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佐久間象山 幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

佐久間象山 幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家
 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。
佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。
 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 
 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。
 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。
 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。
 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。
 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。
彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

高野長英 鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

高野長英 鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才
 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。
翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。
長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。
当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。
長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。
しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。
天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。
というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。
その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。
長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学  ぶ」、山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

 

 

橋本左内 幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

橋本左内 幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー
 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本
彦也長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7
日、「安政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、
わずか26年である。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸
薩摩など雄藩と朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない
にもかかわらず、彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に
受けて育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、
12歳で藩立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定され
たコースだが、その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の
影響がはっきり表れている。
 15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど傑
出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と
題する手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と
同じく士籍に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の
長男に生まれたことで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆い
ている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方
洪庵が種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾
の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関し
ても詳しくは分からない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打
ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達で
いささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取
り続けた。
彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。
 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。
 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。
 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。
その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。
 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、津本 陽「開国」

 

 

槇村正直 東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

槇村正直  東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物
 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。
 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。
 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。
 槇村が行った主な京都近代化政策は①1869年(明治2年)、小学校の開設②1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建③1871年(明治4年)、京都博覧会の開催④1872年(明治5年)、都をどりの創設⑤1872年(明治5年)、新京極の造営⑥女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。
 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。
 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。
 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

 

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身
 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。
頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。
 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。
 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。
結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。
 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。
 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。
 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

福沢桃介 日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

福沢桃介  日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家
 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。
 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。
桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。
破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。
1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。
1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。
こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。
桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

中島知久平 日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

中島知久平  日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王
 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。
 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。
 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年
にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。
中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。
 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。
その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

 

前野良沢 蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者

前野良沢  蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者
 前野良沢といっても、いつ、どのようなことを成した人物かと問われても、とっさには出ない人が多いのではないか。良沢はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の編纂に携わった主幹翻訳者の一人だ。ところが、解体新書発行当時、良沢は自らの名前を出さなかったため、その業績は知られておらず、『解体新書』発行の功績は杉田玄白一人に帰した感がある。だが、現実に即していえばオランダ語に群を抜いた知識を持つ良沢を除外しては、翻訳事業が成り立たなかった。ひいては、1774年時点で、内容的にあのレベルの『解体新書』刊行はなかったと思われる。
杉田玄白はターヘル・アナトミアの翻訳事業を推進させた功績者ではあった。だが、彼にはその翻訳を一日も早く公にすることで名声を得たいという野心も十分にあった。それは人間としてある意味では当然の欲望だったが、学究肌の良沢にはそれが度を超えたものとして映った。そのため、良沢は翻訳事業が終了したとき、『解体新書』はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけた後に行うべきだと考えていた。しかし、玄白は刊行を急いだ。良沢はそれについていく気になれず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。玄白はそれを素直に聞き入れた。その結果、『解体新書』の訳者は杉田玄白ただ一人となったのだ。
 『解体新書』が華々しい反響を得た中で、前野良沢は書斎に閉じ籠った。53歳だった。病と称して門を閉じ、交際も極力避けた。訳書の量は増えていったが、名利を卑しむ彼は、それを刊行することすらしなかった。生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。そして。研究は医学から天文・暦学・地理などにも及び、多くの訳書がその手によって残された。
対照的に杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。また玄白は医術に精励したという理由で十一代将軍家斉に拝謁も許された。それは蘭方医として初の大きな栄誉でもあった。しかし、玄白のオランダ語研究は『解体新書』刊行と同時にほとんどやんだ。玄白は開業医として経済的にも豊かな後半生を送り、85歳の天寿を全うした。玄白の出世の道が『解体新書』を刊行したことで拓けたとするなら、それはストイックなまでに学究肌の、名利を卑しむ前野良沢という蘭学に一生を捧げた人物がいたからこそ実現したのだ。良沢がいなければ、玄白の人生はあるいはもう少し違ったものになっていたかも知れない。
 前野良沢は豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。生没年は1723(享保8年)~1803年(享和3年)。筑前藩士、谷口新介の子として江戸牛込矢来に生まれた。幼時に父は死亡、母も良沢を捨てて去り孤児となった良沢は、山城国淀藩主稲葉丹後守正益の医官で、叔父の宮田全沢に引き取られ育てられた。1769年(明和6年)、蘭学を志して晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。留学中に入手したのが西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』だった。
 良沢はこの書を翻訳するにあたって大宰府天満宮に参詣し「名声利欲にとらわれず、学問のため一生を捧げる」と誓った。『解体新書』が完成したとき、彼は天神への誓いを守って書中に自分の名をあらわさなかった。そうした蘭学に対する真摯な姿勢により、藩主・奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と賞賛された。そして、彼はこれを誉として「蘭化」と号した。
 寛政の三奇人の一人、高山彦九郎とは親しかった。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。

(参考資料)吉村昭「冬の鷹」、吉村昭「日本医家伝」

真田幸村 天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

真田幸村  天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣
 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。
 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。
 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。
 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。
 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。
 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。
 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。
 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。
豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。
男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。
 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

松平容保 不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに

松平容保  不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに
 松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。
容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。
また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。
 松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は銈之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。
 1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。
その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
 容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。
 容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」