本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

 本間四郎三郎は江戸時代、巨大な経済力で山形地方に君臨していた豪商、豪農、本間家の中興の祖といわれる。天下第一の豪農として庄内藩14万石の領内において、藩主をはるかに凌ぐ24万石の大地主だったのだ。本間四郎三郎の生没年は1732(享保17)~1801年(寛政13年)。

 本間家の祖は寛永年間(1624~1644年)すでに商業を営み、酒田36人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒臘(さらしろう)、紅花(べにばな)などを買い占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当たって巨利を得た。そして、その利益で酒田周辺の土地を買い上げ、「千町歩地主」と呼ばれる大地主にのしあがっていった。

 本間家三代目・四郎三郎が、父・庄五郎光寿の後、本間家を継いだのは1754年(宝暦4年)のことだ。彼は父の遺志を継いで酒田、西浜の防砂林の植林に取り組んだ。が、これは尋常な事業ではなかった。黒松の苗木は植えても植えても、厳しい風害を受け飛来する砂に埋没し、幾年もの間、根付き育つことはなかった。そこで、苗木を保護するための竹矢来を組むなど、吹き付ける砂嵐と、まさに格闘すること12年、ようやく延々30kmにも及ぶ防砂林の完成にこぎつけた。藩主は、それほどの難事業を成し遂げた四郎三郎の功を賞し町年寄を命じ、のち士分に取り立て小姓格となった。

 このほかにも、四郎三郎は庄内藩および山形地方に様々な事業を通じて地域貢献している。1768年(明和5年)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に2万4000俵を献上、この米が1783(天明3)~1788年(天明8年)の大飢饉から藩士や領民を救った。また、焼失した庄内藩江戸藩邸の再建をはじめ、庄内藩の窮乏を救うため財政すべてを委ねられることになった。そのうえ、幕府から安倍川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借り入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ね、協力を取り付けることに成功するなど、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせた。

 こうした四郎三郎の経済手腕の鮮やかさをみて、藩主を通じて財政再建を委嘱する諸藩があとを絶たなかった。窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩もその一つで、上杉治憲(のちの鷹山)の要請に応えて、彼は米沢藩のため数回にわたって金穀を献貸している。このほか彼は、酒田港口に私費で灯台を建て、氷結する最上川の氷上に板を敷き、旅人の陥没を防ぐなど、病で職を辞するまで、36年にわたって公共のため激務に従事した。

 それだけに、庄内藩14万石・酒井家の財政は、酒田の大地主として名高い、この本間家を抜きにしては語れない。この時代、本間家は庄内藩の“金倉(かねぐら)”みたいなものだった。当初は新顔の町人だった本間家だが、1710年(宝永7年)、300両を献金し、1737年(元文2年)、領内の豪商のトップとなった。その子、四郎三郎の代には、1800余俵収穫の田地から一挙に規模を広げ、1万3900余俵収穫高の田地を有するようになったのだ。四郎三郎のケタ外れの才覚がうかがわれ、彼が本間家にあっても中興の祖といわれるゆえんだ。

 1990年、この本間家が筆頭株主だった商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられた。時代の流れとはいえ、事業を担った人の精神は変わってしまったのかどうか分からないが、名門・本間家の表舞台からの退場は惜しまれる。 

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、中嶋繁雄「大名の日本地図」