水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

 水野忠邦は、1841年(天保12年)から断行された「天保の改革」を推進した老中首座として知られている。水野忠邦の狙いは、諸事、徳川家康が定めた御法の通り、家康の時代に戻すことだった。財政を復興させ、幕府という一党独裁体制の維持を目指す。そのため、倹約令、奢侈禁止令などが発せられた。そして、その実践者として起用された甲斐守・鳥居耀蔵が目を光らせ、その過酷な検察ぶりに憎悪と戦慄を覚えさせるほどの“恐怖政治”をここに出現させることになり、挙げ句、改革は大失敗した。

 水野忠邦は唐津藩第十代藩主・水野忠光の次男として江戸同藩上屋敷で生まれた。幼名は於莵五郎、諱は忠邦。別号は松軒、菊園。母は側室・恂(じゅん)。長男が早世したため跡継ぎとなり、19歳の若さで唐津藩第十一代藩主となった。忠邦の生没年は1794(寛政6)~1851年(嘉永4年)。

 唐津藩は代々、幕府の長崎警備という役目を担っている。そのため、藩主は中央での昇進は望めないという慣例があった。ところが、忠邦は中央=幕政での昇進願望が極めて強い人物だった。自分の思いを遂げるためには国替えしかなかった。

そこで、忠邦は半ば自ら希望する形で唐津藩から、実収の少ない、財政的にはデメリットの多い浜松藩へあえて移った。浜松藩主は、幕閣での出世コースといわれていたからだ。1817年(文化14年)、忠邦24歳のときのことだ。その後、1828年(文政11年)、35歳のとき西丸・老中となり、幕閣の中枢の一員に列せられた。1834年(天保5年)、本丸・老中、そして1839年(天保10年)には思惑通り老中首座に昇り詰めた。

 江戸文化の花を咲かせた文化・文政時代は、一方で十一代将軍・徳川家斉による浪費のため、幕府の財政は窮迫の一途をたどっていた。そして迎えた天保時代、人々は上下とも贅沢に慣れ、反面、地方では飢饉に続く一揆・打ちこわしが頻発していた。近海に外国船が姿を現し、日本国内の様子をうかがい始めていた。十二代将軍家慶の時代になっていた。

 「天保の改革」に乗り出した老中・水野忠邦が最初に出したのが倹約令だった。町人に対し、木綿以上の着物は一切、着てはならない-とのお触れを出した。そして、髪結い、風呂屋から櫛(くし)、笄(こうがい)の類に至るまで細かく全部制限した。実際に女髪結いというものまでを禁止してしまったので、自分の家では誰も髪が結えないので、町家の女房たちの髪形がすっかり変わってしまったという。

 また、天保のころは町家で一般の人々は絹の着物か紬を着ていたので、それが禁止され、もう着る人がほとんどいなかった木綿の着物を着ろという命令に大変困った。木綿の着物なんて一枚も持っていない人が多かった。大坂や京都の町家の人たちは、生活に余裕があって、絹の着物を着ているのではなく、世間一般の風俗でそれを着ているので、木綿の新しい着物を買い求める余裕がない。

 芝居も禁止された。歌舞伎の市川団十郎が江戸から追放された。女歌舞伎も禁止された。茶屋なども禁止され、花街もほとんど火が消えたような状態になっていった。禁止令のおかげで失業者が続出し、首くくりや捨て子が頻発した。

 こうした民衆の風俗の締め付けの一方で、水野は幕府の財政改革にも乗り出そうとした。例えば二宮尊徳を重用した利根川の治水、印旛沼の干拓、さらには大坂の十里四方、江戸の十里四方をすべて直轄地にしようとする案だ。彼は大英断をもってこの政策を打ち出した。だが、大坂、江戸の直轄地化は取り上げられる連中の総反撃を食ってしまう。利根川、印旛沼の治水・干拓も依頼された二宮尊徳が、付近の農民があれほど搾取されて弱っていたのではとても大工事はできないと判断。そこで、尊徳はまず治水事業に先立ち、この付近の農民をいかに立ち直らせるかという計画を立て、実際の治水事業は、農民が立ち直る30年ぐらい後になってから開始すべきだと提言した。

 しかし、幕府としては30年は待ってはいられない。それなら、もう結構だと断った。そして、尊徳に代わって登用したのが鳥居耀蔵だった。これが、最悪の選択だった。この人選に象徴されるように、水野忠邦の周りには、科学に明るい開明派の学者や役人がほとんどいない、旧式の人物ばかりだった。開明派の学者、役人らは、幕府中枢から遠ざけられていた。これが、水野にとって最大の不幸、不運だった。結論をいえばこのことが「天保の改革」失敗の最大の要因だった。

 周知の通り、鳥居は林大学頭の子で、学問にコンプレックスを持っている水野には付け入りやすい。鳥居は頑固で信念はあるが、科学的な才能はない。まして治水をやれるような人物ではない。鳥居は、房総半島と相模の地図を作る競争でも、高野長英門下の内田弥太郎と競うが、誰が見ても勝敗は明らか。それで、始末の悪いことに、鳥居は蘭学者を逆恨みし、でっち上げて「蛮社の獄」(1839年)を起こすのだ。水野は鳥居に振り回されてしまった。結局、鳥居は借金を重ねるだけで、大失敗してしまう。

 ただ、奇妙なことに、当然、水野は1843年(天保14年)、いったん老中御役御免となるのだが、幕閣に人材がいなかったのか、首座の引き受け手がなかったのか、彼は1844年(弘化元年)老中に再任され、さらに老中首座に返り咲く。しかし、翌1845年(弘化2年)老中を辞職、隠居、蟄居に追い込まれた。失政の責任を取らされた形だ。

 水野忠邦の政策の着眼点が悪いわけではなかった。彼の周囲に優れた顧問や、いいブレーンがいなかったことが致命的だった。このことが、彼を後世、不名誉な改革失敗者あるいは悪役として仕立て上げることになった大きな要因だ。 

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ 水野忠邦の悲劇」、松本清張・岡本良一「日本史探訪/幕藩体制の軌跡 水野忠邦」、吉村 昭「長英逃亡」、中嶋繁雄「大名の日本地図」