阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

    阿仏尼は『十六夜日記』の著者だが、出家した後、30歳ごろ結ばれた藤原定家の嫡男・為家の側室となった。そして、その為家から息子の為相(ためすけ、後の冷泉家の祖)に播磨国の所領を譲り受けた。だが、為家の死後、異腹の長男・為氏(ためうじ)との所領争いが発生。この問題解決に彼女は、はるか鎌倉に赴いて幕府に提訴するしたたかさを見せたのだ。『十六夜日記』は、そんな阿仏尼の鎌倉への旅日記なのだ。阿仏尼は、安嘉門院(あんかもんいん)に仕えて越前(えちぜん)、右衛門佐(うえもんのすけ)、四条などと称した。

 阿仏尼は、若き日に奔放な恋の遍歴を重ね、恋に絶望して出家したらしい。こうした経緯が日記『うたたねの記』に綴られている。その後、藤原定家の嫡男・為家と巡り合い、遂に為家と結ばれ、彼の側室となり、定覚(じょうがく)、為相、為守の3人の子をもうけた。1252年(建長4年)ごろのことだ。二人は嵯峨で同棲した。彼女が30歳のころ、為家はすでに50の半ばを超えていた。

    為家は若い彼女に夢中になり、家に代々伝えられた多くの書物を彼女に譲り渡したばかりか、いったん長男・為氏に譲られた播磨国細川庄(現在の兵庫県三木市細川町)を、彼女の息子の為相に与えるという約束を彼女に与えたのだ。そのため、彼女は御子左家伝来の文書を、自らの本居「持明院の北林」に移すような事件も起こした。

 為家が死ぬと当然、このことが紛争の対象になった。この場合、当然、彼女は弱い立場で、引き下がりがちになるところだ。しかし、彼女はそんなヤワではなかった。いや彼女は強かった。彼女は自分の主張を押し通した。そして、1279年(弘安2年)この細川庄の所領相続問題の解決のために彼女は、はるか鎌倉に行き、幕府に提訴したのだ。ここまで頑強に、さらに攻勢に出てくることは、為氏にとっては、恐らく想定外のことだったのではないか。

 『十六夜日記』は阿仏尼の鎌倉への旅日記だ。この日記は旅行記としては平凡だ。だが、梅原猛氏は阿仏尼は単なる旅行記を書いたのではなく、あくまでも訴訟を有利にするため政治文書として著したとみている。そうした視点でみると、彼女は自己の文学的才能を十二分に発揮し、この細川庄が彼女の子・為相の領地であることを、都および鎌倉の知識人に十分印象付けることに成功したとみられる。

 『十六夜日記』によると、阿仏尼は為家と結婚する前に名も知らぬ男との間に娘をもうけた。この娘は、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の次女・公子、すなわち後深草院の中宮・東二条院(亀山天皇の中宮・藤原位子の説もある)に仕えたが、後深草院(亀山天皇)の手がつき皇女をもうけた。恐らく阿仏尼はこの娘を使って院(天皇)に取り入り、わずか9歳の為相を侍従にし、その弟の為守までも大夫(たいふ)にしたとみられる。

 さらに、阿仏尼のしたたかさをうかがわせることがある。彼女がしきりに機嫌を取っている人物だ。それは、為家の三男の藤原為教(ためのり)の娘で、西園寺実氏の長女・●子(後嵯峨天皇の中宮・大宮院)に仕えた藤原為子と、その弟・京極為兼(ためかね)だ。為教は阿仏尼が鎌倉へ出発する1279年(弘安2年)の5月に亡くなったが、阿仏尼の鎌倉行きはこの為教一家の応援のもとに行われたと思われるのだ。つまり、阿仏尼は鎌倉幕府と親しい西園寺家の力を借りるとともに、為教一家を抱き込んで嫡男の為氏を孤立させようとしたのではないだろうか。

 阿仏尼は判決を待たず1283年(弘安6年)亡くなったが、彼女が打った手は無駄ではなかった。細川庄は為相に譲られ、彼を祖とする冷泉家は、為氏の二条家、為教の京極家が滅びた後も和歌の家として現在も保存されているからだ。母の力は偉大だった。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」