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明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

 明治天皇は薩長両藩による討幕運動が風雲急を告げる中、俄に崩御した父、孝明天皇より皇位を継承、王政復古により新政府を樹立。1868年、明治と改元して、天皇の代替わりに合わせて元号を変更する「一世一元」と定め、京都から東京へ遷都。大日本帝国憲法や教育勅語・軍人勅諭などを発布して、近代立憲国家の指導者として活躍、その功績から戦前には「明治大帝」とも呼ばれた。ただ天皇として、前例のない時代を生き抜いた人物だけに、人間として彼の意思がどこまで貫けたか?とくに大日本帝国憲法下における「統帥権」の問題とからみ、その人物評価は輻輳するところで、極めて難しい。明治天皇の生没年は1852(嘉永5)~1912年(大正元年)。

 明治天皇は第123代天皇(在位1867~1912年)。名は睦仁(むつひと。幼名は祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第二皇子。母は権大納言、中山忠能(ただやす)の娘、中山慶子(よしこ)。幼少時を祖父、忠能のもとで過ごした後、1856年(安政3年)内裏へ移った。睦仁親王は父、孝明天皇ともども多難な時代と遭遇し、政治の渦中に巻き込まれた。嘉永、安政年間(1848~1860)には黒船の来航をはじめとして欧米列強による開国要求が相次ぎ、幕府の権威が失墜。朝廷が政治の中心に組み込まれると、天皇も国難に直面せざるを得なくなった。

 「八月十八日の政変」(1863年)、「禁門の変」(1864年)を経て、事態は薩長両藩による討幕運動へと発展する中、孝明天皇は俄に崩御。1867年(慶応3年)睦仁親王が満14歳で践祚の儀が行われ、即位した。1868年(明治元年)、五箇条の御誓文に基づき、太政官の権力集中、三権分立主義、官吏公選などを規定した政体書によって、新しい政治制度を確立するなど新政府の基本方針を表明した。また、明治と改元して「一世一元」の制を定めた。

 明治天皇は若年で即位したため、明治維新は側近の岩倉具視らの主導で推進されたが、公武合体論者の孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変するのに十分で、それ以後、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進んだ。端的には、1868年1月からの「戊辰戦争」で旧幕府勢力を打倒、その環境が整ったわけだ。1871年(明治4年)6月、明治天皇は廃藩置県を断行して中央集権体制を固めていった。と同時に宮中改革も実施され、天皇の生活環境も大きく変わっていった。学問所では元田永孚(ながざね)や加藤弘之が侍講として漢学や洋学を進講した。また侍従となった山岡鉄舟や村田新八によって、武術などの訓練を受けた。これにより、ややひ弱だった若年の天皇が、次第に文武両道に長じた柔和な青年君主に成長していった。

 話は相前後するが、明治初年以降、天皇は全国各地を巡幸することも増え、国内民衆に広く接して、新しい日本の君主としての存在を印象付けた。加えて、外国の使節や賓客と会見することも多く、明治12年に来日した前アメリカ大統領グラントとの会議では、近代国家建設のための多くの助言を得ている。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法を発布。帝国議会開設後は政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を、また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たすなど、近代日本の指導者として活躍。その功績から戦前には明治大帝とも呼ばれた。

 明治維新後を展望した坂本龍馬の語録がある。龍馬はその中で、「本当なら、幕府が倒れた後の日本人の精神的な拠り所はキリスト教がいいのだが、これは日本に馴染まない。では、代わりにいったい何を持ってくるか、天皇以外にない」といっている。明治政府の首脳陣はこの考えを実行した。つまり、天皇を「生きた神様」として、日本国民の上に君臨させようとしたのだ。ある意味で、当時の首脳部にすれば、やむを得なかったことかもしれない。ただ、その天皇がいままでのように、御所の奥に隠れ住み、いわゆる“雲の上の存在”として、そのままいたのでは、国民にとってありがたみが薄い。もっと民衆の前に現れる存在としての、世界に類例のない帝王学が明治天皇に望まれたことは確かだ。そのための行き過ぎもあった。

 明治天皇は幕末から明治維新、そして明治という前例のない時代を生き抜いた。しかし、人間として明治天皇の意思がどこまで貫けたかは極めて難しい問題だ。日清・日露戦争など心ならずも、そういう決定をしなければならないことも多々あったに違いない。ただ、かといって明治天皇の生涯をみていると、すべて周囲の言いなりになったわけではない。あるときには頑固なまでに自分の意思を貫いた。総合的な人物評価は難しい。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉森久英「明治天皇」、童門冬二「明治天皇の生涯」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

 本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、エンジンの猛烈な改良・開発熱にとりつかれながら、権威や常識を覆した自由競争の時代に、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物だ。生没年は1906(明治39)~1991年(平成3年)。

 本田宗一郎は静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で、父・本田儀平、母・みかとの間に長男として生まれた。父は農機具などをつくる村の鍛冶屋だった。もともと農家に生まれたが、手先が器用なことから、15歳のとき袋井の鍛冶屋へ奉公に出、20歳のとき村へ帰って独立した。日露戦争では応召して満州へ行き、復員。27歳のとき、近くの農家の娘で7つ年下のみかと結婚、初めてもうけた子が、宗一郎だった。「宗一郎」と名付けたのは祖父だった。

 本田は1913年、光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学。1922年、二俣町立二俣尋常高等小学校を卒業。東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」に入社。同社に6年間勤務し1928年、のれん分けの形でアート商会浜松支店を開業した。1935年、僧学校教員の磯部さちと結婚。1937年、自動車修理工場の業容は順調に拡大、1939年「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)の社長に就任。1945年、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入った。

 1946年、本田は浜松市に本田技術研究所を設立、所長に就任した。39歳のときのことだ。そして1948年、本田技研工業株式会社を浜松市に設立。同社代表取締役に就任。資本金100万円。従業員20人でのスタート、二輪車の研究を始めた。1949年は、本田にとってターニングポイントとなった年だった。この年、後に本田技研(ホンダ)の副社長となる藤沢武夫を、東京の知人に経理を任せられる人物として紹介されたのだ。藤沢は本田より4歳年下で、技術には弱いが、販売や経理には極めて明るかった。そこで、本田は以後、藤沢に経営の一切を任せ、研究・開発に没頭。この役割分担により、職人肌の技術者、本田はカネや販売の苦しみを味わうことなく、才能を存分に発揮し、本来の仕事に没入できたのだ。

 二代目社長の河島喜好は、藤沢さんと出会わず、あのまま本田さんだけでやっていたら、本田技研は10年ももたなかったのではないか-と語っている。また、藤沢と出会わなかったら、本田は浜松の中小企業のオヤジで終わっていたのではないかともいわれている。それほどに、藤沢は稀代の経営の天才ともいわれる手腕を発揮、本田の生涯の分身ともいえる存在だった。こうして二人は本田技研(ホンダ)を世界的な大企業に育て上げたのだ。1973年、本田は本田技研工業社長を退任、藤沢とともに取締役最高顧問に就任した。1989年、日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした。 

(参考資料)城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 本田宗一郎」、清水一行「器に非ず」

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

 2010年、トヨタ自動車は販売台数で、長期にわたり繁栄を謳歌してきた巨大なアメリカの象徴、ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一となった。豊田喜一郎は20世紀の、いや21世紀に入ってもさらに飛躍を続ける、日本を代表する企業、トヨタ自動車の創業者だ。欧米に50年遅れて出発した日本の「純国産」自動車産業。技術も産業基盤もおぼつかない当時の状況を認識しながら、豊田喜一郎は戦前戦後の激動期、日本の自動車産業の礎を築いていった。米国フォード、GMの日本進出を横目で見ながら、喜一郎に迷いはなかったのか。今日の世界企業「TOYOTA」の姿が果たして想像できたのか。豊田喜一郎の生没年は1894(明治27)~1952年(昭和27年)。

 1933年(昭和8年)喜一郎は豊田自動織機製作所に自動車部を設立した。1923年(大正12年)の関東大震災以降、急成長した日本の自動車市場に米国のフォード、GMが相次いで進出してきていたころのことだ。そんな中、大財閥も二の足を踏んだ純国産乗用車生産の難事業。技術の蓄積が段違いのこれら米国の巨人に、彼は純国産車で挑むことを表明したのだ。そして、長期にわたる欧米視察で、自動車産業の隆盛をつぶさに見て回った。その結果、自動織機ではどこにも負けないという自負に加え、自動車産業を興すには製鉄、ガラス、ゴムなどの産業基盤の充実が不可欠という技術者の冷静な判断もあった。

 喜一郎は自動織機の開発にあたっても最終的に仕上げた。そして英国のプラット社にG型自動織機のライセンスを与え、見返りに10万ポンドを得ている。それを元手に自動車エンジンの試作に必要な鋳造や鍛造という金属加工の基礎の基礎から、経験と知識を積み上げていった。だが、自動車事業の産業基盤を整備・充実するには莫大な資金が必要だ。恐らく当時、豊田グループを切り盛りしていた豊田自動織機社長で義兄の豊田利三郎の了解のもと、準備段階から相当な資金が出ていたのだろう。だからこそ、高価なプレス機械、最新の鋳造装置などに惜しげもなく資金を投じることができた。また、二高、東大を通じての人脈が自動車事業を支えた。自動車はその国の科学技術の総合力が試される産業なのだ。

 喜一郎の持論は「技術はカネでは買えない」だ。個別の技術で優れたモノは海外から導入してもいいが、大きな技術の体系、産業のシステムは、自前で組み上げないと、決して定着しないという哲学だ。技術者・研究者を育て、関連の産業の振興も視野に入れてこそ、日本に自動車産業が根付くと考えていたのだ。1938年(昭和13年)、愛知県西加茂郡挙母(ころも)町(現在の豊田市)に、自動車専用工場が完成した。喜一郎はこのころから、必要なモノが必要な時に供給されるしくみについて「ジャスト・インタイム」という言い回しを盛んに使うようになったとされる。世界に冠たるトヨタの看板方式の哲学的な原初だ。

 独学で発明の才を磨いた父・豊田佐吉と異なり、喜一郎は旧制二高(現在の東北大)から東京帝国大の機械工学科を卒業した、当時日本屈指の機械技術者だった。豊田式自動織機発明者として教科書にも登場する喜一郎の父佐吉は一人一業を説いて、喜一郎に自動車づくりの道を歩ませた。そして喜一郎は、長男の章一郎(トヨタ自動車社長・会長)に、住宅産業への進出を勧めたといわれる。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 豊田喜一郎」、城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄だった

 『金色夜叉』で広く知られる尾崎紅葉は明治時代半ば、若くして文豪と仰がれた。その彼に作家とは別の顔がある。文学作品ほどには知られていないが、俳人としての顔だ。実は、彼は俳人としても一家を成す作者だった。ただ、井原西鶴崇拝の彼は、初期俳諧談林調の影響が尾を引き、同世代の正岡子規の革新性には欠けていた。しかし彼には、清新な作風の句も少なからずあり、明治俳壇の一方の雄だった。紅葉の生没年は1868(慶応3)~1903年(明治36年)。

 尾崎紅葉は江戸・芝中門前町(現在の東京都港区浜松町)で生まれた。本名は徳太郎。号は「縁山(えんざん)」「半可通人(はんかつうじん)」「十千万堂(とちまんどう)」などがある。帝国大学国文科卒中退。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。

 徳太郎は1872年(明治5年)、4歳で母と死別し、母方の祖父母、荒木舜庵・せんのもとで育てられた。寺子屋・梅泉堂(現在の港区立御成門小学校)を経て府中学校(現在の日比谷高校)に進学。一期生で同級に幸田露伴、ほかに沢柳政太郎、狩野亨吉らがいた。だが、事情はよく分からないが、彼は中退した。その後、徳太郎は岡千仭の綏猷(かんゆう)堂で漢学、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。そして1883年(明治16年)東大予備門に入学。1885年(明治18年)、紅葉は山田美妙らと硯友社を設立し、「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、これが出世作となった。1890年(明治23年)、彼は学制改革により呼称が変わった帝国大学国文科を中退した。

 ただ、彼はこの前年末に大学在学中ながら読売新聞社に入社していた。これにより以後、紅葉の作品の重要な発表の舞台は読売新聞となった。『伽羅枕』(1890年)、『多情多恨』(1896年)などが同紙に掲載され、読者の間で高い人気を得た。その結果、幸田露伴と並称され、明治時代の文壇で重きを成した。このため、この時期は「紅露時代」とよばれた。紅葉は1897年(明治30年)から読売新聞に『金色夜叉』を連載開始し人気を博したが、病没で未完のままに終わった。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。

 冒頭にも述べた通り、紅葉には小説家ほどには知られていないが、俳人としての顔もあった。彼は、門下の小説家たちに句作りを指導し、句会を催す時には実に真剣に精進したという。俳句を作るときの観察力の訓練や、凝縮した表現法が、小説を作るうえでも大いに役立つと考えたかららしい。1895年(明治28年)、「秋声会」という俳句の会を結成し、指導したほど、俳句に熱心だった。秋声会のメンバーには泉鏡花(きょうか)、広津柳浪(りゅうろう)、川上眉山(びざん)その他小説の門弟たちがいた。

 最後に紅葉の句を紹介しておく。

 「春寒(しゅんかん)や日闌(た)けて美女の嗽(くちすす)ぐ」

 これは、彼の句の特徴の一つとされる艶麗な情緒の句だ。恐らく遊里の情景を歌ったものだろう。春は浅く、風はまだ肌寒い。早起きを怠った美女が、日もたけて起き出して嗽いでいる。

 もう一句、春の作品を紹介する。

 「鶯(うぐいす)の脛(すね)の寒さよ竹の中」

 庭先の竹の林にきている鶯。枝から枝へ飛び移る姿はいかにも春のものだが、その足がなんともきゃしゃで、寒そうだ-というものだ。普段なら気にもとめない鳥の「脛の寒さ」にふと気付いた風情の句で、春とはいえ、寒さが身にしみる日の一情景とみられる。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

塙 保己一:数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を 盲目の国学者

塙 保己一 数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を編纂した盲目の国学者

 塙保己一(はなわほきいち)は、盲目ながら実に40年もの刻苦(こっく)研鑽の末、古典籍の集大成『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した江戸時代後期の国学者だ。彼は、盲目のために人が音読したものを暗記して学問を進めたのだが、実に数万冊の古文献を頭に記憶した驚異の人物だった。その学識の高さは幕府にも知られ、総検校(そうけんぎょう)となり、「和学講談所」に用いられた。

 塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家の長男として生まれた。父・荻野宇兵衛、母・きよ。幼名は寅之助、失明後に辰之助と改めた。また一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗った。雨富検校に入門してからは千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名した。塙は師の雨富須賀一検校の本姓を用いたもの。弟・卯右衛門。塙保己一の生没年は1746(延享3)~1821年(文政4年)。子に幕末の国学者、塙次郎がいる。次郎は保己一の四男で、本名は忠宝(ただとみ)。次郎は通称。『続群書類従』『武家名目抄』『史料』などの編纂に携わった。次郎は1863年(文久2年)、伊藤博文、山尾庸三の2人に暗殺された。

 塙保己一こと荻野寅之助は、7歳のとき肝の病がもとで失明した。あるとき修験者に生まれ年と名前を変えることを勧められ、年を2つ引き、名を辰之助と変えた。だが、視力が戻ることはなかった。荻野辰之助は1760年(宝暦10年)、15歳のとき江戸へ出て盲人として修行。17歳で盲人の職業団体、当道座の雨富須賀一検校に入門し、名を千弥と改め、按摩、鍼、音曲などの修行を始めた。しかし、生来不器用で、いずれも上達しなかった。また、座頭金の取り立てがどうしてもできず、自殺しようとした。その直前で助けられた千弥は検校に学問への思いを告げたところ、3年間経っても見込みが立たなければ国許へ帰すという条件付きで認められた。

 保己一の学才に気付いた雨富検校は、彼に様々な学問を学ばせた。国学・和歌を荻原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮にそれぞれまなんだ。書物を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。1769年(明和6年)には晩年の賀茂真淵に入門、わずか半年だったが『六国史』を学んだ。1775年(安永4年)、衆分からこう当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。

 塙保己一は1779年(安永8年)、彼にとっては生涯をかけたライフワークとなる『群書類従』の出版を決意した。1783年(天明3年)、保己一は遂に検校となった。1784年(天明4年)、和歌を日野資枝(すけき)に学んだ。1785年(天明5年)には水戸・彰考館に招かれて『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。そこで保己一は1793年(寛政5年)、幕府に土地拝借を願い出て、「和学講談所」を開設、会読を始めた。ここを拠点として記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』だ。また歴史史料の編纂にも力を入れていて、『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折あったものの、東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。

 1819年(文政2年)、保己一のライフワークとなっていた『群書類従』が完成した。保己一は74歳になっていた。出版を決意し、その作業に着手したのが1779年(安永8年)、34歳だったから、実に40年の歳月が経過していた。この時点で併行して進められていた『続 群書類従』は、自らの手で完成させられなかったが、彼がこの事業を推進したからこそ、わが国の貴重な古書籍が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。

 保己一はまた、既述の通り様々な師に学んだ和歌でも優れた資質を発揮した。

 「鴨のゐる みぎはのあしは 霜枯(しもが)れて 己(おの)が羽音ぞ 独り寒けき」

  保己一の和歌は新古今調で、華麗鮮明な影像に富み、とても盲目の人の作品とは思えない。

 盲人学者・塙保己一の名は海外にも知られているようで、「奇跡の人」ヘレン・ケラーは幼少時から「塙保己一を手本にしなさい」と両親から教育されたという。1937年(昭和12年)に来日した際も、彼女は保己一の記念館(生家)を訪れている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

 湯川秀樹は周知の通り戦後、1949年(昭和24年)中間子理論で、日本人で初めてノーベル賞を受賞、日本人を勇気付けた理論物理学者だ。

 湯川秀樹は東京府東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で生まれたが、幼少時、父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都府京都市へ移住。1919年、京都府立京都第一中学校(現在の洛北高校)に入学。中学時代の湯川はあまり目立たない存在で、渾名は「権兵衛」。物心ついてからほとんど口を利かず、湯川は面倒なことはすべて「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていた。第一中学の同期には学者の子供が多く、同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で1年上、三高、京大では同期だった。1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。1932年、湯川玄洋の次女、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となった。

 1934年、湯川は中間子理論構想を発表した。まだ27歳のときのことだ。そして1935年「素粒子の相互作用について」を発表。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を理論的に予言した。この理論は1947年、イギリスの物理学者によって中間子が発見され、湯川理論の正しさが証明されることになった。すでに日中戦争中だっただけに、日本人学者は海外からはなかなか評価されなかったが、湯川はソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。1949年、中間子理論により湯川はノーベル物理学賞を受賞。敗戦、GHQの占領下にあって自身を失っていた日本国民に大きな影響を与えた。

 湯川の功績は、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞したことだけではない。①アインシュタインらと平和運動に積極的に取り組んだこと②京都大学に「基礎物理学研究所」を設立、世界の研究者や、大学の枠を超えて若き研究者が集まり、思う存分意見を闘わせることができる国内・外研究者の“交流の場”をつくったこと③世界の物理学界に大きな刺激を与え続ける物理学の英文の論文雑誌「プログレス」を創刊したこと-などをその主要な功績に挙げることができる。

 湯川は、アインシュタインらが世界の著名科学者に呼びかけ、世界各国の指導者に核兵器廃棄を勧告した平和宣言「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ねている。基礎物理学研究所は、湯川がノーベル物理学賞受賞を記念して設置された国内外の研究者の“交流の要(かなめ)”となった。1953年に第1回国際理論物理会議が開かれた。初回の会議参加者の中に、後にノーベル賞受賞者となる物理学者の名がある。同研究所は現在、理論物理、基礎物理、天体核物理まで広範囲に網羅、既成概念に捉われない広い視野で運営することを目指した湯川の精神が反映されている。

 「プログレス」は月刊。昭和21年の創刊時、湯川が資金の工面など発行に奔走。現在、800部が世界44カ国の研究機関に送付されている。プログレス創刊号に朝永振一郎の論文が掲載され、これが1965年(昭和40年)、朝永が日本人2人目のノーベル物理学賞の受賞対象論文となった。また、08年、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英、小林誠の対象論文もプログレスで発表されている。

(参考資料)梅原 猛・桑原武夫・末川 博「現代の対話」、梅棹忠夫「人間にとって科学とは何か」、上田正昭「日本文化の創造 日本人とは何か」、湯川秀樹編「学問の世界 対談集」、「人間の発見 湯川秀樹対談集」、梅原 猛「百人一語」

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

 東郷平八郎は周知の通り、日露戦争・日本海海戦で連合艦隊司令長官として、当時世界で屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を、一方的に破って世界の注目を集め、「アドミラルトーゴー」として、その名を広く知られることになった。当時、日本の同盟国だったイギリスのジャーナリストらは、東郷を自国の国民的英雄・ネルソン提督になぞらえ、「東洋のネルソン」と称えた。

 東郷は、わが国の近代史を形づくるうえで、大きな影響を及ぼした人物だ。しかし軍人であり、その最大の活躍場面が海戦だったため、戦後の特異な風潮のもとに、歴史の表面から覆い隠され、教科書からも抹消された。彼自身が古武士的な、地道で控えめな性格であり、生涯の大部分を懸けて身を置いた海軍が、政治的には表舞台へは出にくい社会だった。そのため、87年という長い一生にもかかわらず、日清・日露の戦争中を除いては劇的要素に乏しく、いわば平々凡々に終始した。裏返せば、彼は日清・日露の戦争で鮮やかに輝くためだけに、遣わされた人物だったのかも知れない。

 東郷平八郎は薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下鍛冶屋町方限、現在の鹿児島県立鹿児島中央高校付近)に薩摩藩士・東郷吉左衛門実友と、堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれた。幼名は仲五郎(なかごろう)。平八郎の生没年は1847(弘化4)~1934年(昭和9年)。

 鹿児島の加治屋町は、山口・萩と並んで多くの明治維新の元勲を輩出した町として有名だ。いまも西郷隆盛・従道兄弟はじめ、大久保利通、大山巖、山本権兵衛らとともに、この東郷平八郎の生誕の地の碑を見ることができる。平八郎は8歳のころから、道ひとつ隔てた大山家(大山巖)の前を通って、大山家のすぐ近くにある西郷家に習字を習いに行くのが日課だった。吉之介(隆盛)は流罪に処され家にはいなかったが、その弟の吉次郎が、平八郎を可愛がり、書道を教えるかたわら、四書五経の素読もさせた。平八郎は、剣術は薬丸半左衛門に弟子入りして示現流の稽古一本に打ち込んだが、武士としての教養は川久保清一の塾で漢学を修めた。また、彼はむっつりしていて言葉数は多くはないが、なにかひらめくものがあると、ぱっと意外なことをいう才気煥発の面も持ち合わせていた。14歳のとき元服して平八郎実良と名乗った。1867年(慶応3年)、分家して一家を興した。

 平八郎は西郷吉次郎の口から、兄の吉之介、そして神戸海軍操練所塾頭上がりの坂本龍馬らの考え方、そして彼らの動きを含め、激しく変わりつつある幕末の社会情勢を聞かされた。彼は龍馬や中岡慎太郎のように天下国家のために動き回る人たちをうらやましく思った。そして早く薩摩を離れ、国事のために身を捧げたいと思った。平八郎は薩摩藩士として薩英戦争(1863年)に従軍し、戊辰戦争(1868~69年)では新潟、函館に転戦して戦った。薩英戦争に敗れ大損害を受けた薩摩藩は、直ちに海軍の整備に着手。翌年の元治元年に、今までの蒸気方を改めて開成所を開き、海軍砲術、海軍操練、海軍兵法、航海術を学科の中に加えた。薩摩藩は慶応2年、開成所を陸軍方と海軍方に分ける通達書を発布した。平八郎は家老の小松帯刀が海軍掛を務める海軍方に進んだ。

 平八郎は明治維新後の新海軍で1871年(明治4年)~1878年(明治11年)までイギリスに留学。その後、海軍少佐(1879年)となり、「浪速」艦長として日清戦争に出役、中将(1898年)となった。そして1903年、連合艦隊司令長官になり、参謀に秋山真之を得て、日露戦争において当時、世界屈指といわれたロシアのバルチック艦隊を撃滅、日本を圧倒的勝利に導いたことは周知の通りだ。官位および位階は従一位、元帥・海軍大将。

 ところで、東郷が連合艦隊司令長官に決定するにあたって、こんな逸話がある。連合艦隊という名前は、日露戦争開始とともにつけられた名前で、平時は常備艦隊と言っていた。常備艦隊の司令長官が、戦時は連合艦隊の司令長官になる。当時の常備艦隊の司令長官は、日高壮之丞だった。当時の海軍大臣・山本権兵衛(ごんのひょうえ)が何もしなければ、そのまま日高が連合艦隊司令長官になるはずだったし、日高自身もそう思っていた。

 ところが、山本権兵衛は親友であり、勇将としても名声があった日高の首を切り、当時、舞鶴にいた東郷を持ってきた。東郷は当時、それほど有能な人物とは思われていなかった。それだけに、意外な人事だった。日高は怒った。そして、海軍大臣の部屋に飛び込んできた。そこで、山本は日高に説明した。「お前は非常に賢い人間だが、非常に癖があり、人間に対する好みも激しい。そして戦術にも偏ったことを好む傾向がある。そういう人間は総大将にはなれないんだ」と。

 その点、「東郷にはそういうところがない。それに東郷はおとなしい男で、上の、大本営の命令を聞く男だ。お前を連合艦隊の司令長官にしたら、大本営とけんかになって、お前は聞かないだろう。そうすると、戦争ができなくなる」。日高は返す言葉がなく、黙って退出していったという。山本権兵衛の沈着冷静な見識眼が東郷起用につながり、「アドミラルトーゴー」を生んだのだ。

(参考資料)真木洋三「東郷平八郎」、吉村昭「海の史劇」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「薩摩人の日露戦争」、三好徹「日本宰相伝② 運命の児」、邦光史郎「物語 海の日本史」

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

 定朝(じょうちょう)は、平安時代後期に活躍した京仏師のトップに君臨した巨人で、分業による寄木(よせぎ)造りを推進、仏像の制作技術に革命を起こした人物だ。こうした功績と、藤原摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)・藤原道長の庇護を受けたこともあって、仏師として初めて、僧侶の位だった法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という僧綱位(そうごうい)を受け、仏師が造仏を通じて仏教興隆に貢献したという評価を受けた。このほか、定朝はそれまで寺院に所属し造仏を行ってきた立場から、独立した仏所を設けて弟子たちを擁し、限られた時間でも多くの造仏を行うというシステムをつくり上げた。

 定朝は仏師僧・康尚(こうしょう)の子。生年不明、没年は1057年(天喜5年)。文献上は多くの事績が伝えられ、各地には定朝作と伝えられる仏像が残っている。が、現存する確実な遺作は平等院鳳凰堂本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)のみといわれている。ただ、「定朝洋式」が日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻に決定的な影響を及ぼしたことは間違いない。平安時代後期、京仏師は貴族の庇護の下で仏像制作に携わり、仏像修理が主な仕事だった奈良仏師および、後に生まれるその奈良仏師の巨人、運慶の境遇と比較すると、仏像制作の仕事には恵まれていた。

 定朝の特筆すべき功績の一つとして、まず挙げておかなければいけないのが、仏像の寄木造りの技法だ。10世紀までの仏像彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造りから、定朝はそれまでなかった、数本の木を組み合わせて造る寄木造りの手法を生み出したのだ。この方法だと、分業で複数の仏師が同時に分担したパートの制作にかかれるわけで、大型サイズの仏像を含め、制作期間を大幅に短縮することが可能となった。定朝の主宰する工房は極めて大規模だった。それを裏付けるのが次の例だ。史料によると、1026年(万寿3年)8月から10月にかけて行われた、後一条天皇の皇后(中宮)威子(いし、天皇の外祖父・藤原道長の三女)の御安産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している。

 1052年(永承7年)、関白・藤原頼通が父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿(うじでん)」を寺に改め、開創したのが平等院だ。平等院鳳凰堂の本尊、定朝の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像について少し記しておこう。穏やかな顔に、たっぷりした頬の膨らみ、瞑想する半眼の目、豊かな胸元、そして結跏趺坐(かっかふざ)して上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結ぶ。背後には金色の光背、頭上にも、まばゆい金色の方・円二重の天蓋が覆い、周りには浄土の空に楽(がく)を奏でて飛翔する菩薩が舞う。

 皇円が著した史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」によると、阿弥陀如来坐像が鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置されたのは1053年(天喜1年)2月19日。阿弥陀如来坐像は午前2時、京の仏所(工房)を出発、正午近くに宇治に到着。遷座式は天台宗寺門派園城寺(三井寺)の長吏明尊(ちょうりみょうそん)を導師に営まれた。周りを多くの僧たちが念仏を唱えながら行道(ぎょうどう)。散華(さんげ)のなかに楽人が舞い、妙なる雅楽が奏でられた。こうして、極楽浄土がここに舞い降りたのだ。

 阿弥陀如来坐像の安置される阿弥陀堂が鳳凰堂の名で呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期といわれる。建物が鳳凰の姿を思わせ、また中堂の屋根に一対の鳳凰が飾られることに由来するという。この一対の鳳凰、北像と南像で大きさは異なるが、2像とも総高は1m足らず。これも定朝の意匠といわれる。

(参考資料)「日本史探訪/藤原氏と王朝の夢」、「古寺を巡る⑬ 平等院」

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

 サントリーの創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)はブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。鳥井信治郎の生没年は1879(明治12)~1962年(昭和37年)。

 鳥井信治郎は大阪市東区(現在の大阪市中央区)釣鐘(つりがね)町で両替商、父・忠兵衛、母・こまの二男として生まれた。忠兵衛40歳、母・こま29歳のときの子だ。10歳年長の兄・喜蔵(長男)、6歳上の姉・ゑん(長女)、3歳上のせつ(二女)の兄姉があり、彼はその末っ子だった。父は早く歿しており、彼は80歳まで生き周囲の人に豊かな愛情を注いだ母親に育てられた。

 信治郎は1887年(明治20年)、大阪市東区(現在の大阪市中央区)島町の北大江小学校へ入学。小学校を卒業した彼は、北区梅田出入橋の大阪商業学校へ入り、そこに1~2年在学した後、1892年(明治25年)、数え年14歳で親の家を出て、道修(どしょう)町の薬種問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出た。薬種問屋は旧幕時代までは、草根木皮の漢方薬だけ商っていたが、明治になると洋薬を多く輸入し、ブドウ酒、ブランデー、ウイスキーなどの洋酒も扱っていた。

 信治郎はこの店に数年いるうちに、時代の先端をいく新感覚を身につけるとともに、洋酒の知識を深めることができた。後年、彼が日本におけるウイスキー醸造業の開拓者となる素地は、この店でつくられたのだ。小西儀助商店で3~4年働いた後、彼は博労(ばくろう)町の絵具、染料問屋の小西勘之助商店へ移った。この店でも3年、合わせて7年ほどの徒弟時代を終えて、西区靭中通2丁目で1899年(明治32年)、鳥井商店を開業し、ブドウ酒の製造販売を始めた。数え年21歳のときのことだ。この年、父・忠兵衛が亡くなった。

 信治郎は、1906年(明治39年)には鳥井商店を寿屋洋酒店に店名を変更した。翌年には「赤玉ポートワイン」を発売した。1923年(大正12年)にはわが国初の美人ヌードポスターを発表、大きな反響を呼んだ。翌年には大阪府・島本町に山崎にウイスキー工場をつくった。木津川、桂川、宇治川の三つが合流し、霧が発生しやすい点が、スコッチウイスキーのふるさとに似ていた。竹林の下から良質の水も湧き出ていた。1926年(大正15年)には喫煙家用歯磨き「スモカ」を発売した。

 寿屋が初めてビール事業に進出したのは1928年(昭和3年)のことだ。横浜市鶴見区で売りに出ていたビール工場を101万円で買収。新市場に打って出たのだ。当時のビール業界は4社の寡占。価格も大瓶1本33銭と決まっていた。寿屋はそこに1本29銭でなぐり込みをかけ、さらに25銭まで値下げした。こんな大阪商人の思い切った安値攻勢に手を焼いた麒麟麦酒は、寿屋が他社の空き瓶にビールを詰め、自社の「オラガビール」のラベルを貼って出荷している点に着目し、商標侵害だと提訴した。麒麟は「ビール瓶を井戸水で冷やす際にラベルがはがれ、元の商標が表に出る」と主張。寿屋は敗北した。

 寿屋のビール工場は1カ所だけ。自社瓶しか使えないと、空き瓶の回収に膨大な手間とコストがかかる。負けず嫌いの信治郎は、ガラス研削用のグラインダーを20台導入した。他者の空き瓶から商標部分を削り取るためで、彼の執念の強さを感じることができる。そこまで手をかけたビール工場も1934年(昭和9年)、売却せざるを得なくなった。2年前には好調だった喫煙家用歯磨き事業を売却していたが、同時並行で進めていたウイスキー事業が難航し、資金繰りが逼迫してきたからだ。普通の経営者なら、追い詰められたとき、現金収入のあるビール事業や歯磨き事業を残し、メドが立たないウイスキー事業を整理していたはずだ。だが、そうしなかった信治郎のこだわりが、サントリーの歴史を運命付けたのだ。

 話は前後するが、信治郎がウイスキー事業への進出を決めた1920年代前半、信治郎は全役員の反対に遭った。そのころ英国以外でウイスキーをつくる計画は、荒唐無稽と思われていた。仕込みから商品化まで何年もかかるうえ、きちんとした製品になる保証はないからだ。「赤玉ポートワイン」の販売で得た利益をつぎ込みたいという信治郎に対し、将来ものになるかどうか分からない仕事に全資本をかけることはできない-と反対の合唱だった。ところが、信治郎は反対の声を聞けば聞くほど、事業家意欲を燃やし、「誰もできない事業だから、やる価値がある」と意思を貫き通したのだ。これがサントリーに流れ続けるベンチャー精神の源泉となった。

 創業者・信治郎は“やってみなはれ”を信条としていた。そして、その後継者・佐治敬三は“やらせてみなはれ”を信条とした。「やらせてみなければ人は育たない」。それはいわば、男の向こう傷は仕方がないということで、積極的に飛び出せば何かトラブルが起こる。しかし、何もしないで自滅するよりはいいじゃないかということでもあった。彼はさらに、経営の知恵はつまずき、考え、学び、迷うことの繰り返しの中から生まれてくる。明日の道は、今日の失敗と挑戦が創り出すものだと説いている。信治郎に始まるサントリーの社業の歴史には、こうしたチャレンジ精神が色濃く息づいている。

(参考資料)杉森久英「美酒一代 鳥井信治郎伝」、邦光史郎「やってみなはれ 芳醇な樽」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 鳥井信治郎」

 

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

 「薬子の変」を経て、朝廷が安定を回復した、嵯峨天皇・上皇の御世、嵯峨が大御所として文字通り王権を統べていた時代、弘仁、天長、承和にわたる30年間は政局も安定し、平安文化が花開いた時期だ。空海(弘法大師)、小野篁(たかむら)ら多くの人材が輩出し、律令制を整備するため『弘仁格(きゃく)』『弘仁式』が編纂され、勅撰の漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が編まれ、唐風文化が隆盛となった。能筆家の嵯峨天皇が、空海、橘逸勢(はやなり)とともに「三筆」と称されたことは周知の通りだ。嵯峨天皇の生没年は786(延暦5)~842年(承和9年)。

 嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子。諱を神野(賀美能、かみの)といい、母は父・桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)。806年(大同元年)5月、兄・平城(へいぜい)天皇の皇太子となり、809年(大同4年)病気の兄から譲位され、即位した。皇后には橘嘉智子(かちこ)を立て、交野(たかの)女王と大原全子(おおはらのまたこ)を妃に迎えた。橘嘉智子との間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)、正子(せいし)内親王(淳和天皇の皇后)をもうけ、交野女王との間には有智子(うちこ)内親王、大原全子との間には源融(とおる)が生まれた。

 病気のために譲位したはずの平城上皇が、譲位後にわかに健康を取り戻したか、側近の藤原薬子や兄・仲成らとともに、政権奪回を目指して容喙(ようかい)するようになった。そこで嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣を蔵人頭に任じてこれに対抗した。810年(弘仁元年)、平城上皇方が平城遷都の命を出したことから、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂らを派遣して上皇方を制圧した。これにより、上皇は出家、薬子は自害、仲成は射殺され、皇太子・高岳親王も廃されたため、嵯峨天皇の朝廷は安定を回復した。

 嵯峨天皇は、性格的に兄の平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物だった。彼は決して親政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねるという方針をとっていた。そして、父・桓武とは大いに異なり、14年間の執政に飽き飽きして、何とか王座を離れようとしていた。823年(弘仁14年)4月、嵯峨は冷然院(れいぜんいん)という離宮に移り、右大臣・藤原冬嗣に退位を伝えた。冬嗣は即座に反対した。しかし、嵯峨は皇太弟に皇位を譲った。即位したのが淳和天皇だ。

 嵯峨上皇が冷然院で自適の生活を始めたのは38歳のときだ。嵯峨はこれから19年間、文字通り大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の前半を見守ることになる。嵯峨上皇の大家父長制のもとに、王権の継承はすこぶる平穏に行われた。嵯峨も父・桓武に劣らず女色を好み、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけた。そして、身分の高くない母の子女には源(みなもと)姓を与えて臣籍にうつした。仁明朝に至って、彼らの多くは政界に進出し、中でも源常(ときわ)は、左大臣・藤原緒嗣(おつぐ)の没した年の翌844年(承和11年)にその地位を襲い、その兄・信(まこと)は中納言だった。他に参議に列していた者もいた。嵯峨源氏は、藤原氏の諸流に対抗する一大勢力だった。

 嵯峨上皇は、その血族で王権を固めたばかりでなく、藤原氏との連携あるいは結託も疎かにしなかった。とくに彼は冬嗣との関係を深め、娘・源潔姫(きよひめ)を冬嗣の次子・良房に与えている。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだった。こうして冬嗣・良房の藤原北家の流れは、この大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。その結果、仁明朝の848年(嘉祥1年)には、源常(37歳)は左大臣、藤原良房(45歳)は右大臣、そして源信(39歳)は大納言と、嵯峨源氏と藤原北家が朝廷の政権中枢を張り合った時期も出現した。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」、司馬遼太郎「空海の風景」