只野真葛 封建社会の束縛・苦難に、力強く生きた女流文学者

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に遭いながら、力強く生きた女流文学者

 只野真葛(ただのまくず)は、『赤蝦夷風説考』を幕府に上申した工藤平助の娘、あや子の後の名だ。真葛は、天明から文化・文政の江戸時代中期~後期、家の没落や結婚の失敗などの幾多の苦難を乗り越え、自由で鮮やかな個性に輝く著作を残した。封建社会の束縛に取り囲まれながらも、自分を見失うことなく、一人の人間として力強く生きた女流文学者で国学者だった。只野真葛の生没年は1763(宝暦13)~1825年(文政8年)

 江戸の築地で生まれた只野真葛(当時は工藤あや子)の父は工藤平助。江戸ではかなり名の知れた医者だ。養父の工藤丈庵(くどうじょうあん)以来、伊達家に仕えているが、父は藩侯・伊達重村の命令で還俗し、それまでの周庵(しゅうあん)という医者らしい名前を改めて、平助を名乗るようになっていた。母は同じく伊達藩の桑原隆朝の長女、遊(ゆう)。

 あや子の別号は綾女。工藤綾子または、単にあや(綾)、また「工藤真葛」「真葛子」「真葛の媼(おうな)」とも称された。只野は婚家の姓。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には弟2人、妹4人を合わせた7人の長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子供たちを秋の七草の名に因んで呼称していたことに由来し、40歳のころから自ら用いるようになった。

 あや子は父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明評論家や女性思想家と評されるときもある。彼女は読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評を頼んだ経世論『独考(ひとりかんがへ)』、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。

 あや子は幼女の時代から才弾けていて、筆が持てるようになった3歳の頃、すぐ「いろは」が書けるようになったし、『百人一首』も瞬く間に憶えてしまった。父は「あや子はもの憶えがいい」と喜んで、すぐ下の弟とともに、漢籍の素読を授けた。だが、そのうちにあや子に漢文の素読をさせることをやめた。あや子が「どうして?」と訊ねると、父は困ったような微笑を浮かべて「女が四角い文字を憶えると不幸せになるというからな。わしはあや子を不幸せにしたくないのさ」といった。そんな時代だった。

 女はもの知りであってはならない。女は男より賢くなってはいけない。つまり、男女は同等であってはならない。この考え方はあや子の時代から約200年経った第二次大戦まで続いた。18世紀半ばすぎに生きていたあや子は、この封建的規制を不自由なこと、理屈に合わないことと感じた。普通、この時代の女性のほとんどがこの規制の前に、黙って引き下がってしまうところだ。そのことがあや子の個性を裏付けるものといえるかも知れない。

 江戸時代の女性は、様々な社会的制約に取り囲まれていた。あや子=真葛はそれを痛いほど体験しながら、独自の道を開いていった。そして、いつか、封建的な制約を超えた、ユニークな思考を展開させていったのだ。1778年(安永7年)、あや子は伊達藩上屋敷へ奉公に出た。七代藩主・伊達重村夫人、近衛年子に仕えることになった。16歳のときのことだ。1783年(天明3年)、選ばれて重村の息女・詮子(あきこ)の嫁ぎ先、彦根藩の井伊家上屋敷に移ることになった。この井伊直富と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、当時の権力者、田沼意次だったという。

 これに前後して父・平助は1781年(天明元年)、『赤蝦夷風説考』下巻を、そして1783年(天明3年)には同上巻を含めすべて完成させた。ただ、1786年(天明6年)工藤家にとって極めて不運なことが起こった。徳川十代将軍・家治が亡くなり、これをきっかけに平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた開明派の老中首座・田沼意次が失脚。代わって保守派の松平定信が老中首座に就いたことで、平助の出世の見込みは全くなくなったのだ。

 また、あや子自身も1788年(天明8年)、夫の井伊直富が28歳の若さで病死した詮子のもとを辞し、実家(工藤家)へ戻った。そしてこれ以後、あや子はやむなく工藤家の支柱たらざるを得なくなった。そんなあや子に肉親の死、意に沿わぬ結婚の失敗など、様々な可能性が扉を閉ざしていった。しかし、彼女は決して「人間とはなにか、そして生きるとは?」という問いかけを忘れることはなかった。

 真葛は、二度目に嫁いだ伊達藩士・只野行義のもとで、ようやく「書くこと」によって己れの居場所を見い出すことになり、それは夫の死後も変わらなかった。女流文学者・只野真葛の誕生だった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄(くずのはしょう)」、大石慎三郎「田沼意次の時代」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」