月別アーカイブ: 2014年4月

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

 白石正一郎は幕末、勢威を誇った下関の豪商で、当時のインテリだ。長州藩の志士はもちろんのこと、関門海峡を通過する志士らを分け隔てなく世話した、勤王党の志士らのシンパでもあった。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。まさに新時代を築き上げる人材を、経済面で支援したスポンサー的存在だった。1863年(文久3年)、高杉晋作が結成した「奇兵隊」にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられている。

 白石正一郎は長門国赤間関竹崎に回船問屋、小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。名は資風、通称は駒吉、熊之助。号は橘円。白石正一郎の生没年は1812(文化9)~1880年(明治13年)。小倉屋は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材などを扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝だったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富だった。

 正一郎は国学に深い関心を持ち、鈴木重胤(すずきしげたね)から国学を学び、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。43歳ころのことだ。そして重胤の門下生を通じ諸藩の志士とも親交が生まれた。薩摩藩の西郷隆盛も正一郎を訪ね親しくなり、小倉屋は1861年(文久元年)には薩摩藩の御用達となった。西郷は正一郎を「温和で清廉実直な人物」と書き記している。

正一郎は月照、平野国臣、真木和泉らとも親しく交流したが、それは尊皇攘夷の志に共感したためだ。長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助したほか、土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。白石邸は、さながら志士たちに開かれた交流、集会の場だった。武士に限らず、公家も同様だった。都を追われた、明治天皇の叔父にあたる中山忠光や三条実美ら六卿もここに滞在した。六卿の一人、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)は下関に到着後、病に倒れ、この白石邸で息を引き取っている。

 白石邸は歴史の舞台ともなっている。1863年(文久3年)、藩命により下関を訪れた高杉晋作と白石正一郎の話し合いにより、この白石邸で「奇兵隊」が結成されたのだ。奇兵隊は結成以後、白石邸に寄宿していたが、すぐに隊員が増えて手狭になったため、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ屯所を移した。奇兵隊結成と同時に、正一郎自身も弟の廉作とともに入隊した。正一郎は奇兵隊の陰の力となって、惜しげもなく資金面で志士たちを支えた。そのため、晩年には豪商の身代も傾いてしまったほど。白石家は正一郎も、その弟の廉作も、伝七も皆、志ある人だった。日本初期の社会主義者で、革命直後のロシアで踪跡不明になった大庭呵公(かこう、景秋)は弟・伝七の子だ。

 明治維新後は、赤間神宮の二代目となった。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木和泉の次男・真木菊四郎の墓が並んでいる。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

 島井宗室(しまいそうしつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した博多の豪商、茶人で、大友宗麟と結び、金融・貿易で巨富を築き上げた人物だ。島井宗室の生没年は1539(天文8)~1615年(元和元年)。名は茂勝。通称は徳太夫。号は白軒、別号は瑞雲庵、虚白軒。

 島井宗室は博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも貿易に乗り出し、日本でも指折りの財を成した。宗室は、さらにその財力を背景に、九州の諸大名とも交渉を持つようになった。1573年(天正元年)、当時の博多の領有者、大友宗麟との取引を開始。同じころ、堺の茶人兼豪商、千宗易(利休)や天王寺屋道叱らと懇意になった。宗室は大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、大友宗麟から様々な特権を得て、豪商としての地位を確立していった。

 大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して、堺の千利休ら茶人としての親交ルートから織田信長に接近。その庇護のもとに活動することを企図した。信長には贔屓にされたが、本能寺で明智光秀に討たれ、彼の思惑は頓挫するかにみえた。が、今度は豊臣秀吉の保護を受けて畿内から博多、さらには対馬に至る輸送・交通路を築き上げた。これにより宗室は南蛮・朝鮮などとの貿易で栄華を極めることになった。

 宗室は、秀吉の九州征伐にも随分頼りにされ協力した。このとき博多復興に尽力した功績によって、彼は免税の特典を受けている。天下統一後、秀吉が行った朝鮮出兵には彼の合理主義的感覚から「この戦争はそろばんに合わない」と判断。賛成しなかったため、秀吉の怒りを買って、蟄居を命じられた。さすがに宗室もその後は柔軟な対応に転じたのか、後に許されてからは五奉行の一人、石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方、明との和平の裏工作を行っている。 秀吉没後、関ヶ原の合戦後、博多が黒田氏の支配下に入ると、黒田長政の福岡城築城などに協力している。

 宗室が養嗣子に残した、遺訓17カ条は町人訓として知られている。

 当時の博多では多くの豪商がひしめいていたが、とくに島井宗室は神谷宗湛(かみやそうたん)、大賀宗九とともに「博多の三傑」と称された。ただ、島井宗室と神谷宗湛は秀吉に取り立てられた商人で、大賀宗九は黒田氏に取り立てられた商人であり、少し事情や色合いが違う。島井宗室と神谷宗湛とは親族間にあたる。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人」

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

 竹川竹斎は、伊勢射和(いせいざわ)に拠点を持っていた由緒ある伊勢の豪商だ。竹斎は相当変わった人物で、国学、測量学、また農事や土木の方法まで学ぶなど、学問に造詣が深かった。しかも、学んだだけでなく竹斎はこれを地域で実行した。そして、何より驚かされるのは、竹斎は商人でありながら、幕末、「海防護国論」と題した意見書を提出。勝海舟と小栗上野介という幕府首脳部にあって、相対立する二人の実力者の政治顧問=黒幕的存在だったことだ。

 竹川竹斎は、伊勢国(現在の三重県)飯野郡射和村で父・竹川政信、母・菅子の長男として生まれた。幼名は馬之助、元服(1823年)して新兵衛政肝と改め、隠居(1854年)して竹斎と号した。父は文化人で、母は山田の国学者、荒木田久老の娘。竹斎の生没年は1809(文化6)~1882年(明治15年)。

 竹川家は幕府御為替御用を務め、当時、三井家と肩を並べるほどの豪商で、本家の竹川と、新宅の竹川と、東の竹川という三つの流れがあった。竹斎は東・竹川家の七代目だ。本拠は伊勢に置いてあったが、江戸で両替商を営む金融業だった。

 竹斎は国学を荒木田久守や竹村良臣(よしおみ)に学び、農事や土木の方法を、この方面の権威だった佐藤信淵(のぶひろ)に、そして天文地理の測量学を奥村喜三郎などに学んだ。また、多くの経世家や文化人と接し、知識を深めた。だが、彼が単に知識欲が旺盛だったわけではない。学んだことを地域で実行した。地域住民の多くを参加させ、近江の水利をはかるための灌漑工事を行った。もちろん、工事の費用は全部自分が出した。それによって、地域住民の意識を高めようとしたのだ。また、彼は当時1万巻といわれた蔵書、自分の持っている本を全部放出し、「射和文庫」をつくった。

 竹斎は「地域が富むためには、産業を興さなければならない。それには地域の特産品をつくって、他国に売り出すことだ」と唱えた。そのため、彼は「万古焼(ばんこやき)」を復活させた。「射和万古」と名付けた陶器を次々と生産させた。こうして、彼は伊勢射和の地域振興に尽くした。

 ただ、竹斎は地域だけではなく、幕末の日本全体を見ていた。ペリー来航後、当時の老中首座・阿部正弘は開明的な政治家で、情報公開と身分を問わず、様々な意見を求めるとの方針を打ち出し、国政参加への回路を開いた。これに応じて竹斎が提出した意見書が「海防護国論」だった。この意見書は、題名からくる印象とは違って、積極的な開国策だった。彼は後に、誰よりも先駆けて、日本に鉄道を敷設すべきだとか、北海道の開拓が急務だなどと唱えるが、学問の蓄積が彼の目を研ぎ澄まさせたのだ。

 竹斎の海防護国論にひどく感動したのが、勝海舟と大久保忠寛(一翁)だった。勝はとくに竹斎に惚れ込んでしまった。以後、勝は折に触れて様々な問題について、竹斎に相談し、アドバイスを受けたという。勝自身、明治になってから何でも自分ひとりで考え出したようなことを言っているため、一般的に、勝は相当な自信家のイメージが強いが、必ずしもそうではない。彼には、この竹川竹斎という政治顧問=黒幕がいたのだ。

 竹川竹斎は実は、海舟の青年時代からの支援者だった北海道の商人、渋田利右衛門が自分に万一のことがあったらといって、海舟に浜口梧陵、嘉納治右衛門(柔道・講道館の開祖、治五郎の親)らとともに紹介した人物の一人だ。このことは、海舟自身が『氷川清話』に書いていることだ。

 そして、驚くことに竹斎が黒幕的な役割を務めたのは、勝海舟に留まらなかった。竹斎は明治維新前後、勝と鋭く対立した勘定奉行・小栗上野介忠順の黒幕でもあったという。小栗は開明的な能吏だが、徳川幕府を立て直し、戦艦、武器・弾薬など軍備のうえからは、新政府軍とはまだ十分勝負になると判断。最後まで徹底抗戦を唱えていた。そのため小栗は、最終的に朝敵になることを怖れ、不戦=恭順派に傾いていた最後の将軍、徳川慶喜に嫌われて、江戸城内で職を罷免されてしまった人物だ。小栗上野介とは、新政府軍にとって、それほどに要注意人物だったのだ。竹斎は、そんな人物の政治顧問でもあった。

 竹斎が亡くなったとき、勝は墓前に「世のことを 望みなき身の心しりて友のすくなく成るぞわびしき」の句を捧げている。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話付 勝海舟伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

 灰屋紹益(はいやじょうえき)は江戸時代前期の京都の豪商だが、和歌・俳諧・蹴鞠・茶の湯・書などを当時の一流の人物から学んだ知識人でもあった。遊里・島原の名妓、吉野太夫を、関白・近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話はあまりにも有名だ。灰屋紹益の生没年は1610(慶長15)~1691年(元禄4年)。

 灰屋紹益は本名・佐野重孝、別名は承益、又三郎、通称は三郎左衛門。佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれだ。灰屋は屋号。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子となった。薬品のない時代、染めには灰が用いられた。紺染めに用いる灰を扱うため“灰屋”と号したというわけだ。この紺灰業を営み、灰屋紹益は巨万の富を築き、京の上層町衆を代表する豪商だった。

 当主・灰屋紹由の跡継ぎに見込まれて養子となったはずの紹益だったが、彼は商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌、茶道、書道などに凝った。それも単なる遊びで楽しんだわけではなかった。和歌を烏丸光広、俳諧を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安、書を本阿弥光悦、という具合に当時一流の人物から本格的に学ぶという徹底ぶりで、商人ながら、名の知られた知識人でもあった。

このため、交流のあった人物も幅広い。風雅・文化人はもとより、後水尾天皇、八条宮智忠親王らとも交わったという。そのため、一般庶民の間でも知られていた、井原西鶴の『好色一代男』の主人公、世之介のモデルともいわれているほどだ。

 中でも文筆に優れ、随筆『にぎはひ草』は風流人としての紹益の思想をよく表しており、近世初期の随筆文学の名著との指摘もある。また、紹益がこよなく愛したのが女性だ。彼は最初の妻と死別後、遊里・島原の名妓、吉野太夫を関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って身請けし、妻としたのだ。1631年(寛永8年)、紹益22歳、吉野太夫26歳のときのことで、4歳年上の女房だった。当初、父・紹由は、遊里の女を身請けするに及んで、紹益に愛想をつかして一時は勘当したほどだ。その後、吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許した。

 人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んだ紹益の句がある。

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

 恋い焦がれて妻に迎えた吉野太夫だったが、美人薄命。吉野大夫は36~38歳ごろ病死してしまう。紹益にとっては身を裂かれるほどの悲しみだったろう。

 「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」

と詠んで、吉野太夫を偲んでいる。

 それだけではない。実は凄まじい話が残されている。紹益は吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納めた。そして、その遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら全部飲んでしまったというのだ。

 現在、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺には紹益、吉野(大夫)二人の墓がある。

 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、「朝日日本歴史人物事典」

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。

 時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。

 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。

 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」

120人が新しい仲間に JJS幼稚部で入園・進級式

120人が新しい仲間に JJS幼稚部で入園・進級式

 ジャカルタ日本人学校(JJS)は4月15日、幼稚部の入学・進級式を開いた。2014年度の新入園児として年少90人、年長30人の計120人が新たに仲間入りした。この結果、総勢199人の園児たちが、これからともに新しい幼稚園生活を過ごしていくことになった。

ベトナムIT大手 2000人の技術者を日本で研修

ベトナムIT大手 2000人の技術者を日本で研修

 ベトナムのソフトウエア開発大手、FPTソフトウェアは日本でベトナム人技術者の日本語研修を始める。社員を来日させ、日常会話ができるようにする。ビザ取得などの準備が整い次第始め、3年間で合計2000人を来日させる。日本でシステム開発の技術者が不足しているため、人材を育てて日本の企業やシステム開発会社からの業務委託を増やす。FPTの社員が9カ月ほど日本語を学ぶ。研修後はベトナムに帰国し、FPTが日本企業から受託したシステム開発に従事する。

JJS新入生251人で在校生過去最高の1199人に

JJS新入生251人で在校生過去最高の1199人に

 ジャカルタ日本人学校(JJS)は4月14日、小・中学部の入学式を開いた。小学部144人、中学部107人の合わせて新入生251人が仲間入りし、上級生や先生たちとの新たな学校生活が始まる。これにより、2014年度の両部在校生は計1199人となり、過去最多だった1997年の1193人を上回った。じゃかるた新聞が報じた。

 齋藤稔校長は、「笑顔あふれる学校にし、生徒・児童一人一人の可能性を伸ばしていきたい」との思いを込めた、2014年度の学校テーマ「笑顔」を発表した。入学式にはJJS維持会の藤岡也寸志・理事長やジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)の吉田晋事務局長らが出席。在インドネシア日本国大使館の青木公使や井上裕PTA会長らが来賓祝辞を述べた。

頼山陽 日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

頼山陽 日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

 今から150年ほど前、日本の最大の文豪は誰か?と問われたら、当時の日本人はみんな頼山陽と答えただろう。それほどに偉い作家、文学者だった。といっても、別に大衆受けするベストセラー作家だったわけではない。明治維新の思想的・理論的指導者だったのだ。

 当時の青年たちの最も心を捉えたのは頼山陽が著した二つの歴史書だった。それは「日本外史」と「日本政記」だ。「日本政記」は天皇家の歴史を書き、「日本外史」は平家から徳川氏に至る武家の歴史を書いている。頼山陽はその中で、時の勢いが歴史の流れを変えていく-と主張する。平家が滅び、鎌倉幕府が滅びていったのは、それらが歴史の動きに取り残され、政権を担当する力を失ってしまった当然の結果だとする。歴史は必然的に動いていく。この歴史観が、尊王倒幕の意気に燃える青年たちを煽り立てた。

 頼山陽の父、頼春水は、安芸国、現在の広島県竹原出身の学者だ。頼家の先祖はその姓を頼兼(よりかね)といい、竹原で紺屋を営んでいた。学者となった春水は、中国風にその一字を取り、頼と名乗ったという。若い頃、大坂で学び、自らも塾を開いていた。頼山陽は、その春水の長男として大坂で生まれた。幼名は久太郎。生没年は1780(安永9年)~1832年(天保3年)。母静子も大坂の有名な学者、飯岡義斎の娘で、当時としては開けた女性だった。山陽が生まれてまもなく、父春水は広島藩の儒官となった。学問の力で町人から武士となったのだ。

 子供の頃、山陽は非常に体が弱かった。ただ、厳格な父は初めのうち、息子を「病気」だと認めようとしなかった。さらに儒官の父は、藩主の供をして江戸へ出ているときが多く、広島の留守宅は母親と病弱の子供の母子家庭みたいなものになっていた。そして父は時々、藩主と一緒に藩に戻ってきて、息子を厳格に叱り、躾けようとする。ただその途中で江戸へ出てしまう。すると、母は寂しがり、またそれを平気で言動に出す人だったから、その寂しさが全部子供にかかってくる。そこで、山陽は溺愛される。この溺愛と厳格とを交互に繰り返される。こんなところから、山陽のいろいろな性格上の特異な点が強く出てきたものと思われる。

 山陽は生涯に3度、この環境からの脱出を図っている。一度はせっかく入学した「江戸昌平こう」からの退学。二度目は広島藩からの脱藩。そして三度目は、先生として迎えられていた菅茶山(かんさざん)の塾からの脱走だ。中でも広島藩からの突然の脱藩は大問題となった。当時の法律では、許可なしに藩の領地を離れると、追っ手がかかり上位討ちされてしまう。しかし、山陽は病気ということで、脱走先の京都から連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉されてしまう。厳格な父も、息子山陽の病気を認めざるを得なくなった。21歳から3年間の座敷牢生活。この間に山陽は「日本外史」の筆を執り始めたのだ。

 山陽は躁うつ病を患い、周囲を心配させつつ、次から次へ、この頼家一族および広島藩そのものに衝撃を与えるようなことをやる。そういうことを通しながら、やがて彼は自分で人生を作り上げていく。つまり、自分の可能性を好きなように伸ばすように、自分の生活を作るということを覚えていって、遂に頼山陽というあの巨大な存在にまで自分を仕立て上げたのだ。

 山陽の子も二つの生き方をした。山陽が53歳で死んだとき、京都の家には二人の男の子がいたが、兄又二郎は父山陽の学者としての面を受け継ぎ、のち東京大学の教授となった。弟三樹三郎は、父山陽の改革者としての面を受け継いだ。反体制運動の実行者として、安政の大獄に倒れた。三樹三郎は、山陽の孫弟子にあたる吉田松陰の墓の隣に葬られている。山陽の死後27年目のことだ。

 

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、童門冬二「私塾の研究」、中村真一郎「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

 

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

 九州の大宰府に左遷された菅原道真や、豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休らとは格は違い、それほど有名ではないが、北辺の探検家だった近藤重蔵も江戸幕府の実力者に疎まれて、左遷に次ぐ左遷の中で生き、死んだ後、人々から「雷」になったと噂された。それは彼が死ぬ前「俺は死んだら必ず雷になって、択捉島や樺太の守護神になる」としきりに告げていたからだ。したがって、近藤重蔵の雷への変身願望は、個人的な怨念を晴らすためではなく、あくまでも北方領土防衛のために、死んだ後も闘い続けるという意気が込められている。

 近藤重蔵は終始一貫して北方領土に深い愛情を注いだ志の高い日本人だった。しかし彼の篤い志は、必ずしも幕府上層部の受け容れるところとはならなかった。むしろ、彼の頑固一徹の性格も災いして、志が篤過ぎたために、かえってうるさがられ、遠ざけられてしまったのだ。

 近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣、探検家。御先手組与力、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれた。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持ち主だった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。生没年は1771(明和8年)~1829年(文政12年)。

 父の隠居後の1790年(寛政2年)、御先手組与力として出仕。火附盗賊改方としても勤務。1794年(寛政6年)には松平定信が行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。1795年(寛政7年)、長崎奉行手付出役、1797年(寛政9年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進した。

 1798年(寛政10年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度、蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地の「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標柱を立てた。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させた。

 1803年(享和3年)、譴責により小普請方。1807年(文化4年)にロシア人の北方侵入に伴い、再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷地入り。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、十一代将軍徳川家斉に謁見を許された。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭をつけた。

 1808年(文化5年)、江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、1819年(文政2年)、大坂勤番弓矢奉行に左遷。1821年(文政4年)、小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。1826年(文政9年)、長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩にお預けの身となった。

 

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、杉本苑子「癖馬」 、司馬遼太郎「街道をゆく37」