間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

 間人皇女(はしひとのひめみこ)は、第三十五代・皇極天皇、そして重祚(ちょうそ)して第三十七代・斉明天皇となった女帝の娘で、母の同母弟、第三十六代・孝徳天皇の皇后でもあった女性だ。付け加えて記せば、彼女は第三十八代・天智天皇の同母妹で、第四十代・天武天皇の同母姉だから、これ以上ない、ピカ一の血筋なのだ。したがって、彼女にとって今日もう少し称賛されるような事績が残っていてもよさそうだが、実は史料として残っているのは、彼女にとってマイナスイメージを抱かせるようなものばかりだ。

 そのマイナスイメージの一つが、同母兄・天智天皇いや、中大兄皇子時代から間人皇女が孝徳天皇の皇后となった後を含めて、中大兄皇子・間人皇女の二人が、タブーとされている同父同母兄妹の密通=近親相姦(「国津罪」)があったとされることだ。当時は、兄妹であっても母親が異なれば、その恋愛、そして結婚についても別にタブーではなく、ザラにみられた。今日風にいえば、極めて近い親戚で、叔父と姪や叔母と甥の間での結婚も普通に行われていた。だが、同父同母となると話は全く別で、当時も当然のことながら厳しく、恋愛・結婚は禁止されていたのだ。間人皇女は、そのタブーを犯したのだ。

 孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は実は血を分けた兄の中大兄皇子だったのだ。このことは飛鳥に住む者には公然の秘密だった。こんなタブーを犯しただけに二人に、そして二人の親族は高価な代償を払わねばならなかった。皇太子・中大兄皇子は孝徳天皇没後、母の皇極上皇をいま一度担ぎ出し、帝位に就け斉明帝としたのは、同父同母の兄妹が男女関係を持つなど、神意に悖(もと)る。そんな中大兄皇子が即位すれば、神の怒りで必ず国に禍事(まがごと=わざわい)が起こる-との世論に屈したからだったのではないか。

    また、建築好きで、太っ腹の女丈夫で百済救援の派兵を断行した、この斉明老女帝も661年、筑紫の行宮(あんぐう)、朝倉宮で疫病に感染し亡くなってしまった。ここでも中大兄皇子はすぐ即位しなかった。いや即位できず、661~668年の7年間も「称制」(即位せず、皇太子のまま政務を執る体制)を取っているのだ。この間、天皇は不在だった。その大きな理由の一つが、妹・間人皇女との間の男女関係を解消できなかったからとの見方がある。

  事実、古代の皇室では同母兄妹と肉体関係を持ったために追放された皇子・皇女がおり、反対勢力が結束して、皇太子・中大兄皇子の即位を阻止した可能性はある。中大兄皇子の後宮には多くの妃が召され、数多くの子も生まれた。しかし、間人皇女との仲は誰よりも長く格別なものだった。そのため、母帝の急逝によって生じた帝位の空白を、いまは悪性の熱病にかかり意識が混濁し、もはや呼吸しているだけの状態にあった間人皇女を、たとえしばらくの間でも中天皇(なかつすめらみこと)として、この国の主(あるじ)の座に座らせたい-と中大兄皇子は考えた。愛しい妹への餞(はなむけ)だった。後世の史家は、恐らく歴代天皇の数に入れないだろうが…。世の指弾をはね返してまで貫き通した禁断の愛ゆえの、最期の悲しい“看取り”だったのかも知れない。

 間人皇女の生年は不詳、没年は665年(天智天皇4年)。既成のワクにとらわれない、よほど奔放な女性だったのか、兄・中大兄皇子にだけ従順な女性だったのか、よく分からない。ただ、兄・天智天皇を虜(とりこ)にしたことだけは間違いない。

 孝徳天皇が653年(白雉4年)、当時皇太子だった中大兄皇子らとともに自分のもとを去った皇后・間人皇女を詠んだ歌がある。

「鉗木(かなぎ)附け吾が飼う駒は曳き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」

    歌意は、木にくくりつけて、逃げないように大切に飼っていた馬が、私の知らない間に、どうして他の人と親しくなって、私のもとから連れ去られてしまったのだろう-の意味だ。病中の自分を難波の廃都(難波長柄豊碕宮)に打ち捨て、母や兄たちと飛鳥京(飛鳥河辺行宮)へ引き揚げてしまった妻・間人皇后を、馬に擬して痛罵したのだ。厩舎の止め木につながれ、飼い主でさえ曳き出せない馬を、気ままに乗り回せる人物こそ、中大兄皇子をさしていることはいうまでもない。

(参考資料)遠山美都雄「中大兄皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代 天皇総覧」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」