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千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

 千葉周作は江戸時代、先祖伝来の「北辰無想流」を発展させた「北辰一刀流」の創始者で、千葉道場の総師範だ。その道場、玄武館は幕末三大道場の一つとして知られ、この北辰一刀流門下から多数の幕末の著名人を輩出した。千葉周作の姓は平氏。名字は千葉、通称は周作、諱は成政。生没年は1793年(寛政5)~1856年(安政2年)。出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2つの説がある。先祖をたどると、桓武平氏・良文の流れで、坂東八平氏の名門の一つ千葉氏で、千葉常胤にたどりつく。

 周作は7、8歳のころから父について家伝の北辰流を習い、その偉才ぶりを発揮した。15歳のとき、一家は江戸を目指して出郷。水戸道中松戸宿(現在の千葉県松戸市)に落ち着き、父は浦山寿貞(じゅてい)と号して馬医に、周作・定吉兄弟は中西派一刀流の浅利又七郎義信のもとに入門した。やがて非凡の才を認められて、江戸の宗家、中西忠兵衛子正(つぐまさ)に学び、寺田宗有(むねあり)、白井亨(とおる)、高柳又四郎らの指導を受けて、修行3年で免許皆伝を許された。

 1820年(文政3年)、周作は27歳のとき北関東から東海地方への廻国(かいこく)修行を試み、各流各派の長短得失を知り、伝統的な一刀流兵法を改組する必要性を痛感した。そこで、周作は1822年(文政5年)、北辰・一刀流を合わせ、さらに創意を加えて「北辰一刀流」を標榜し、日本橋品川町に道場を開き、玄武館と称した(後に神田於玉ヶ池に移転した)。この玄武館は、初代・斎藤弥九郎が1826年(文政9年)九段下の俎橋付近に開設した練兵館(神道無念流)、桃井春蔵が京橋河岸に開設した士学館(鏡新明智流)とともに、幕末江戸三大道場と呼ばれた。これらの三大道場にはそれぞれ特徴があって、練兵館は「力の斎藤」、士学館は「位の桃井」、そして玄武館は「技の千葉」と称された。

ところで、周作の弟、定吉は京橋桶町に道場を持って、「桶町千葉」と称された。北辰一刀流門下から坂本龍馬、山岡鉄太郎(後の鉄舟)、清河八郎(浪士組幹部)、さらに新選組幹部の藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎らを輩出している。また、練兵館からは桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作ら長州藩士を中心とした面々、士学館からは武市半平太、岡田以蔵らが出ている。

 北辰一刀流は精神論に偏らず、合理的な剣術だったため人気を得た。それまでの剣術は、習得までの段階が8段階で、費用も時間も多くかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は主に竹刀を使用し、段階を3段階と簡素化したことが大きな特徴だ。坂本龍馬は安政年間、この江戸・千葉定吉道場で剣術修行した。1856年(安政3年)8月から1858年(安政5年)9月まで籍を置いた。そして、千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法、一巻」を授かっている。

 1835年(天保3年)、周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。また、弟の定吉は鳥取藩の剣術師範となっている。

(参考資料)司馬遼太郎「北斗の人」、津本陽「千葉周作」、宮地佐一郎「龍馬百話」

藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は平安時代後期の政治家で、藤原北家の嫡流、摂関家という名門再興を志すとともに、貴族政治の立て直しを図った人物だ。ただ、その思いが強すぎて、その施政は呪い・裏切り・陰謀など手段を選ばず“暴走”してしまったきらいがある。そのため、恐怖の左大臣、「悪左府(あくさふ)」と称された。反面、1136年(保延2年)、17歳で内大臣、1149年(久安5年)、30歳で左大臣となった頼長は、いわば“斜陽名家”の貴公子であって、決してカネや人脈だけで出世したわけではない。彼は日本一の大学生といわれたほどの勉強家だったのだ。

 藤原頼長は、父・藤原忠実、母・土佐守藤原盛実の娘の子として生まれた。幼名は菖蒲若(あやわか)。頼長は父忠実に愛され、父の強力な後押しで、兄の関白・忠通をさし措いて、藤原氏長者・内覧として執政の座に就いた。だが、鳥羽法皇の信頼を失って失脚。そこで、頼長は鳥羽法皇により譲位させられていた崇徳上皇に接近、政権奪取を図って後白河天皇、兄・忠通と対立したが、「保元の乱」で敗死した。生没年は1120(保安元)~1156年(保元元年)。

 頼長が執政として返り咲くための、最初で最後の決戦の場が「保元の乱」だった。ここで彼はメンツ、あるいはタテマエにこだわり、勝機をみすみす逃してしまったのだ。『保元物語』によると、頼長は崇徳上皇を擁し、後白河天皇に対して兵を挙げたのだが、源為朝(みなもとのためとも)の夜襲の建議を退けてしまった。そして、後白河天皇、兄・忠通方から逆に夜襲を受け、上皇方を敗戦に導いてしまったのだ。王統の争いに、夜襲などという卑怯な手は使えないとの判断からだった。絶対に勝つ、そのためにはどのような作戦も取る-といった必死な姿勢はなかったのだ。

 「保元の乱」(1156年)の構図を記すと、後白河天皇と崇徳上皇の対立で、関白・藤原忠通(ただみち)と左大臣・頼長の争いがこれにからんでいた。天皇方に馳せ参じた武士は、平清盛や源義朝(頼朝の父)など800。対する上皇方は平忠正や源為義など、500にも満たない。そこで急遽、為義は九州・大宰府にいた息子の為朝を呼び寄せた。忠通と頼長は兄弟、忠正と清盛は叔父甥、為義と義朝は親子だ。

 この戦の大本の原因は、白河法皇が養女の藤原璋子(しょうし)を孫の鳥羽天皇の中宮とした、1118年(元永元年)にまでさかのぼる。このとき璋子は白河法皇の子を身籠っていた。生まれたのが顕仁(あきひと)親王だ。鳥羽天皇にとって名目上は長男にあたるが、実質的には祖父の子だから叔父にあたる。そのため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んで憎悪した。

 しかも、白河法皇は1123年(保安4年)には、21歳の鳥羽天皇を廃し、わずか5歳の顕仁親王を即位させ崇徳天皇とした。このため、鳥羽上皇の憎悪は深まり、1141年(永治元年)に崇徳天皇を廃し、寵姫、美福門院得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を近衛天皇とした。

 近衛天皇が1155年(久寿2年)17歳という若さで崩御すると、崇徳上皇は自分が再び皇位に就くか、わが子の即位を望んだが、鳥羽法皇はその希望を踏みにじり、自分の第四子、雅仁(まさひと)親王を皇位に就けた。後白河天皇だ。そのため、崇徳上皇は後白河天皇を激しく憎んでいた。病床の鳥羽法皇の生死いかんで、即、戦になりかねない状況にあった。

 そして開戦。いったんは敗色濃厚となった天皇方が、頼長が退けた夜襲を決断、これが勝敗を分けた。乱後の処理は陰惨を極めた。首謀者の頼長は、合戦の最中に首を射抜かれ、奈良まで落ち延びて死んだ。兄・忠通と対立し、最後は父・忠実にも見放された、寂しい生涯だった。崇徳上皇は捕えられ、讃岐に幽閉された。上皇方についた武士の大半は斬られた。しかも、清盛には平氏を、義朝には源氏を斬らせるというむごい仕打ちだった。

 ところで、慈円がその著書『愚管抄』で頼長を「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と評したほど、頼長は古今稀な、博学な政治家だったが、人に厳しく、行動にもバランスを欠いていた。頼長が残した日記『台記(たいき)』は、異色の日記だ。この『台記』には本来、絶対に秘すべきことが堂々と、あるいは露骨に語られている。彼の召使の国貞(くにさだ)を殺した下部(しもべ)が殺されたことが記され、その注で実は私が家来に命じて殺したのだ-と告白しているのだ。関白・忠実の最愛の次男の左大臣の仕業なら、罰せられるようなことはない-とタカをくくっていたのか。

また、この日記には同性愛、男色の記述が多い。それは当時の貴族として、とりわけ不倫なことではなかったのだが、鳥羽上皇、後白河天皇、頼長の父、忠実、兄・忠通、忠雅と頼長とが男色愛好者だったという。それだけに、当時の人間関係を考えるには、この男色関係を的確に把握する必要があろう。

 こうした異常な性癖の一方で、頼長は度外れた勉強家で、牛車の中にすら『太平御覧(たいへいぎょらん)』など厖大な巻数の書籍を持ち込み、禁中への行き帰りに、揺れる車内で読書三昧に耽ったといわれる。旅にまで本を離さず、抜き書きや校合に夜を徹することもしばしばあったという。1136年(保延2年)、17歳で内大臣に任ぜられて以来、筆を起こし1155年(久寿2年)までかけ、既述した、12巻にわたる『台記』を著している。これは禁中の諸儀式、故実、摂関家の一員である頼長自身の、公私にわたる進退や動静を詳述した漢文体の日記だ。今日なお、これが根本史料の一つとして、平安朝史の研究に役立っている。

 そんな頼長だけに、蔵書は夥しい数になったため1145年(久安元年)、自ら設計して立派な書庫をつくった。彼の威勢、財力からみれば、別に驚くことでもなかったろうが、防火対策はもちろん防湿・通風にも配慮された設備が施されていたという。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、梅原 猛「百人一語」、杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣

藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣

 藤原時平は、史上初めて摂政・関白、太政大臣を務めた巨人、藤原基経の長男だ。若くして栄達したが、21歳のとき父が亡くなったため、政治の実権は彼の血脈を離れ、計らずも天皇による親政が復活した。宇多天皇は彼の父・基経に何らの抵抗もできなかったが、そのため不満が内攻、天皇の政治上の権限強化に燃えていた。そこで宇多天皇は、皇親の源氏や学者の菅原道真を積極的に起用した。藤原氏、とくに時平に対する対抗策だった。

 宇多天皇の後を受けて醍醐天皇が即位すると、時平は道真とともに左右大臣に並んだ。だが、時平は次第に道真と対立し、先代の宇多天皇時代に重用され強力な後ろ楯ともなっていた、その宇多がいなくなった道真の排除に動く。そして901年、遂に道真を讒言して大宰府に左遷させることに成功した。

 この讒言による道真左遷で後世、彼は決定的な“悪役”イメージでみられることになった。だが、果たして彼はそれほど腹黒い悪人だったのか。政治上の藤原氏の権勢を抑えるために、宇多天皇が意識的に道真を、異例のスピード出世、そして破格の高官へ登用したことで、高級貴族の間で道真に対する反感が強まっていたことも讒言を後押ししたのではないか。時平自身、その後、国政改革に意欲を燃やしたが、摂政や関白になることもなく、その意味であまりいい目をみないまま、わずか39歳の若さで亡くなっているのだから。

藤原時平の生没年は871(貞観13)~909年(延暦9年)。母は操子女王。子に保忠、顕忠など。弟に仲平、忠平などがいる。

 藤原時平は当時、東西随一の秀才と呼ばれた。それと父・基経の威光も加わって異例の出世を果たしている。21歳で参議になり、23歳で中納言、27歳で大納言、氏長者、29歳で左大臣となっている。もっとも、父は彼が21歳のとき亡くなっているから、彼自身の優れた才能、実力が評価された面も当然あったのだろう。

 一方、菅原道真の出世の早さは異常だ。蔵人頭となって政界にデビューし、その翌々年、参議にまで出世しているのだ。宇多天皇のバランスを欠いた“えこひいき”の産物だった。ただ年齢をみると、時平との比較上、対立を意識させるものではない。なぜなら道真は49歳で参議になり、51歳で中納言、55歳で右大臣になっているのだ。

 ところで、57歳の道真が突然、大宰府に左遷されてしまうことになった罪状だが、要約すると「急に大臣まで取り立てられたにもかかわらず、分をわきまえず、さらに高い地位を望んでいる。しかも専制的な権力を欲しがり、醍醐天皇に代わる天皇を立てようと企んでいた」というものだった。醍醐天皇とは宇多天皇の第一皇子の敦仁(あつきみ)親王のことで、宇多天皇が時平に追い出されて「逃位(とうい)」したのに伴い、897年、若干13歳で皇位に就いたのだ。罪状にある醍醐天皇に代わる天皇とは、橘広相(たちばなのひろみ)の娘を母とする第三皇子の斎世(ときよ)親王のことを指している。皇太子選びの中で候補に上がっていたことからみても、道真からみて次に天皇にしたい人物だったろう。

 では、実際にそのような企てを道真はしていたのか。大方の歴史家たちの見方は冤罪説をとっている。しかし、『扶桑略記』が引用している「寛平御記」では、醍醐天皇が、大宰府に左遷されて幽閉同然の道真の様子を、側近の藤原清貫(きよつな)に見てこさせたときのことが書かれている。清貫は「道真自身が左遷された理由について、承服しているようだ」としており、さらに道真自身が「自分で企てたことではないが、源善(みなもとのよし)の誘いを断りきれなかった」と語ったというのだ。

 果たして事実無根の冤罪だったのかどうかは謎のままだが、少なくともそれらしい行動があったことは否定できないのではないか。打倒、藤原氏を掲げて、宇多天皇とともに画策しようとしたことは多くの状況証拠が語っているからだ。

 901年、道真を失脚させた直後、時平は妹の穏子(おんし)を醍醐天皇の女御として入内させた。彼女は902年(延喜2年)、醍醐天皇の第二皇子を産んだ。保明(やすあきら)親王と名付けられた、この皇子は翌年早くも皇太子に立てられた。若い時平も摂関家的な土壌を踏襲し、天皇家の次代に対して外舅という関係をつくろうとしていたわけだ。

 ところが、全く想定外のことが起こった。時平自身が39歳の若さで亡くなり、保明親王も夭折して、不幸にも名門・時平の血脈は絶え、政治の実権は弟・忠平の子孫に移った。時平の早すぎる死は6年前、彼が死に追いやり、怨霊となった道真の祟りと噂された。さらに道真の死後20年経った923年、皇太子の保明親王が亡くなったのも、道真の怨念を感じた人が多かった。

 時平が亡くなった翌日、正一位、太政大臣が贈られた。 

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、歴史の謎研究会 編「日本史に消えた怪人」、久松潜一「全釈 小倉百人一首」

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

 中根正盛は徳川三代将軍家光の時代、幕府要人の言動や諸大名の動静を報告する、幕府のいわば“CIA長官”だった。こうした役目は通常、表には顔を見せない隠密が担当するものだが、中根はそんな裏稼業を担っていたわけではない。彼は5000石取りの高官であり、二の日の評定所会議にも出席し、老中、諸奉行の発言を克明に脳中にメモってくる資格を持っていた。また、彼の配下の22人の与力は常時、諸国に派遣され、大名の動きを探っていた。

 探索の際、中根は幕府のため、各国(藩)の密事を嗅ぎ出せ。腐臭、腐肉のみに眼を向けよ。また嗅ぎ出した腐臭、腐肉はありのまま報告せよ。自分の判断や評価はしてはならない-と与力たちに指示した。まさに、幕府の諜報機関そのものであり、与力は22人の諜報員だった。

 そんな徳川版CIAが扱った事件・事案として記録が残っているのが、「松平定政事件」の処分に端を発した、浪人救済を意図した1651年(慶安4年)の「慶安事件」(油比正雪の乱)だ。

 松平定政は、徳川家康の異父同母弟の子で家康の甥にあたる。家光の小姓をしていたが、家光も好感を持っていた。1651年(慶安4年)春、家光が亡くなった。後継の四代将軍家綱はまだ少年だ。将軍交代を待っていたかのように、くすぶっていた浪人の生活困窮問題が突然火を噴いた。関ヶ原の戦い以来、大坂冬・夏の陣で取り潰しになった大名家が数多くあり、それに伴い多数の武士が失業に追い込まれたからだ。

 松平定政は7月突然、幕府に対し自分が受けている2万石は全部返上するから、これで失業浪人を救ってくれ-と言い出して大名職を辞し、雲水に身を変えた。それだけでなく、江戸市中を歩き回り、浪人救済のために、ご喜捨を-などと物乞いを始めたのだ。世間は驚倒した。仮にも、前将軍の叔父にもあたるような定政が、大名を捨てて乞食坊主になるなど、本人の意思や思惑はともかく、幕府に対する最大の嫌がらせと受け止められた。

 早速、幕閣は定政を狂気の者とし、兄の松平隠岐守に預け、所領を没収した。しかし、これで事が収まったわけではなかった。この中根正盛も定政の真意が浪人救済にあるのではなく、むしろ幕政批判にあるとみていたからだ。家光死後の閣僚、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱らの政策が、定政はことごとく気に入らないのだ。とくに松平信綱が気に入らない。大名職と封土の返上は、いまの幕政に一石を投じたつもりだろう。したがって、定政が取った行動の根は深く、罪も重い-と中根は判断した。

 松平定政の処分が発表された後、油比正雪に関する密告が、松平信綱や町奉行の石谷(いしがや)貞清のところにあったとの情報が中根のもとに入ってきた。密告者の多くは中根や松平信綱が前々から神田連雀(れんじゃく)町の裏店(うらだな)にある油比正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者ばかりだ。“やらせ訴人”だ。

 中根は配下の与力(=諜報員)を、かなり前から駿河(現在の静岡県)、河内(同大阪府)、大和(同奈良県)、紀伊(同和歌山県)、京都などへ派遣していた。油比正雪の素性、学問歴、そして正雪が唱える楠木流の軍学などを調べさせていた。

 これは、松平信綱と正盛に、油比正雪一派の鎮圧とともに、先の松平定政よりももっと大きな幕政批判者、紀伊頼宣(紀州藩藩祖・徳川家康の十男)を、この際、一挙に叩き潰そうという謀計があったからだ。頼宣は豪放かつ英明な器量人で、武功派の盟主だった。彼は幕政が次第に、合戦を知らない若い吏僚の手で運営されることに反発し、浪人をすすんで抱えた。

そのため、外様大名や浪人、庶民から非常に好感されていた。それだけに、幕閣の文治派閣僚はそんな頼宣に警戒していた。とくに松平信綱は、厳しい眼差しで紀州をにらんでいた。中根が配下の与力を紀州に派遣したのも頼宣と由比正雪との関係を何としても立証しようというためだった。たとえ火のない煙でも、探り出せ-と厳命した。頼宣、正雪の両者に少しでも関係があれば、強引に処罰、断罪しようという姿勢だった。

 しかし、紀州の探索方3人からは、信綱、中根が期待した答えは返って来なかった。頼宣、正雪の両者に関わりは全くない-というものだった。これでは、頼宣の弾劾はとてもおぼつかない。だが、信綱、中根とも、それで諦めたわけではなかった。

 由比正雪の死体が駿府の河原で磔(はりつけ)にされ、丸橋忠弥らが品川で

処刑されて、この騒乱は一応終わった。が、その直後、頼宣は江戸城に召喚された。そこでは頼宣の言葉が引用された、由比正雪の遺書が用意されていた。頼宣が正雪を示唆、煽動したと解されてもやむを得ない文面がつづられていた。そのため頼宣も、もう覚えがないでは切り抜けられなかった。完全な頼宣の敗北だった。あぶら汗の出るような屈辱の怒りを、こらえるほかなかった。

 頼宣は四代将軍家綱あてに、全く二心なきことを認めた誓紙を書かされたうえ、この日から1659年(万治2年)まで10年間、国許の紀伊国(和歌山県)へ帰ることは許されず、江戸城内で暮らした。松平信綱、中根正盛の勝利だった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「慶安事件 挫折した幕府転覆計画」、童門冬二「男の器量」、安部龍太郎「血の日本史」

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

 水野忠邦は、1841年(天保12年)から断行された「天保の改革」を推進した老中首座として知られている。水野忠邦の狙いは、諸事、徳川家康が定めた御法の通り、家康の時代に戻すことだった。財政を復興させ、幕府という一党独裁体制の維持を目指す。そのため、倹約令、奢侈禁止令などが発せられた。そして、その実践者として起用された甲斐守・鳥居耀蔵が目を光らせ、その過酷な検察ぶりに憎悪と戦慄を覚えさせるほどの“恐怖政治”をここに出現させることになり、挙げ句、改革は大失敗した。

 水野忠邦は唐津藩第十代藩主・水野忠光の次男として江戸同藩上屋敷で生まれた。幼名は於莵五郎、諱は忠邦。別号は松軒、菊園。母は側室・恂(じゅん)。長男が早世したため跡継ぎとなり、19歳の若さで唐津藩第十一代藩主となった。忠邦の生没年は1794(寛政6)~1851年(嘉永4年)。

 唐津藩は代々、幕府の長崎警備という役目を担っている。そのため、藩主は中央での昇進は望めないという慣例があった。ところが、忠邦は中央=幕政での昇進願望が極めて強い人物だった。自分の思いを遂げるためには国替えしかなかった。

そこで、忠邦は半ば自ら希望する形で唐津藩から、実収の少ない、財政的にはデメリットの多い浜松藩へあえて移った。浜松藩主は、幕閣での出世コースといわれていたからだ。1817年(文化14年)、忠邦24歳のときのことだ。その後、1828年(文政11年)、35歳のとき西丸・老中となり、幕閣の中枢の一員に列せられた。1834年(天保5年)、本丸・老中、そして1839年(天保10年)には思惑通り老中首座に昇り詰めた。

 江戸文化の花を咲かせた文化・文政時代は、一方で十一代将軍・徳川家斉による浪費のため、幕府の財政は窮迫の一途をたどっていた。そして迎えた天保時代、人々は上下とも贅沢に慣れ、反面、地方では飢饉に続く一揆・打ちこわしが頻発していた。近海に外国船が姿を現し、日本国内の様子をうかがい始めていた。十二代将軍家慶の時代になっていた。

 「天保の改革」に乗り出した老中・水野忠邦が最初に出したのが倹約令だった。町人に対し、木綿以上の着物は一切、着てはならない-とのお触れを出した。そして、髪結い、風呂屋から櫛(くし)、笄(こうがい)の類に至るまで細かく全部制限した。実際に女髪結いというものまでを禁止してしまったので、自分の家では誰も髪が結えないので、町家の女房たちの髪形がすっかり変わってしまったという。

 また、天保のころは町家で一般の人々は絹の着物か紬を着ていたので、それが禁止され、もう着る人がほとんどいなかった木綿の着物を着ろという命令に大変困った。木綿の着物なんて一枚も持っていない人が多かった。大坂や京都の町家の人たちは、生活に余裕があって、絹の着物を着ているのではなく、世間一般の風俗でそれを着ているので、木綿の新しい着物を買い求める余裕がない。

 芝居も禁止された。歌舞伎の市川団十郎が江戸から追放された。女歌舞伎も禁止された。茶屋なども禁止され、花街もほとんど火が消えたような状態になっていった。禁止令のおかげで失業者が続出し、首くくりや捨て子が頻発した。

 こうした民衆の風俗の締め付けの一方で、水野は幕府の財政改革にも乗り出そうとした。例えば二宮尊徳を重用した利根川の治水、印旛沼の干拓、さらには大坂の十里四方、江戸の十里四方をすべて直轄地にしようとする案だ。彼は大英断をもってこの政策を打ち出した。だが、大坂、江戸の直轄地化は取り上げられる連中の総反撃を食ってしまう。利根川、印旛沼の治水・干拓も依頼された二宮尊徳が、付近の農民があれほど搾取されて弱っていたのではとても大工事はできないと判断。そこで、尊徳はまず治水事業に先立ち、この付近の農民をいかに立ち直らせるかという計画を立て、実際の治水事業は、農民が立ち直る30年ぐらい後になってから開始すべきだと提言した。

 しかし、幕府としては30年は待ってはいられない。それなら、もう結構だと断った。そして、尊徳に代わって登用したのが鳥居耀蔵だった。これが、最悪の選択だった。この人選に象徴されるように、水野忠邦の周りには、科学に明るい開明派の学者や役人がほとんどいない、旧式の人物ばかりだった。開明派の学者、役人らは、幕府中枢から遠ざけられていた。これが、水野にとって最大の不幸、不運だった。結論をいえばこのことが「天保の改革」失敗の最大の要因だった。

 周知の通り、鳥居は林大学頭の子で、学問にコンプレックスを持っている水野には付け入りやすい。鳥居は頑固で信念はあるが、科学的な才能はない。まして治水をやれるような人物ではない。鳥居は、房総半島と相模の地図を作る競争でも、高野長英門下の内田弥太郎と競うが、誰が見ても勝敗は明らか。それで、始末の悪いことに、鳥居は蘭学者を逆恨みし、でっち上げて「蛮社の獄」(1839年)を起こすのだ。水野は鳥居に振り回されてしまった。結局、鳥居は借金を重ねるだけで、大失敗してしまう。

 ただ、奇妙なことに、当然、水野は1843年(天保14年)、いったん老中御役御免となるのだが、幕閣に人材がいなかったのか、首座の引き受け手がなかったのか、彼は1844年(弘化元年)老中に再任され、さらに老中首座に返り咲く。しかし、翌1845年(弘化2年)老中を辞職、隠居、蟄居に追い込まれた。失政の責任を取らされた形だ。

 水野忠邦の政策の着眼点が悪いわけではなかった。彼の周囲に優れた顧問や、いいブレーンがいなかったことが致命的だった。このことが、彼を後世、不名誉な改革失敗者あるいは悪役として仕立て上げることになった大きな要因だ。 

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ 水野忠邦の悲劇」、松本清張・岡本良一「日本史探訪/幕藩体制の軌跡 水野忠邦」、吉村 昭「長英逃亡」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

 

 

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

 酒井忠次(さかいただつぐ)は、徳川家で「徳川四天王」といわれた「酒井、榊原、井伊、本多」の一人だ。そして、忠次はその四天王の筆頭に位置づけられていた。だが、彼の忠誠心や誠実心は、他の補佐役を務めた武将たちとは少し異なっていた。そのため、彼の取った行動は問題になり、悲劇を生むもとになった。忠次の生没年は1527(大永7)~1596年(慶長元年)。

 忠次の対応が物議をかもした端的な例を挙げると、豊臣秀吉と徳川家康が対決した「小牧・長久手の戦い」の後、天下を取った秀吉が行った論功行賞というか、徳川家主従に対する気配りへの対応だ。秀吉は、家康はもちろん忠次ほか何人かの勇将にいろいろな贈り物をした。忠次には京都に大きな屋敷を与え、「その屋敷の維持管理費に、近江の国で1000石やろう」といった。さらに、従四位下に叙され、左衛門尉という官位も与えた。

 ところが、他の武将は違った。彼らの中にはいきなりその場で秀吉に「私は徳川家康の部下です。あなたからこんなにいろいろなものをいただくわけにはまいりません」と断った者もいた。あるいは、「主人と相談してまいります」といって、一度秀吉の前から退り、家康にこのことを報告したうえで、改めて秀吉のところに行き、「主人と相談致しましたが、とてもお受けすることはできません。ご好意は、ありがたいと思います」と辞退する者もいた。

 あっけらかんと、くれるものは全部もらってしまったのはこの忠次だけだ。こういう補佐役を見ていて、家康がどんな感じをもったか、想像に難くない。だが、忠次にしてみれば「秀吉様がくださるというものを、もし辞退すれば機嫌が悪くなる。秀吉様の機嫌を悪くするということは、そのまま主人の家康様に対する感じ・印象を悪くするということだ。だから自分は別に欲しいとは思わないが、自分が我慢してもらうことが、家康様への忠義につながるのだ」と考えていたのだ。

忠次の忠誠心や誠実心はあまりにも単純で、トップ=徳川家康の人間研究が甘かったといわざるを得ない。忠次は生涯、ただひたむきに、ひたすら家康に忠誠を尽くし、誠実さを吐露することによって終わってしまった。

 家康は複雑な人間だ。彼は、それほど部下を信じなかった。子供のときから人質になった彼は、ある意味で強い人間不信に固まっていたといっていい。忠次は、人質生活を一緒に送っているにもかかわらず、トップのそうした心理面の研究が足りなかったのだ。

 忠次は徳川氏の前身、松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河国額田郡井田城(現在の岡崎市井田町)で生まれた。幼名は小平次、小五郎。元服後は徳川家康の父、松平広忠に仕え、酒井小五郎、のち左衛門尉と称した。家康(当時は竹千代)が、今川義元への人質として駿府へ赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、その今川義元が織田信長に殺されると、家康は岡崎城に帰った。このころから忠次は家康の補佐役として活躍し始める。1564年(永禄7年)、吉田城攻め、1570年(元亀元年)姉川の戦い、1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦い、1575年(元正3年)長篠の戦いなど、彼は家康の合戦には常に先頭に立った。戦場に出たことは数知れない。そして奮戦した。とくに長篠の戦では別働隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦を陥落させ、勝頼の叔父、河窪信実らを討ち取る大功を挙げた。

 こうした功績を挙げた一方で、忠次は取り返しのつかない大きな罪を犯した。忠次は自分の身に降り掛かる火の粉をきれいに払い落とせず、というより、相手の意のままに振り回され、結果として家康の息子、信康と、正室・築山殿を死に追い込んでしまったのだ。

 このあらましは次のようなことだ。桶狭間の戦いに劇的な勝利を収めた織田信長が、その後、勢力を拡大するために家康と同盟した。そのために、信長の娘と家康の息子(信康)との政略結婚が行われた。ところが、信長の娘は一面スパイの性格を持っていたので、信康と築山殿について、「二人は密かに武田に通じて徳川家と織田家を滅ぼそうとしている」などと、父(信長)にいろいろと悪い報告をした。

 この真相については諸説あり、詳らかではない。しかし、いずれにせよ、信長はこれを黙殺しなかった。信長は忠次に対し「申し開きをしに来い」と命じた。だが、実をいえばこれはおかしい。忠次の主人は家康で信長ではない。その家康の配下に対して、信長が直接名指しで、申し開きに来いというのは、越権行為だ。本当なら、忠次は断るべきだった。

 ところが、忠次は信長に命じられた通り、すぐ信長の城に行った。行ってから彼は後悔した。忠次に対する信長の尋問は厳しかった、忠次は驚いた。そして動転した。結局このとき忠次は完全に申し開きできなかったということで、信康は切腹させられ、築山殿も殺された。このことは徳川家に大きな傷跡を残した。忠次を見る周囲の目は険しくなった。“裏切り者”というような眼差しを、しきりに投げつけられることになった。

 忠次は1588年(天正16年)、長男・家次に家督を譲り、隠居した。家康は1590年(天正18年)、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行を与えた。四天王のうち三人は、すべて10万石以上与えたが、忠次の息子だけはわずか3万石しか与えられなかった。家康は息子と正室を殺されて以後、その遠因をつくった忠次を許せなかったのだ。家康にとって、忠次は悪役そのものだった。 

(参考資料)童門冬二「男の器量」

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

 河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後熊本藩士で、幕末の英才・佐久間象山を殺害したことで知られる、維新史の刺客の中でも屈指の人物だった。幕末・維新の時代に“人斬り”という異名を冠して呼ばれた人物には、概して無学の者が多かった。しかし、河上彦斎は一通りの学問はあった。上手ではないが、漢文を書き、和歌も詠んでいる。したがって、彼の場合、誰かの示唆や指示のもとにターゲットとする人物を殺害した単なる“殺し屋”というより、理論の裏打ちがあるように思える。また、名利の念は全くないのが特徴だ。彦斎の生没年は1834(天保5)~1872年(明治4年)。

 彦斎は、肥後熊本藩士小森貞助、母わかの子として熊本城下神馬借町に生まれた。幼いとき同藩の河上源兵衛の養子となった。諱は玄明(はるあきら)。通称は彦次郎、のち彦斎。16歳のとき、細川家の花畑邸のお掃除坊主となり、後に江戸に勤番して家老付きの坊主となった。彦斎と名乗るのはこのためだ。

 彼は儒学を轟木武兵衛(とどろきぶへい)に学び、兵学を吉田松陰の親友、宮部鼎蔵に学び、国学を林桜園について学んだ。桜園は熊本の学者だ。桜園の原道館の同門に、後に「神風蓮の乱」(1876年)を起こした太田黒伴雄や加屋栄太らがいて親交があった。儒学にも通じていたが、兵学者でもあった。国学についてはとくに精通しており、国粋主義者で、敬神の念が厚かった。

 こんな彦斎が、ペリー来航以来の時勢に心を揺さぶられ、尊王攘夷の思想を持つようになったのは、最も自然なことだった。彼は、いわゆる“肥後もっこす”的性格だったから、その思想は牢固たる信念になって、終生決して動かないのだ。このことが、後の彼の運命を決めることになるのだが…。

 文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。このとき随従員として彦斎とともに上京したメンバーに肥後勤王党の轟武兵衛(儒学者)、宮部鼎蔵らがいた。彦斎はそれまでの国老付坊主という職を免ぜられて蓄髪を許された。その後、彦斎は滞京して、熊本藩選抜の親兵になった。

 文久3年、30歳のとき、彦斎は熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。環境が異なれば、この後、宮部鼎蔵らに近い生き方をしてもおかしくなかったのだ。ところが、彼はこの後、密かに“人斬り”としてその惨劇を演じることになる。

 元治元年(1864年)7月11日、愛馬に跨った松代藩士・佐久間象山が従者2人、馬丁2人を従えて京都・三条通木屋町を通りかかったとき、通行人に紛れていた刺客2名が飛び出し、馬上の象山に斬りかかった。しかし、この一刀は象山が馬上にあったため、傷は浅かった。ただ、この後、象山には不運な偶然が重なった。この急襲を受けて象山は馬腹を蹴って、この場を逃れようとした。

ところが、馬丁の1人が刺客に気付かず、馬が狂奔したのだとみて、大手を広げて前に立ちふさがったのだ。このために馬が棒立ちになったところを、追いすがる刺客の1人が、躍り上がって斬りつけてきた。たまらず象山は鞍上から、もんどり打って地に落ちた。さらに刺客は隙を与えず、一、二刀あびせると、混乱する場に紛れ、姿を消した。白昼の凶行だった。

この刺客こそ、彦斎だった。手馴れたものだった。ただ急襲されたにせよ、馬丁が事の成り行きをつぶさに見ていたなら、象山は最初のひと太刀だけで、浅い傷を負っただけで逃れていただろう。しかし、こうして不幸にも幕末、一貫して開国論を唱え続け、吉田松陰らに影響を与えた天才、佐久間象山は暗殺されてしまった。

彦斎はこの後、藩の仲間と別れ長州軍に身を投じる。象山暗殺後の8日後の7月19日、「八月十八日の政変」(1863年)で京都を追放された長州藩が、巻き返しを企図して起こした「禁門の変」(1864年)で、彦斎は長州家老の国司信濃隊に入って戦っている。しかし、圧倒的兵力差の前に敗れ去った長州軍はバラバラに撤退。彦斎も国司信濃と別れ、しばらく鳥取藩邸に身を隠している。

第二次征長戦(四境戦争)では、彦斎は芸州口、石州口を守り戦っている。が、幕府軍で肥後熊本藩が、小倉で長州軍と対峙したと聞き、怒り、悲しみ、思い悩んだ。そして、桂小五郎や高杉晋作らが猛反対する中、長州軍を抜け、一人熊本へ帰っていった。時勢に気付いていない藩首脳たちを説得するためだった。

 慶応2年(1866年)2月、彦斎は熊本へ帰ったところを脱藩罪で捕らえられ、投獄された。説得どころか、佐幕派の藩首脳には全く聞き入れられなかった。しかし、彦斎が投獄されていた一年の間に大政奉還、戊辰戦争があり、幕府側は朝敵となった。そのため明治2年(1869年)2月には投獄されていた勤王派志士たちとともに釈放され、藩の役員に取り立てられた。彦斎は外交係に任命され、まもなく名を高田(こうだ)源兵衛と改め、肥後熊本藩の藩命を受けて東北地方へ遊説に出かけている。こうして、名うての人斬りも時代に迎合して…といいたいところだが、彦斎の場合、筋金入りの攘夷家で、維新後の明治政府の開化政策にも順応することができなかった。そして、遂に政府転覆を企てたかどで、明治4年(1871年)12月4日、38歳で断首された。

 彦斎の容姿は身長5尺前後(150cm程度)と小柄で色白だったため、一見女性のようだったという。剣は、伯香流居合を修行したという説もあるが、我流で片手抜刀の達人だったと伝えられている。また、“人斬り”の異名を持ちながら、彦斎が斬ったとはっきり分かっているのは佐久間象山だけで、あとは定かではない。 

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち 河上彦斎」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、奈良本辰也・綱淵謙錠「日本史探訪⑲開国か攘夷か 和魂洋才、開国論の兵学者 佐久間象山」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」

 

 

 

 

 

 

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化
 井上馨(いのうえかおる)は、薩長藩閥の恩恵もあって明治維新政府の大官になったが、明治初頭の尾去沢銅山事件、藤田組の贋札事件など、彼にかかっている疑惑の雲は容易に拭い去ることができないものだ。それだけに、彼がやらかした公私混同も甚だしい、その行為は“貪官汚吏(たんかんおり)”の権化とされた。井上馨の生没年は1836(天保6)~1915年(大正4年)。
 井上馨は萩藩の郷士、100石取りの井上五郎三郎光享(みつゆき)の次男として生まれ、後に250石取りの志道慎平(しじしんぺい)の養子になった。幼名は勇吉、通称を1860年(万延元年)、長州藩主・毛利敬親から賜った名前、聞多(もんた)で呼ばれた。諱は惟精(これきよ)。
 井上馨が三井財閥や長州系の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたダーティーなイメージの強い人物であることは間違いない。一時は実業界にあっただけに、三井財閥においては最高顧問になるなど密接に関係しているだけに、否定のしようがないわけだ。こうしたあり方を快く思わなかった西郷隆盛からは、井上は政府高官ながら“三井の大番頭”ともいわれたほどだ。
 井上は明治維新後、官界に入り、主に財政に力を入れた。だが、1873年(明治6年)、司法卿・江藤新平に予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。その悪質さは目に余るものだったのだ。司馬遼太郎氏によると、明治の汚職事件は常に井上馨が中心だった。彼は公の持ち物と自分の持ち物が分からない、天性汚職の人だった-と司馬氏が記しているほど。
ところが、懲りないというか、明治の元勲たちにもあった“互助”意識とでも表現すべきものが存在したわけだ。井上は一時は三井組を背景に、先収会社を設立するなどして実業界に身を置いたが、伊藤博文の強い要請のもと復帰。様々な要職を歴任、鹿鳴館を建設、不平等条約の改正交渉にもあたっているが、汚職・不正疑惑の噂が常につきまとう、“貪官汚吏”の権化とされる人物だった。
 こんな井上だが、初めから悪人、いや悪役だったわけではない。彼は幕末期の長州藩の若い志士たちの間で支配的だった尊皇攘夷派に属し、1862年(文久2年)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らとともに、品川御殿山のイギリス公使館の焼き討ち事件にも参加している。
1863年(文久3年)、井上は伊藤博文、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助らとロンドンに密航するため、英国船の石炭庫に隠れて横浜を出港した。イギリスでの留学中、攘夷騒ぎ、外国船砲撃のことを英国新聞で知って、井上と伊藤は半年で帰国したが、それでも英語力はかなりついていたらしい。この1年半後、坂本龍馬や中岡慎太郎が仲介、奔走して成立した「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で「亀山社中」が購入窓口となった武器買い付けの際、井上と伊藤らは亀山社中のメンバーとともに長崎の武器商人、トーマス・グラバーを訪ね、ゲベール銃の購入契約を結んでいるのだ。
 この武器購入には、二つの歴史的意義があった。一つは「蛤御門の変」以来、犬猿の仲となっていた両藩が歩み寄り、幕府への強力な対抗勢力となったからだ。いま一つは、この新式武装によって長州軍は面目一新し、幕府の征討軍を武力打倒できる軍備を備えることになったからだ。
 幕末期の井上には、少なくとも“悪役”イメージはない。また、維新後の太政官制時代に外務卿、参議となり、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣で内務大臣、第三次伊藤内閣で大蔵大臣など数々の要職を歴任している。
では、どうして彼のダーティーな、疑惑の雲が生まれたのか。当時の長州藩の情勢が、その気風を養成した点も大いにあった。長州藩主・毛利慶親(よしちか)も、世子の元徳(もとのり)も賢いという人物ではなく、普通の殿様だった。家老にもまた、たいした人物はいなかった。馬関戦争の後始末ができず、当時座敷牢に入れられていた高杉晋作を、大急ぎで引っ張り出して事にあたらせたことをみても、それは明らかだ。こんな藩のありさまでは気力、気概にあふれた若い連中の活発な動きなど統制できるはずはなかった。統制どころか、その連中に鼻面を取って引きずり回されるありさまだった。
 この時代の長州の若い志士たちは、何とか名目をつけては藩から金を引き出しては、品川の遊郭・土蔵相模その他で遊興しているが、それはこの表れの一つだ。こんなとき藩の重役たちに談じ込んで金を引き出す役目にあたったのが井上だったのだ。維新政府ができたとき、井上が大蔵大輔に任命されて、維新政府の財政の局にあたったのは、幕末、長州藩内におけるこの因縁に違いない。維新草創期の大らかさともいえるが、近代日本・再生のスタートの時期だっただけに、「適材適所の人員配置」という物差しでみると、時代遅れで見当違いも甚だしい。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「この国のかたち 六」、童門冬二「伊藤博文」、三好徹「高杉晋作」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

 中井源左衛門は、売薬から米商人に転じて成功し、巨富を得た。瀬田の唐橋の改修費に3000両を献金したのをはじめ、神社や公共事業に多額の寄付をした。滋賀県に生まれ、幼名を長一郎、やや長じて源三郎と改め、源左衛門となったのは店を持ってからのことだ。生没年は1716(享保1)~1805(文化2)年。

  中井源左衛門は「金持に成らむと思はば、酒宴遊興奢(おご)りを禁じ、長寿を心掛け、始末第一に商売を励むより外に仔細は候はず」(「金持商人一枚起請文」)と子孫に書き残している。著名な「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神は、他国への行商で財を成した近江商人の知恵だ。行商先や出店を開いた地域に配慮した経営でなければ、外来商人としての存続も、出店の定着もあり得なかったのだ。

 日野特産の日野椀をつくっていた中井家は、もともと佐々木源氏に仕えて船奉行をしていた家柄だったが、織田信長に佐々木の一党が滅ぼされた時、武士をやめて、塗椀業者になった。ところが孫の光武の代になったころ、家運が衰えて取引先が倒産した。そのため家屋敷も人手に渡り、源左衛門光武は日野椀の絵付け仕事に雇われて職人暮らしを続け、ようやく19歳になった。

 何とかして失った家や地所を回復したいと思った彼は相坂半兵衛という日野商人に連れられて、関東へ行商の旅に出た。1734(享保19)年のことだ。母の実家から日野の合薬60貫分(約15両)を借り受け、自己資金2両と、遺産3両を旅費として、創業の野心に燃えた19歳の青年は、東へ向かって旅立っていった。これを持ち下り商内といっている。

 神応丸、奇応丸、帰命丸、六味地黄丸など日野の合薬は各地で評判がよかった。一度目は失敗に終わったが、二回目は何とか損をせずに済んだ。以来一日として休むことなく、雨の日も雪の日も歩き続けて、1745(延享2)年になると、ようやく下野の越堀町に小さな店を持った。同年、郷里に家を建てて妻を迎えた。それが30歳の時で、2年後には775両1分の金を貯め込んでいた。2両の資本から始めて、よくも増やしたものだが、まだ千両には手が届かない。

 奥州街道に沿った大田原藩1万1000石の城下町・大田原に拠点をつくった彼は合薬だけでなく太物(木綿)も扱うようになって、上野の小泉村や結城の白河にも支店を設けた。1769(明和6)年、仙台に出店したころ、貯蓄は7468両2分に膨れ上がっていた。創業以来35年、ようやく長者番付の片隅に名前が載るようになった。

 木綿の採れない奥州に、関西の綿布を届け、さらに好まれる古手(古着)も運んでいった。そして奥州の生糸や紅花を買い付けて関西へ運んできた。これを産物廻しというが、現在の商社活動の原点は、この産物廻しにあった。さらに彼は奥州の生糸を大量に丹後の機業地へ売り捌こうというので”組合商内”を実行した。これは今でいう株式組織で、まず出資者を募った。中井源左衛門 出資 7500両、杉井九右衛門 出金 1000両、寺田善兵衛 出金 1000両、矢田新右衛門 出金 500両 合計1万両、これだけの資金を動かしての商内は滅多にあるものではない。しかし、奥州と丹後では距離が遠すぎるので中継基地をいくつかつくった。

 京都では川港のある伏見に店を置いた。京都市内に出店を置くと、京都の糸問屋仲間の妨害を受けやすいからだ。京・大坂の古着類を伏見に集め、綿、油、菜種などとともにこれを仙台に運んだ。そして仙台を拠点として奥州各地で売り捌いた。さらに豊富な資金を使って、奥州の生糸、青芋(う)、紅花、大豆、小豆、漆類を大量に買い集めて、関西へ荷をを引いてきた。こうして大量の生糸を丹後の機業地へ運び込んだばかりか、大商いをして、さらに商売を拡げていった。

  やがて、丹後店、伏見店を閉鎖して、京都に大型店を開いた。このころになると、金融業も営んで大名貸しにまで手を広げている。仙台に長男の二代目源三郎を派遣して支配人とし、京都店に三男を配し、本店は源左衛門自らが総轄していた江州店(ごうしゅうだな)といって、近江商人は各地の出店に店員を派遣するが、すべて当主の手元で読み書き算盤をみっちり仕込まれた同郷者に限られていた。番頭になると妻帯が許されるが、これもまた同郷人に限られていて、新婚の妻を近江に残して、夫は任地で商いに励むことになる。

 その代わり35歳ぐらいになると、別家して独立することができる。退職金が200両ほどもらえ、そのうえ積立金もあるので資金はたっぷりある。そこで郷里に田畑と家を買って小作人に耕作を任せて、旦那衆の仲間入りもできるとあって、悪事を働くような店員はほとんどいなかった。人一倍几帳面な性格の源左衛門は、各出店から届いた報告に基づいて、”店卸記”と”永代店卸勘定書”をきちんと記録して、一日も休むことなく業務に精励したという。商機とみると機敏に行動したが、決して人を騙したり、あくどい商いをしたことはなく、薄利で”牛の涎(よだれ)”のごとく、細く長く続く商いに徹した。

 その結果、1804(文化元)年、89歳の折、その資産は11万5375両1分になっていた。そして、翌年9月、90歳の天寿を全うした。数多い近江商人の中でも、彼ほど長寿を保ち巨富を積んだ者は他に例をみない。源左衛門の没後、二代目、三代目とよく初代の精神を守って業務に励んだので、中井家は近江商人を代表する名家となった。

 始末、才覚、算用、この三つは江戸期の商人の原理といっていい。才覚は今でいうアイデア、始末は無駄金を使わないこと、算用は経理で、すべて現代にも通用する商法の原理だ。近江商人は、無駄金は使わないが、道路や橋の建設にはよく金を出している。これはそうして交通が便利になれば、いずれ自分たちにも利益となると見越していたからだ。活きた金の出費は惜しまなかった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

 本間四郎三郎は江戸時代、巨大な経済力で山形地方に君臨していた豪商、豪農、本間家の中興の祖といわれる。天下第一の豪農として庄内藩14万石の領内において、藩主をはるかに凌ぐ24万石の大地主だったのだ。本間四郎三郎の生没年は1732(享保17)~1801年(寛政13年)。

 本間家の祖は寛永年間(1624~1644年)すでに商業を営み、酒田36人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒臘(さらしろう)、紅花(べにばな)などを買い占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当たって巨利を得た。そして、その利益で酒田周辺の土地を買い上げ、「千町歩地主」と呼ばれる大地主にのしあがっていった。

 本間家三代目・四郎三郎が、父・庄五郎光寿の後、本間家を継いだのは1754年(宝暦4年)のことだ。彼は父の遺志を継いで酒田、西浜の防砂林の植林に取り組んだ。が、これは尋常な事業ではなかった。黒松の苗木は植えても植えても、厳しい風害を受け飛来する砂に埋没し、幾年もの間、根付き育つことはなかった。そこで、苗木を保護するための竹矢来を組むなど、吹き付ける砂嵐と、まさに格闘すること12年、ようやく延々30kmにも及ぶ防砂林の完成にこぎつけた。藩主は、それほどの難事業を成し遂げた四郎三郎の功を賞し町年寄を命じ、のち士分に取り立て小姓格となった。

 このほかにも、四郎三郎は庄内藩および山形地方に様々な事業を通じて地域貢献している。1768年(明和5年)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に2万4000俵を献上、この米が1783(天明3)~1788年(天明8年)の大飢饉から藩士や領民を救った。また、焼失した庄内藩江戸藩邸の再建をはじめ、庄内藩の窮乏を救うため財政すべてを委ねられることになった。そのうえ、幕府から安倍川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借り入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ね、協力を取り付けることに成功するなど、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせた。

 こうした四郎三郎の経済手腕の鮮やかさをみて、藩主を通じて財政再建を委嘱する諸藩があとを絶たなかった。窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩もその一つで、上杉治憲(のちの鷹山)の要請に応えて、彼は米沢藩のため数回にわたって金穀を献貸している。このほか彼は、酒田港口に私費で灯台を建て、氷結する最上川の氷上に板を敷き、旅人の陥没を防ぐなど、病で職を辞するまで、36年にわたって公共のため激務に従事した。

 それだけに、庄内藩14万石・酒井家の財政は、酒田の大地主として名高い、この本間家を抜きにしては語れない。この時代、本間家は庄内藩の“金倉(かねぐら)”みたいなものだった。当初は新顔の町人だった本間家だが、1710年(宝永7年)、300両を献金し、1737年(元文2年)、領内の豪商のトップとなった。その子、四郎三郎の代には、1800余俵収穫の田地から一挙に規模を広げ、1万3900余俵収穫高の田地を有するようになったのだ。四郎三郎のケタ外れの才覚がうかがわれ、彼が本間家にあっても中興の祖といわれるゆえんだ。

 1990年、この本間家が筆頭株主だった商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられた。時代の流れとはいえ、事業を担った人の精神は変わってしまったのかどうか分からないが、名門・本間家の表舞台からの退場は惜しまれる。 

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、中嶋繁雄「大名の日本地図」