した岩倉
 明治新政府の首脳には、薩摩藩・長州藩の出身者が主要ポストに就いてい
ましたが、公家出身者では三条実美(さねとみ)の太政大臣、岩倉具視の右
大臣の二人が双璧でした。そして、この三条実美太政大臣、岩倉具視右大臣
のとき、「明治6年政変」が起きているのです。
岩倉らの帰国後、改めて開かれた10月14~15日の正院でも西郷らを派遣す
ることが決められました。このとき、西郷らの派遣論に反対したのが岩倉
と大久保利通らでした。とくに大久保は「時期尚早」として反対論を唱え
ましたが、結果的には敗れました。
 ところが、ここから岩倉の巻き返しの“ウルトラC”が始まるのです。岩
倉と大久保は太政大臣の三条実美に辞表をたたきつけたのです。公家には似
つかわしくないほどの策士といわれた岩倉とは全く違い、三条実美は本質的
にはできる限り対立を避け、混乱を回避したい、実直な公家です。岩倉、大
久保の辞表提出という“奇策”のショックで、精神錯乱に陥った三条は卒倒
してしまったのです。

大久保と組み、太政大臣・三条実美の性格を読んだ計算ずくの勝利
三条が卒倒するところまで計算していたかどうか分かりませんが、岩倉は
「自分らが身を引くといえば、動揺した三条がショックで政務を投げ出す
のではないか」と読んでいたのではないでしょうか。ともかく、三条が倒
れた以上、明治天皇は三条に代わる誰かを太政大臣にしなければなりませ
ん。そうしなければ政界の混乱は収まらないと考えました。そのとき、裏
から大久保が手を回していたといわれています。その結果、天皇から太政
大臣代理の指名を受けたのが岩倉だったのです。
 太政大臣代理となった岩倉は、正院の決定を天皇に奏上しました。そのと
き、「派遣に決定しましたが、私は反対です」と自分の考えを述べているの
です。そこで、“飾りもの”でしかない天皇は、本来尊重すべき正院の決定
を無視し、「すべて岩倉の意見通りにせよ」という勅書を出してしまったと
いうわけです。
 すべて、太政大臣・三条実美の性格を読み切ったうえでの、岩倉の計算ず
くの作戦勝ちでした。本当なら、もはや打つ手なしの状態からの“起死回生
の”逆転勝ちでした。