押坂彦人大兄皇子 蘇我系王族の隆盛期に対立候補として皇位を争い敗れる

押坂彦人大兄皇子 蘇我系王族の隆盛期に対立候補として皇位を争い敗れる

 押坂彦人大兄皇子(おしさかの ひこひとの おおえのみこ)は、第三十代・敏達(びたつ)天皇の後の皇位継承の最有力者だった。候補者の中では年長で、敏達天皇の皇后・広姫(息長真手王=おきながのまてのみこ=の娘)を母とし、身分も高いことで妥当な人選のはずだった。ところが、実際に天皇になったのは堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目の娘)の産んだ皇子、後の用明天皇(第三十一代)だ。それまでは皇位継承者の母は皇族の一員であることが条件だった。にもかかわらず、このときは豪族の娘を母に持つ皇子が天皇に即位したのだ。まさに前例のないことだった。ここから、押坂彦人大兄皇子の悲劇が始まった。

 押坂彦人大兄皇子は生没年とも不詳だ。舒明天皇(第三十四代)の父で、皇極・斉明天皇(第三十五代・第三十七代)および孝徳天皇(第三十六代)の祖父にあたる人物だ。蘇我氏の血をひかない敏達王統の最有力者で、忍坂部・丸子部などの独立した財政基盤を持ち、王都を離れて水派宮(みまたのみや)に住んでいた。水派宮は大和国広瀬郡城戸郷(現在の奈良県広陵町)にあったと思われる。

 母・広姫が実家の息長氏の経営する忍坂宮(現在の桜井市)に住み、彦人大兄皇子も幼少年期をここで送った関係から同宮に奉仕する服属集団、忍坂部(刑部)を相続したとみられる。この忍坂部や丸子部といった彦人大兄皇子伝来の私領は、息子の田村皇子(のちの舒明天皇)、さらに孫の中大兄皇子(のちの天智天皇)らへ引き継がれ、同系一族の強固な財政基盤を形成した。彦人大兄皇子は用明天皇の崩御(587年)後、皇位継承者として候補に挙がったが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただ、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたことは間違いない。

 皇位継承の最有力者、押坂彦人大兄皇子を退けて、用明天皇が皇位に就いたのは有力氏族・蘇我馬子(大臣)の強力なバックアップがあったからだ。当時の蘇我氏には慣例を無視して、周囲に異を唱えさせない、無理を押し通すだけの権勢があったのだ。そのことが、押坂彦人大兄皇子にとっては不運であり、悲劇だった。というのは、彼は大臣・蘇我馬子、大連・物部守屋の権力争いに巻き込まれ、用明天皇死後、この両者の間で繰り広げられた戦争で、敗れた物部守屋側に引き込まれ、不本意にもその手駒に使われてしまったのだ。そして、この混乱の最中、蘇我馬子の指令で暗殺されたとする説もある。

 『日本書紀』によると、彦人皇子伝来の私領は代々、引き継がれ、大化の改新後に国家に返納されと考えられる。ただ、彦人大兄皇子伝来の私領が、後世の舒明天皇即位から大化の改新の実現を可能にした財政的裏づけとなったことは間違いない。押坂彦人大兄皇子は、天智・天武両天皇の祖父にあたるので、のちに「皇祖大兄」と呼ばれた。

(参考資料)神一行・編「飛鳥時代の謎」、黒岩重吾「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」、笠原英彦「歴代天皇総覧」