『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」
 尾張藩第七代藩主・徳川宗春は、八代将軍徳川吉宗の政治を批判、反逆し
た人物というのが定説となっています。

吉宗を上回る部分も少なくなかった宗春の目指した政治理念
 確かにそういう側面はありましたが、宗春の目指した政治理念は、吉宗の
それを上回る部分も少なくなかったのです。それだけに、宗春がもう少しう
まくPRし、周囲を十分納得させたうえで、理想を具体化していくという手
順を踏んでいたら、あれほど完全に浮き上がった存在になってしまうことは
なかったと思います。また、あれほど吉宗側の思い通りの“反逆児”に仕立
て上げられていくことはなかったのではないか-と惜しまれます。
 宗春が吉宗に対して抵抗し続けた理由は、尾張徳川家という家格に対する
誇りです。いわゆる御三家は、徳川家康が自分の九男・義直、十男・頼宣、
十一男・頼房にそれぞれ分家を起こさせたことに端を発しています。尾張徳
川家、紀州徳川家、水戸徳川家がそれです。しかし、水戸徳川家は、三代将
軍家光のころから「副将軍」という非公式な職名が与えられ、同時に江戸定
府を命ぜられました。参勤交代を免ぜられたのです。

尾張徳川家口伝の御三家は本家・尾張徳川家・紀州徳川家を指した
そんなこともあって、尾張初代の藩主義直は自分の子や家臣団に、「御三
家は徳川本家と尾張徳川家並びに紀州徳川家をいい、水戸は入らない。父
の家康公が、徳川家に何かあった時は御三家でよく相談するようにといわ
れたのは、徳川本家と尾張徳川家と紀州徳川家の三家で相談しろというこ
とだ。その意味では、尾張徳川家と紀州徳川家は徳川本家と同格である」
と告げていたのです。

宗春は政治の根源に「慈」「忍」に二文字を掲げた
 宗春は藩祖・義直の精神に則(のっと)って、藩政を執り行おうと考えて
いました。彼は政治の根源に「慈」と「忍」の二文字を掲げ、領民の立場で
政治を考える、いわば「安民」の思想で尾張藩を治めようとしたのです。彼の
政治理念を書いた『温知政要』によると、「治める側の立場に立つのではな
く、治められる民の立場に立ってものを考えよう」という精神が一貫して流
れているのです。そのため、役人のあり方としては、「民の身になって政治
を考える」ことを求めました。そして、『温知政要』の内容をみると、明ら
かに「吉宗政治批判」あるいは「反吉宗」の項目が随所にみられます。

「倹約」と「法律」偏重の吉宗政治を批判
 吉宗の政治の根本は、「倹約」と「法律」に集約されます。これに対し、
宗春は①倹約一辺倒では人間の心が狭く小さくなってしまう。確かに倹約は
大切だが、度が過ぎると世の中が暗くなる。人間も生きがいを失う②法律は
少ないほど、よく守られる。やたらにこれをしてはいけない、あれもしては
いけないなどと法律を多くすれば、窮屈で民は守らなくなる③治者は下情に
通じていなければいけないことはいうまでもないが、下情に通じ過ぎて細か
い物の値段まであれこれ口を出すようになるのは、かえって民が迷惑する-
といった具合に、吉宗政治を批判しているのです。倹約一辺倒の吉宗、ある
いは法律を次から次と新しく出す吉宗に対し、真っ向から「あなたの政治は
間違っている」と宣言したのです。
 さらに、宗春は「質素・倹約」の吉宗を挑発するように、町に賑わいを取
り戻すべく、芝居見物の禁令を解いたり、触れ(法律)の壁書きを撤去、質
素に行うことされていた祭礼を元に戻すなど、服装、髪の結い方まで含め細
かな禁令をすべて解いてしまいました。これでは、吉宗側も黙って見過ごし
てはいられません。こうして、究極的には吉宗側に「尾張宗春には謀反心あ
り」のレッテルを貼らせてしまったのです。

賢君・吉宗には正論は通らず、「謀反心」ありのレッテル
 客観的に判断すれば、為政者としてみれば宗春に理があるのは明らかで
す。しかし、相手によってその判断基準は大きく異なってきます。宗春にと
ってはターゲットとした相手が悪かったということです。徳川十五代将軍の
中でも吉宗は賢君で、「享保の改革」など善政を行った人物として記されて
います。それだけに、彼が意図した当時のそうした社会規範の下では、必ず
しも正論は正論として通りません。

人間的器量で吉宗に劣った宗春
 また、宗春の人間的“器”も吉宗と比較すると、小さかったようです。吉
宗は、どんな時にも絶対に顔色を変えて部下を叱りつけるようなことはしな
かったといいます。その点、宗春は自分の意を迎えて協力するものはどんど
ん登用しましたが、そうでないものは排除してしまいました。これが名古屋
城内に混乱をもたらしたようです。家臣団に十分説明し、理解、納得させる
努力を怠ったというわけです。
その結果、「お家大事」の家臣団の中で、将軍吉宗に“喧嘩”を売るよう
な言動を続ける藩主に不信感を招き、尾張藩内においても宗春は浮き上が
り、孤立化していったのです。不器用な生き方が惜しまれます。