月別アーカイブ: 2014年4月

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

 以仁王(もちひとおう)は、皇位継承の有力候補だったが、後見していた母方の伯父の失脚、そして父・後白河法皇とも疎遠だったことが大きく響き、異母弟・憲仁親王(後の高倉天皇)にその座を奪われた。しかし、周知の通り、平家追討の「以仁王の令旨(りょうじ)」を全国の源氏に発し、平家打倒へ向け武装蜂起を促した。計画が事前に露見し、準備不足もあって、最初に挙兵した以仁王、源頼政らは結局敗れ去った。が、これを機に平家打倒の烽火(のろし)は各地に広がり、平家崩壊の端緒となった。以仁王の生没年は1151(仁平元)~1180年(治承4年)。

 以仁王は後白河天皇の第三皇子。母親は閑院家・藤原季成の娘、成子。邸宅が三条高倉にあったことから高倉宮と称された。同母妹に歌人として名高い式子内親王がいる。祖父・季成は藤原北家の枝流で、御堂関白道長の叔父・公季を祖とする閑院家の分家、三条氏を称する一族だ。摂関家とは勢威を比べようもないが、王朝末期には後宮を独占する実力があった。ところが、平家の権勢が増していく中で、後白河院の寵愛は建春門院・平滋子に移り、高倉三位局は女御に昇れず、後白河院との間の子女たちもおのずと冷遇されていったのだ。以仁王が後白河院の皇子でありながら、親王宣下(しんのうせんげ)も受けられなかった原因もそこにあった。

 以仁王は幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となったが、1162年(応保2年)、12歳のとき最雲が亡くなり、還俗。1165年(永万元年)15歳のとき、人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王の猶子となった。彼は幼少時から英才の誉れが高く、学問や詩歌、とくに書や笛に秀でていた。以仁王は本来、皇位継承においても有力候補のはずだった。ところが、異母弟・憲仁親王の生母・平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止された。とくに1166年(仁安元年)、彼の後見役だった母方の伯父、藤原公光が突如、権中納言・左衛門督を解任され、失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅した。

 1179年(治承3年)、平氏のクーデターにより、後白河法皇が幽閉される事態となった。以仁王も長年知行してきた常興寺領を没収された(治承3年の政変)。こうした状況を睨み合わせ、平氏の専横も極まったとみて、以仁王に平家打倒を説いたのが、当時齢77歳の老武将、源頼政だった。頼政は「保元の乱」(1156年)で後白河天皇方につき、「平治の乱」(1159年)では清盛方につき、源氏一門が敗北した後も、源氏でただ一人、宮廷社会を生き抜いた、したたかな人物だ。

  以仁王は1180年(治承4年)、遂に平家討伐を決意した。彼は源頼政の勧めに従って、平家追討の「令旨」を各地の源氏に発した。そして、平家打倒の挙兵、武装蜂起を促したのだ。後白河院の皇子でありながら、冷遇され日の当たらない人生を余儀なくされた以仁王だが、こうして「以仁王の令旨」は時代を変える、そして歴史にその名を刻み込む、大きな決断となった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

 伊予親王は、第五十代・桓武天皇の第3皇子で、父の寵愛を受け式部卿、中務卿などの要職を歴任し、政治家としての素養も持っていた。ところが、皇位継承を巡る貴族との抗争に巻き込まれ、謀略にはめられ、叛逆の首謀者に仕立てられてしまった。そのため、伊予親王は幽閉先で飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。

 伊予親王の生年は不詳、没年は807年(大同2年)。母は藤原南家、藤原是公(これきみ)の娘、吉子。伊予親王は792年(延暦11年)元服し、四品(しほん)となり、次いで三品、式部卿(しきぶきょう)、中務卿(なかつかさきょう)などの要職を歴任した。政治家としての素養を持ち、管弦もよくし、父・桓武天皇の寵愛を受け、804年(延暦23年)には近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の荒田53町を与えられた。806年(大同元年)、中務卿兼大宰帥に任ぜられている。

 ところが、翌807年(大同2年)伊予親王はいきなり、謀反を企てた首謀者として、母・吉子とともに大和国の川原寺(かわらでら、奈良県高市郡明日香村)に幽閉された。後世、「伊予親王の変」とも称されるこの事件は、背景に皇位継承を巡る貴族との抗争があり、実は後に分かったことだが、伊予親王が陰湿な謀略にはめられたものだった。母・吉子の兄・藤原雄友(南家)は大納言として、右大臣・藤原内麻呂(北家)に次ぐ台閣No.2の地位あり、政治的にも有力な地位にあった。そんなとき、伊予親王は異母兄・平城(へいぜい)天皇の側近だった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に謀反をそそのかされた経緯を、平城天皇に報告した。

 そこで、朝廷は藤原宗成を尋問したところ、宗成は伊予親王こそ首謀者だと自白したのだ。そのため、母・吉子と子・伊予親王は逮捕された。二人は身の潔白を主張したが、聞き入れられず川原寺(弘福寺)に幽閉された。絶望した母・子は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。伊予親王には3人の王子女があったが、同親王が自害した後、いずれも遠流となった。また、この事件を仕掛けた貴族たちも当然、重い処罰を受けた。藤原宗成は流罪となり、伊予親王の伯父、大納言・藤原雄友も連座して伊予国に流された。このほか、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡(南家)が解任された。

 こうして無念の死を遂げたこの母子は怨霊となった。当時は恨みを抱いて亡くなった人物の御霊は、怨霊になると堅く信じられていた。このため、二人を死に追い込んだ平城天皇は、この怨霊に悩まされ続け、怨霊から逃れるため遂に同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に皇位を譲るまでに追い込まれた。

 819年(弘仁10年)、伊予親王の無実が判明すると、遠流となっていた3人の王子女は嵯峨天皇により、平安京に呼び戻された。そして、没収されていた同親王の資産も王子女に返還された。863年(貞観5年)に催された神泉苑での御霊会(ごりょうえ)では、この母・子ともに祀られた。怨霊を鎮め、怨霊から逃れるには、そうするしか術がなかったのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、永井路子「王朝序曲」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

 安徳天皇は、高倉天皇を父、平清盛の娘で中宮の徳子(建礼門院)を母として生まれた。安徳天皇は平氏の政治的台頭の、いわば切り札だった。しかし、あまりにも幼い身で即位させられ、そして総帥・清盛の死を機に、不運にも坂を転げ落ちるような平氏の退潮期が重なった。その結果、悲しいことに幼帝の最期は、平清盛の妻、二位尼・時子(ときこ)に抱かれて入水、壇ノ浦の藻くずと消えた。在位5年、わずか8年の生涯だった。安徳天皇の生没年は1178(治承2)~1185年(寿永4年)。

 安徳天皇は、高倉天皇の第一皇子。諱は言仁(ときひと)。生後まもなく親王宣下を受け、立太子した。1180年(治承4年)、父、高倉天皇の譲位を受け即位した。1179年(治承3年)11月以降、後白河院は幽閉され、院政は停止されていたから、即位は清盛の意向を具体化したものにほかならない。父・高倉天皇11歳、母中宮・徳子17歳が結婚し、5年後に安徳天皇が生まれたとき、清盛は太政大臣を辞して入道だった。清盛入道にとってはこの男の子(孫)をなるべく早く帝位に就け、自分は外戚として後見する。それが理想の形だった。それによって、平家全盛の時代が当分続くはずだった。

 ところが、将来そのキーマンになるはずだった安徳天皇にとって、不運な点が二つ起こってしまった。一つは父・高倉上皇が21歳の若さで亡くなったことだ。そして、もう一つ、その父の死からわずか一カ月後、祖父・清盛が病死してしまったことだ。父・高倉上皇は実父の後白河法皇と、舅の清盛との仲がうまくいかず、後白河、清盛ともタフな人物だっただけに、二人に挟まれてノイローゼ気味だったといわれる。それでも、健在なら息子のために精神的な面でのサポートはできたはずだ。

 安徳天皇にとって、何より不運だったのは想定外の清盛の早い死だった。「清盛死す」の報に、源氏勢力は即、平氏打倒の好機到来と捉え、その動きが加速した。木曽義仲の挙兵、源頼朝の伊豆における挙兵。そして、やがて源義経・範頼の鎌倉軍が京へ攻め上ってくる状況が迫り、平家は都を落ちて西へ-。

 こうなると、どうしても考えたくなるのが、清盛が健在なら歴史はどう動いたかということだ。あと5年生きていたら、平氏のこんなに早い都落ちはなかったろう。源氏勢力にとって、また朝廷内部においても平氏の権勢の時代に嫌気がさしていても、大っぴらに平家を批判あるいは非難することはできなかった。それほどに総帥・清盛の存在は大きかったのだ。

 ある日、予想以上に早く清盛が亡くなり、そんな重しが取れたとき、平氏には清盛に代わる、統率力のある後継者がいなかったというわけだ。そして、何より不幸だったのは、平氏は武家でありながら官人たちはじめ、いずれも貴族化し、戦いに望む気概に欠けていた。それにしても、平氏は三種の神器を持ち、いくらよちよち歩きとはいえ、安徳天皇という日本の象徴を擁し、雅な衣装を身にまとった女性たちをはじめ、各ファミリーまでを含む混成軍を率いていくわけだから、これは大変な大移動だったと思われる。こんな布陣で、戦士の軍団と戦おうというのは、やはり無理がある。

 安徳天皇が、例えばあと五歳ぐらい年かさで13歳の、自分の意志をはっきりいえる立場にあったら、彼はどのような言葉を発しただろうか。あるいは京の祖父・後白河院を動かし、源氏勢力に対する牽制、そして平氏の名誉ある撤退へ導くような動き方を模索したのだろうか。成人といえないまでも、分別のつく年齢に達していれば、死に赴いて何か言葉が残っていても不思議ではないが、幼少の安徳天皇の場合、その種の史料は全くない。壇ノ浦の戦いでもういよいよ平家がダメだというときに、二位尼・平時子に抱かれた幼い安徳天皇が海に飛び込む直前、「どこへゆくの?」と聞く。そんな言葉が語り継がれているだけだ。これに対し、時子は「海の底にも都があり、ババがお伴するから行きましょう」と答え、真っ先に飛び込み、安徳天皇ともども浮かんでこなかったという。“不運の幼帝”というほかない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「波のかたみに」、杉本苑子「平家物語を歩く」

 

 

 

 

 

 

 

アジア・アフリカ会議59周年 日本人留学生も参加

アジア・アフリカ会議59周年 日本人留学生も参加

 1955年のアジア・アフリカ会議開催から59年目を迎えた4月18日、インドネシア西ジャワ州バンドンのアジア・アフリカ会議博物館は24日まで記念イベントを開いている。17日の開幕式には博物館前のアジア・アフリカ通りを閉鎖し、記念パレードを実施した。20日の「アジア・アフリカ・フレンドシップデー」では、博物館近くのチカプンドゥン・ティムール通りで、バンドン留学中の日本人留学生が浴衣を身につけ参加した。期間中には1万人の市民の参加が見込まれている。地元メディアが報じた。

 1955年4月18日に開かれたアジア・アフリカ会議では欧米諸国の宗主国から独立したアジア・アフリカの中国、インド、エジプトなど29カ国首脳が参加。スカルノ大統領、周恩来首相(中国)、ネール首相(インド)らが主導し、バンドン十原則が採択されている。

「en塾」東京、熊本で初公演 安倍首相を表敬訪問

「en塾」東京、熊本で初公演 安倍首相を表敬訪問

 インドネシア人学生日本語ミュージカル劇団「en塾(えんじゅく)」の団員60人が4月2日から10日まで日本を訪れ、東京と熊本で初公演した。また福島大学で学生と交流し、震災からの復興を祈ってつくられた「桜よ」を合唱。16日には安倍首相を表敬訪問し、総理官邸でその「桜よ」を披露した。

 4月4日の東京公演(四谷区民ホール)では満員の観客約500人を前に総勢60人が創作ミュージカル「吾輩はニャンコである」を上演。2時間で11曲を歌い、最後に「桜よ」を出演者全員で合唱した。6日の熊本公演(熊本県立劇場)では熊本インドネシア友好友好協会の主催で上演。1200人の観客が来場、盛り上がりをみせた。10日までの滞在を終えた団員らは帰国の途についたが、13日に3人の団員が再び訪日。

 15日に東京都内で開催された国民交流基金の「文化のWA(和・環・輪)プロジェクト~知り合うアジア~」発足記念式典、さらには16日にメンバーらは緊張した面持ちで、首相官邸で「桜よ」を披露した。安倍首相は15日の記念式典でも「桜よ」の一節を紹介するなど、en塾の活動を称えていた。じゃかるた新聞が報じた。

滋賀県の新ブランド米が香港の機内食に採用

滋賀県の新ブランド米が香港の機内食に採用

 滋賀県の嘉田由紀子知事は4月15日、定例の記者会見で同県の近江米の新品種「みずかがみ」が香港キャセイパシフィック航空のファーストクラスとビジネスクラスの機内食に採用され、同日から提供が始まったと発表した。近江米が機内食に採用されるのは初めて。1日当たり約300食が提供される。香港から日本へ向かうファーストクラス、ビジネスクラス全便と、日本から香港に向かう便の一部で、計1日9便。キャセイパシフィック系列の香港キャセイパシフィックケータリングサービスが用意し、提携先の全日本空輸(ANA)のビジネスクラスでも香港発・日本着で1日5便に使われる。

 今回「みずかがみ」が同航空のメニューに採用されたのは、2013年9月に関西広域連合のトッププロモーションで香港に赴いた際、現在キャセイパシフィックケータリングサービスの和食料理長をしている森静昭さんに手土産として「みずかがみ」(5㌔袋)を持参したのがきっかけ。

 13年から作付けが始まった「みずかがみ」は日本穀物検査協会(東京)の食味ランキングで最上位の特Aランキングに選定。県やJA全農しがなどが増産や販路拡大を目指している。

立石一真:繚乱期のエレクトロニクス産業の先陣 オムロンの創業者

立石一真 繚乱期のエレクトロニクス産業の先陣切ったオムロンの創業者

 立石一真(たていしかずま)は、現在のオムロンの前身「立石電機製作所」の創業者だ。彼は戦後間もなく米国のオートメーション工場の成功を聞き、一貫してこのオートメーション=自動制御に取り組んだ。その結果、各種関連システムの開発・商業化に成功し、産業史に名を残した。独自のベンチャー哲学を実践、繚乱(りょうらん)期のエレクトロニクス産業の先陣を切った。立石一真の生没年は1900(明治33)~1991年(平成3年)。

 立石一真は、熊本市新町で伊万里焼盃を製造販売する立石熊助、エイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し、熊本に移り住み、「盃屋」を店開きした。祖父は伊万里焼の職人で絵付けがうまく、熊本へ移住して、絵付きの盃製造でかなりの財を成した。父はその祖父の家業を継いだが、商才に欠けるところがあり、家運は傾いていった。加えて、一真が7歳のとき父が亡くなり、立石家の家計は極貧といっていいくらいの水準に落ち込んだ。そのため、一真は新聞配達などをして母親の家計を助けた。この間、弟が亡くなっている。一真の人生の、とくに50歳までの人生で、身内の死者が多く出ていることが一つの特徴だ。

 こうした境遇にありながら、不思議なことに一真は熊本中学、熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部)に新設された電気科に進学しているのだ。極貧の家計の中でどうしてここまで進学できたのか、よく分からない。とにかく一真の前半生は苦難の連続だった。1921年(大正10年)高校を卒業、兵庫県庁に就職した。土木課の技師だったが、1年有余で退職し、京都市の配電盤メーカー、井上電機に就職。この会社で後の制御機器事業のリレーへつながっていく継電器の開発で頭角を現した。継電器は電流や電圧が一定の量に達すると、自動的に電流の通過を止める装置だ。しかし、不景気で希望退職を余儀なくされ、日用品の行商で一家を養った。

 1933年(昭和8年)、一真は大阪市都島区で「立石電機製作所」を創業した。ただ、継電器事業が軌道に乗り始めた途端に大阪の工場が戦災で全壊。京都に本拠を移して再出発した。転機になったのは50歳を過ぎたころ、京阪神地区の経営者の集まりで専門家からオートメーションの話を聞いたときだ。米国には無人で原材料を完成品に仕上げていく工場があるという。「これだ!」と一真はひらめいた。オートメーション分野は本業の継電器技術が生かせる。折しも企業の生産性向上意欲は高まっていた。将来性は十分とみて、販売体制を整えたうえで1955年(昭和30年)、リレー、スイッチなどの関連制御機器を本格的に売り出した。その後は自動券売機、高速道路の交通管制システム、販売時点情報管理(POS)システムなどに手を広げていった。こうして会社の基盤が固まった。

 立石一真は孝雄(長男)、信雄(二男)、義雄(三男)と子供に恵まれた。彼らが証言している父・一真は「とにかく本や新聞をよく読み、驚くほどの勉強家で、無類の新しもの好き」だった。会社の基盤が固まった後は、制御機器分野への半導体利用を思い立ち、手始めにIC(集積回路)、LSI(大規模集積回路)を使った電卓事業に参入した。1959年(昭和34年)、本社があった京都市・御室(おむろ)にちなんで「オムロン」の商標を定め、「八ケタ(電卓)はオムロン」と評判になった。

 1979年(昭和54年)孝雄に社長を譲った。「わがベンチャー経営」「永遠なれベンチャー精神」などの著書に象徴されるように、一真は常に新ビジネスを模索し躍動感ある企業を理想とした。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 立石一真」

与謝野鉄幹:雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

与謝野鉄幹 雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

 与謝野鉄幹は雑誌『明星』を創刊し、浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人であり、詩人だ。自然主義興隆後は声望が凋落したが、才能豊かな人物だった。鉄幹の生没年は1873(明治16)~1935年(昭和10年)。

 与謝野鉄幹は京都府岡崎(現在の京都市左京区)に与謝野礼厳(れいごん)の四男として生まれた。本名は寛、鉄幹は号。与謝野晶子の夫。生家の寺の没落に伴い、寛は少年時代から他家の養子となり、大阪、岡山、徳山と転住し、世の辛酸をなめた。しかし、一時代の頂点を極め、自然主義興隆後、歌人としての声望は凋落したものの、鉄幹は40代半ば以降、慶應義塾大学教授、文化学院学監を務めた。寛の父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶。父は庄屋の細見家の次男として生まれたが、京都府与謝野郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めから「与謝野」と名乗るようになったという。正しい姓は與謝野。母は初枝、京都の商家の出だ。

 1863年(明治16年)、与謝野寛は大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、1891年まで安藤姓を名乗った。1889年(明治22年)、西本願寺で得度を受けた後、山口県徳山町の兄照幢の寺に赴き、その経営になる徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集。そして翌1890年(明治23年)鉄幹の号を初めて用いた。さらに1891年養家を離れて、与謝野姓に復した。寛は山口県徳山市(現在の周南市)の徳山女学校で国語の教師として4年間勤務したが、女子生徒、浅田信子との間に問題を起こし、退職。このとき女の子が生まれたが。その子は間もなく死亡。次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうけた。

 1893年(明治26年)、寛は上京し、落合直文の門に入った。20歳のときのことだ。同年、浅香社結成に参加。「二六新報」に入社。1894年(明治27年)、同紙に短歌論『亡国の音』を連載、発表。旧派の短歌を痛烈に批判し、注目された。1896年(明治29年)、出版社、明治書院の編集長となった。そのかたわら跡見女学校で教鞭をとった。同年7月歌集『東西南北』、翌1897年(明治30年)歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』を世に出し、その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれた。

 1899年(明治32年)寛は東京新誌社を創立。同年秋、最初の夫人、浅田信子と離別し、二度目の夫人、林滝野と同棲した。1900年(明治33年)、『明星』を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木らを見い出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。1901年(明治34年)鳳晶(与謝野晶子)と結婚。短歌革新とともに、詩歌による浪漫主義運動展開の中心となり、多くの俊才がここに集まった。以後、『明星』の主宰者として後進の指導にあたるとともに、詩歌集・歌論集を出版した。歌は雄壮で男性的だった。1911年、渡欧しパリに滞在。1913年(大正2年)パリから帰国。1919年(大正8年)~1932年(昭和7年)、慶応大学教授を務め、国文学および国文学史を講義した。また、1921年(大正10年)、西村伊作らと文化学院を創設している。

 鉄幹の最後の主宰誌『冬柏(とうはく)』(1934年10月号)に掲載された「四万(しま)の秋」より一句紹介する。

 「渓(たに)の水汝も若しよき事の 外にあるごと山出でて行く」

 これは四万温泉に旅した折、そこで見た四万川渓流を歌ったものだ。秋の歌だが、新春にふさわしい風趣もある。渓流の清冽な若々しさを讃えつつも、若さの持つ、定めない憧れ心を揶揄してみせることも忘れない。鉄幹自身そういう若さを最もよく知り、生きた人だった。軽やかだが思いは深い。半年後の1935年3月に彼は亡くなっている。

 最後に、鉄幹のよく知られた代表作『人を恋ふる歌』の一節を記しておく。

 「妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるはしくなさけあり 友をえらばは書を読みて 六分の侠気四分の熱」

(参考資料)渡辺淳一「君も雛罌栗(こくりこ) われも雛罌栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人

与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人

 与謝蕪村は江戸時代中期の俳人・画家で、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸時代俳諧の巨匠の一人であり、中興の祖といわれる。画壇・俳壇両方で名を成した、類稀なるアーティストであり、絵画的浪漫的作風で俳人として一派を成した。絵画は池大雅(いけのたいが)とともに文人画で並び称された。また、俳句と絵でこっけい味を楽しむ「俳画」の創始者でもある。蕪村の生没年は1716(享保元)~1783年(天明2年)。

 与謝蕪村は摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら、現在の大阪市都島区毛馬町)で生まれた。姓は谷口あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。俳号は他に夜半亭(二世)・落日庵・四明・宰鳥など。画号は春星、謝寅など。「蕪村」とは中国の詩人、陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。

 蕪村は20歳のころ江戸に下り、早野巴人(はじん、号は夜半亭宋阿=やはんてい そうあ)に師事し、俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳のとき、師が没したあと下総国結城(現在の茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに寄寓。松尾芭蕉に憧れて、奥の細道の足跡を巡り、東北地方を周遊した。その際の手記を1744年(寛保4年)、雁宕の娘婿で下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際、編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

 その後、蕪村は丹後、讃岐などを歴遊し、42歳のころ京都に居を構えた。このころ与謝を名乗るようになった。45歳ころに結婚し、一人娘くのをもうけた。島原角屋で句を教えるなど以後、京都で過ごした。1770年(明和7年)には夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で68歳の生涯を閉じた。最近の調査で死因は心筋梗塞だったとされている。

 蕪村は松尾芭蕉を尊敬してやまなかった。芭蕉が没して22年後に生まれ、俳人であり画家でもあった彼は、幾通りもの芭蕉像を描いた。いずれも微笑を浮かべた温容だ。早野巴人に俳諧を学んだが、書も絵も独学だった蕪村は芭蕉が心を込めたところを一生懸命に描いた。彼自身の体に芭蕉の精神を入れ、自分の心として描いたのだ。その結果、後世に知られる蕪村の俳画は、芭蕉と心を一つにすることで大成したといえる。

 ただ、生涯師につかず、独自に画風を開いていった蕪村は、60歳を超えて才能を開花させた、遅咲きあるいは、晩成型の俳人・画家だっただけに、経済的にはほとんど恵まれなかった。そのため、ほぼ生涯を通して貧乏と縁が切れなかった。この点は、彼が創始した俳画作品にもよく表れている。蕪村の並々ならぬ芭蕉敬慕の思いは、奥の細道図だけで少なくとも10点は描いたことから知れる。絵の修業時代、奥の細道を追体験する遍歴の旅をしているほどだ。蕪村の俳画において絵と俳句は混然と溶け合った。いわば絵で俳諧する世界だ。その頂点にあるのが蕪村の「奥の細道図屏風」や「奥の細道画巻」だ。

 芸術と人間は一体だと考えた蕪村は生来、去俗の人だったという。「もの云えば唇寒し秋の風」と詠んだ芭蕉こそが心の師だったのだ。俗な言葉を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる。それが大切だ。これが蕪村の精神だった。蕪村は独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語の『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物だ。蕪村に影響された俳人は数多いが、とくに正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことはよく知られ、『俳人蕪村』がある。

 蕪村のよく知られた句には

 「春の海 ひねもすのたりのたり哉」

 「菜の花や 月は東に日は西に」

 「月天心 貧しき町を通りけり」

などがある。

 また、俳画の句に「学問は 尻からぬける ほたるかな」「花すすき ひと夜はなびけ むさし坊」などがある。いずれもこっけい味にあふれた作品だ。

 辞世は

 「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」

 蕪村の主な著作は『新花摘』『蕪村句集』『蕪村七部集』『玉藻集』『夜半楽』などがある。 

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、NHK「天才画家の肖像・与謝蕪村」

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

 野口英世は黄熱病や梅毒などの研究で、現代の日本人によく知られている、戦前の日本の細菌学者だ。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して亡くなった。2004年から発行されている日本銀行券の千円札の肖像になっている。野口英世の生没年は1876(明治9)~1928年(昭和3年)。

 野口英世は、福島県耶麻郡三ツ和村三城潟(現在の猪苗代湖)で、貧農の野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれた。名前は清作と名付けられたが、22歳のとき英世に改名した。野口清作は1歳のとき、彼の運命を決めることになった事故(?)に遭う。囲炉裏に落ち、左手を大火傷(やけど)したのだ。幸い命に別状はなかったが、左手に大きな障害が残ってしまった。7歳のとき三ツ和小学校に入学した。この年、母から左手の障害から家業の農作業が難しく、将来は学問の力で身を立てるよう諭された。

 母の言葉を守って勉強に精出した結果、清作は13歳のとき、猪苗代高等小学校の教頭だった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学した。そして、清作にとって幸運にもハンディキャップ克服への道が開かれる。清作が15歳のときのことだ。左手の障害を嘆く彼の作文が、小林をはじめとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡辺鼎(かなえ)のもとで左手の手術を受けることができたのだ。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになった。この手術がきっかけで、彼は医師を目指すことを決めたのだ。

 猪苗代尋常高等小学校卒業後、会津若松の渡部鼎の医院の書生となり、4年間医学と外国語を習得。1896年(明治29年)上京、医術開業前期試験に合格。ただちに歯科医、血脇守之助の紹介で、高山歯科学院の用務員となり1897年、済生学舎に入り5カ月後、医術開業後期試験に合格した。翌年、大日本私立衛生会、伝染病研究所(所長は北里柴三郎)助手に採用され、細菌学の道に入った。1899年、アメリカの細菌学者、フレクスナーが来日。その通訳を務めたことを機に渡米を決意した。

 その後、横浜港権疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事した。1900年(明治33年)、血脇の援助を得て渡米し、ペンシルベニア大学のフレクスナーを訪ね、彼の厚意で助手となり、またヘビ毒研究の大家、ミッチェルを紹介された。野口はヘビ毒の研究を始め、1902年フレクスナーと連名で第一号の論文を発表した。1903年デンマーク・コペンハーゲンの国立血清研究所でアレニウスとマドセンに血清学を学び、翌年アメリカに戻り、フレクスナーが初代所長を務める新設のロックフェラー研究所に入所した。1911年(明治44年)、梅毒病原スピロヘータの純培養に成功。世界的にその名を知られ、京都帝国大学から医学博士を得た。この年、アメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚した。

 1914年(大正3年)、東京大学より理学博士の学位を授与された。ロックフェラー医学研究所正員に昇進した。野口は何度かノーベル医学賞候補になっているが、この年最初の候補となった。1918年(大正7年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣された。その後、南米ペルーやアフリカのセネガルなどを訪れ、10年間にわたり黄熱病や風土病研究に携わり、遂にその黄熱病に倒れたのだ。

 野口自身、黄熱病に感染したと認識していなかったのだが、1928年(昭和3年)イギリス領ガーナのアクラのリッジ病院で、51年の生涯を閉じた。遺体はアメリカ・ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。

(参考資料)小泉 丹「野口英世 改稿」、渡辺淳一「遠き落日」