伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

 伊勢は、その妻の座に就くことはなかったが、初め藤原仲平そして兄・時平、次いで宇多天皇、さらに宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王と恋人を変えた情熱的な女流歌人だった。時の最高権力者や、その子息たちが、彼女のもとに通った。ということは、伊勢がいかに美しく魅力に富んだ女性だったかという証だろう。これらの恋人の他にも言い寄る男は多かったが、相手にしなかったようだ。

 伊勢は伊勢守・藤原継蔭(つぎかげ)の娘で、この父の官名を呼び名にしていた。父・継蔭は藤原氏北家・真夏の流れで四代の孫にあたる。真夏は、嵯峨天皇の信頼を受け左大臣にまで昇った冬嗣の兄だが、政治的には平城(へいぜい)天皇側についていたので失脚。そのため子孫も権力から遠く、継蔭も文章生(もんじょうのしょう)から身を起こし、三河守、伊勢守、大和守など受領職を歴任した。

    父が伊勢守の任期を勤め上げた直後、伊勢は宇多天皇の中宮・温子(おんし=藤原基経の娘)に仕えた。中宮が父・基経の喪のため里邸に下がっていた折、中宮に付き添っていた伊勢は、そこで中宮の兄・仲平(後に左大臣、当時右衛門佐)と愛し合うようになった。そのころ、仲平との恋を詠んだのが『新古今和歌集』『小倉百人一首』に収められている次の歌だ。

 「難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をよとや」

 歌意は難波の潟に生えているあおの芦の短い節ほどの、わずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。それはあんまりです-という、恋人に対する思慕と怨恨の情を詠んでいる。

    しかし、伊勢の父は身分違いということもあって、娘のこの純情な恋に危惧を感じていた。案じた通り、仲平はまもなく権門の娘と結婚することになって遠ざかった。傷ついた伊勢が、心変わりした仲平に贈った歌が、次の歌だ。

「三輪の山いかに待ち見む年ふとも たづぬる人もあらじと思へば」

 この後、伊勢は仲平の兄・時平(後に左大臣、当時参議)と恋に落ち、さらに宇多天皇の寵愛を受け、行明親王を産んだので、「伊勢の御(ご)」とか「伊勢の御息所(みやすどころ)」と称された。まさに、恋多き女性だった。恐らく美しい女性だったのだろうが、同時に歌の巧みさが美しさを、さらに引き立てていたのだろう。

    伊勢の『古今和歌集』入集歌は女流歌人中トップで、『古今和歌集』以下の勅撰集に184首が収められ、とくに三代集では女流歌人で最も多い。紀貫之と並び称されたが、技巧の中に情熱を秘めた歌風は、和泉式部の先輩格といえるかも知れない。伊勢は美人で、気立ても優しく、華やかな宮廷生活を送ったが、後には不遇な境涯にあったようだ。彼女の晩年は落ちぶれて、遂に住む家まで売るようなところまで追い詰められたらしい。そのとき、柱に書き付けたという歌が『古今和歌集』に収められている。

 「飛鳥川淵にもあらぬわが宿も 瀬に(銭)変わりゆくものにぞありける」

    平安時代の女流文学者のほとんどには、その生涯の公的な記録がない。伊勢の場合も同様だが、彼女の家集「伊勢集」には、自伝的色彩の濃い詞書が多く、そのためある程度の生涯と生活は推定されてきた。伊勢の生没年は875(貞観17)~939年(承平9年)。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」