正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛
正親町町子(おおぎまちまちこ)は、藤原北家閑院流、羽林家の家格を有する由緒ある公家の娘だが、江戸時代前期、16歳のころ江戸へ下向して、柳沢保明(後の徳川五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保)の側室となった女性だ。才媛として知られた彼女が、夫・柳沢吉保の幕閣としての栄華と精進を細やかに綴った『松蔭日記』は今日に至るまで高い評価を得ている。
正親町町子は、権大納言正親町実豊の庶腹の子、神道家公通の異母妹。初名は弁子。町子の生年は1675年(延宝3年)ごろ、没年は1724年(享保9年)。1691年(元禄4年)、江戸へ下向して柳沢吉保(当時は保明)の側室となった。ただ、正親町家というのは、一大名の側室としては家格が高すぎ、全く釣り合いが取れないため、母方の姓の田中氏を名乗った。
なぜ、このような不釣合いな婚儀が成立したのか。それは、町子の母が御所時代の右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね、宮中時代は常盤井局=ときわいのつぼね)に仕えていた縁による。右衛門佐局は将軍生母とはなれなかったが、将軍綱吉の御台所・信子に請われて綱吉の御手附中臈となった才色兼備の女性で、最終的に大奥総取締の役に就いている。
高貴の家格から迎えた妻の好印象も手伝って、夫・柳沢吉保は将軍綱吉に重用され、幕府大老格・将軍側用人として権勢を振るうまでに大出世した。そして、町子は1694年(元禄7年)、1696年(元禄9年)にそれぞれ吉保の四男・経隆、五男・時睦を産んだ。
公家から、武家へ嫁いだ町子の心境の一端を示す歌がある。
「さかゆべき生(おひ)さき見えて今よりや にひ玉松の陰しげるらん」
朝廷、そして由緒ある公家といえども、「禁中並びに公家諸法度」の統制の下に置かれ、徳川の治世が磐石になったこの時代。公卿の姫たちの最高の出世は、将軍・諸侯の側室となることだった。それが家門の、つまり家計のためだった。彼女たちが帯びた、その悲しい使命を理解せずには味わえない歌だ。
武家側も、ある程度立身すれば、少々、背伸びをしてでも京都から公家の姫君を側室に迎え、家門にハクをつけることに躍起になった面もあったのだ。こうして、双方の利害が一致、今日風に表現すれば政略結婚が成立していったというわけだ。
町子が著した『松蔭日記』は、近世女流文学中の出色のものという評価もある。これは、実直に勤める夫・吉保が栄え、そして仕えた綱吉没後に隠居していくまでを描いたものだ。大地震や火事による焼失のときの人々の動きや再建される様子、病気見舞い、回復祝いに、お祝い返し、新築祝いに、お祝い返しなど、とにかく日々のできごとを客観的に書いている。そして、これが大きな特徴なのだが、文章の至るところに古書(古典・古文)の一文を意識した言葉が散りばめられているのだ。和歌文学者的素養がなければ書けない作品だ。
(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典