平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

 平維盛(たいらのこれもり)は、平重盛の嫡男、つまり清盛の嫡孫だ。彼は美貌の青年公家だった。そんな彼が見初めたのが、権大納言成親(なりちか)の娘。15歳と13歳で結婚した二人は、人もうらやむ似合いのカップルだった。しかし、源平争乱の荒波は、この二人にも情け容赦なく押し寄せてきた…。維盛の生没年は1157(保元2)~1184年(寿永3年)。

 維盛は、無事なら清盛の跡を継ぐはずだった重盛の嫡男として宮廷では順調に昇進。若くして従三位、小松三位中将などと呼ばれた。母は官女とされるが、出自など詳細は不明。一方、妻は権大納言成親の娘。妹は平清経の妻室になっていた。彼女たちの母・京極局は、歌人、藤原俊成の娘。後白河法皇に仕え、院中女房の第一といわれ、したがって姉妹は藤原定家の姪になる。彼女は10歳をすぎたころ、義理の叔母になる建春門院に仕えた。女院から特別に目をかけられ、御座所近くに局を与えられていた。

 二人が結婚した男子15歳、女子13歳は、往古に定められた『大宝令』以来の結婚可能な年齢だ。ほどなく二人の間に続いて子供が生まれた。兄を六代丸(ろくだいまる)と名付けられた。平家隆盛の基礎を築いた兵庫頭・平正盛(ひょうごのかみ・たいらのまさもり)から数えて六代目の嫡孫の意で付けられた。2年後に生まれたのは姫だった。夫婦の中は、二人の幼な児をはさんでいよいよ睦まじかった。

 ところが、夫婦にとって不幸な事件が突発した。治承元年、鹿ケ谷山荘で平家打倒の謀議がなされたとして、二人の状況が一変したのだ。事件の中心的や役割を果たしたとみられたのは、新大納言局の父、藤原成親だ。兄の成経(なりつね)も同じとされた。成親は同年1月の除目(じもく)で、望んでいた左近衛大将(さこんえのたいしょう)の地位を清盛三男の宗盛(維盛の叔父)に奪われた。その不満から西光(さいこう)法師が唱える平家打倒の強硬論に加担したのだ。

 皮肉なことに、成経の妻は清盛異母弟の平教盛(たいらののりもり)の娘だった。さらに、父重盛の妻も成親の妹だった。古代国家体制を維持してきた藤原氏と平家一門の公達は、幾重にも婚姻を結び、完全に貴族化し、一朝事があれば、身内が敵味方となる特異な側面を備えていた。この事件で、維盛の舅、妻の父、成親は備前の配流地で串刺しにされ殺された。清盛が断固とした処置を打ち出した結果だった。

 宮廷での評判とは裏腹に、武将としての維盛の経歴は散々なものだ。鎌倉軍と対峙した「富士川の合戦」には大将軍として出陣したものの、水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げ帰り、そのころはまだ健在だった清盛に大目玉を食らっている。その後、木曽義仲の上洛を阻むために北陸路へ出陣したときも、彼は大将軍だったが、「倶利伽羅峠の合戦」に大敗し、平家滅亡の端緒をつくっている。ただ、彼にも同情の余地はある。富士川の合戦のとき、彼は23歳だった。武将として何の経験もないままに、重盛の嫡男だからというだけの理由で、将軍の座に据えられたのが悲劇だったのだ。この立場は彼には重荷に過ぎたのだ。この2度の合戦に彼は叩きのめされた。

 維盛の、いやこのカップルの悲劇は、平家の総帥・清盛の死から2年後、平家一門が幼い安徳天皇を奉じて西海に逃れたことに始まる。二人の子供、六代丸は10歳、姫は8歳だった。このとき、妻子や、ほかの家族も伴うべしという一門の総指揮・宗盛の命令に従わず、維盛はなぜか、泣きすがる妻と二人の子供を京に残したのだ。維盛は、自分もお前たちを伴って行きたいが、途中で敵勢が待つともいう。そんな厳しい逃れの旅にお前たちを伴って、辛い思いをさせたくないのだ-と自分にも言い聞かせた。彼は、それほどに前途に全く光明を持ち得なかったからだ。そして、たとえ自分の討ち死にを聞いても、尼などになってくれるな。再婚しても幼い子供たちを育ててくれ-と言い残した。

    翌年、平家一門は屋島に戦陣を構えた。ところが、維盛は妻子恋しさのあまり、わずかな郎党を頼りとして、密かにこの屋島の陣から抜け出した。京に潜入して妻子の行方を探すためだった。だが、源氏軍の平家狩りは厳しかった。京への潜入は断念せざるを得なかった。立場上、都で万一捕われて生き恥をさらすことは、絶対避けなければならなかったからだ。彼は妻子に再会できないまま、高野山に逃れ、失意のあまり、1184年(寿永3年)、那智の海に入水して果てた。享年27。しかし維盛は、実際には生き延びていたという様々な伝説が日本各地に残っている。平家落人伝説の一つだ。

 維盛の妻子はその後、妻は『吉記(きっき)』を著した権中納言・藤原経房(つねふさ)に後妻として嫁いだ。六代丸は頼朝の死後、平氏嫡流の根絶やしをはかる幕府の一部勢力により、当時彼は僧籍にあったものの26歳のとき斬首された。六代丸の妹の姫は、母とともに経房の屋敷に住み、18歳のとき経房外孫の藤原実宣(さねのぶ)に嫁している。夫婦として二人が生きたのは王朝時代の末期。維盛と妻の新大納言局の愛は、時代を激しく変貌させた源平争乱の中で泡沫と消えたわけだ。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち」、澤田ふじ子「平維盛と新大納言局 純愛カップルを待ち受けていた運命」、杉本苑子「平家物語を歩く」