三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭
三野村利左衛門は幕末から明治の初期の激動期、天下の富豪が相次いで倒れていく中、三井家を襲った幾多の窮地を救った大番頭で、影の功労者だ。
利八と名乗った彼の前半生は霧に包まれている。生地は信濃(長野県)または出羽(山形県)ともいう。いやそうではなく、出羽の浪人を父に、江戸で生まれたとの説もある。だが、いずれも確証はない。両親とも死別し、天涯孤独となった利八が、放浪無頼の生活を続けた後、江戸へやってきたのが天保10年(1839)、19歳の時のことだ。深川の干鰯問屋、丸屋に住み込み奉公。後にその才覚を認められ旗本、小栗家の雇い中間に召し抱えられた。小栗家は先祖が徳川家の縁筋に当たる名家で、禄高は2500石、利八が奉公した頃の当主は小栗忠高だった。この跡を継いだのが、その子・小栗上野介忠順で、後に勘定奉行として名を馳せた人物だ。
神田三河町の油、砂糖問屋、紀ノ国屋の入婿となり、娘なかと結婚した。利八25歳、なか19歳だった。義父の死に伴い彼は美野川利八を襲名し、紀ノ国屋の財を足がかりに、小銭両替商を開業。これが江戸における筆頭両替商、三井両替店に出入りするきっかけとなる
当時、ペリーの黒船来航で日本は大きく揺れ動き、豪商三井家も再三にわたり幕府から巨額の御用金を申し付けられ、破産の危機に直面していた。これを拒否すれば、そのしっぺ返しに幕府は三井家に「闕所」(けっしょ=財産没収)を言い渡すことは間違いない。頭を抱えた三井家では減額を嘆願することにした。このとき浮かび上がったのが、出入りの脇両替屋の利八だった。小栗家で信頼をうけている彼なら…と望みを託したのだ。こうして勘定奉行、小栗説得を任された大役だったが、結果は大成功。利八は三井家への御用金は免除、そのうえ幕府が江戸市中への金融緩和政策として行っている、貸付金の取り扱い業務「江戸勘定所貸付金御用」まで貰ってきたのだ。
こうして三井家重役の絶大な信頼を得た利八は三井家当主、三井八郎右衛門高福に対面を許され、三井家の「三」、紀ノ国屋美野川利八の美野川の「野」、亡き父の養子先の木村の「村」を取り、」「三野村」を名乗り、破格の待遇で三井入りする。利八46歳のことだ。以来、利八は三井両替店の番頭(通勤支配格)として幕末維新の金融争乱の真っ只中を奔走する。
三野村は、明治新政府の中心は薩長にあるとにらんで、長州の要人に接近、井上馨と組んで新政府の税収や公金の取り扱いの代行を引き受けた。江戸改め東京に日本初の洋風建築を試みて、5階建ての三井組バンクをつくったのも彼の才覚だった。三井越後屋の分離(三越の創立)と、銀行業への進出が実行された。この頃になると、三井の総指揮は三井家当主を頭に戴いた三野村利左衛門に任され、彼は大番頭となった。彼は明治の動乱期の大波に揺れる三井丸のパイロット役を果たしたばかりか、資本主義経済の世の中へ向かって、三井家の針路を決める大事な役目を果たし、三井銀行、三井物産の創設に関わった。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、三好徹「政商伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、小島直記「福沢山脈」