- 西宮神社で新年恒例「福男選び」一番福は芦屋市の高校生 2018年1月10日 西宮神社で新年恒例「福男選び」一番福は芦屋市の高校生 新年恒例の「福男選び」が1月10日、商売繁盛の神様として知られる兵庫県西宮市の西宮神社で行われた。「えべっさん」と呼ばれて親しまれている西宮神社では、商売繁盛を祈願する「十日えびす」に合わせて毎年、1月10日の朝に福男選びが行われている。 神社の門から境内を走り抜け、本殿までの約230㍍をいち早く到達した順に3人目までを、その年の福男として認める伝統的な神事だ。 約5000人が参加した今年の”一番福”になったのは兵庫県芦屋市の高校生、佐藤玄主さん(18)、二番福は同明石市の高校生、竹内紘生さん(18)、三番福は同川西市の渡部涼さん(25)だった。
- コリアタウン「猪飼野」の歴史伝えるせんべいが人気 2018年1月9日 コリアタウン「猪飼野」の歴史伝えるせんべいが人気 日本有数のコリアタウン、在日韓国人・朝鮮人が数多く住む大阪・生野区と東成区にまたがる「猪飼野(いかいの)」と呼ばれる地域で、地元のボランティアたちが地域の歴史にちなんだデザインのせんべいを発売し、人気を集めている。 せんべいの表面には、およそ1600年前に朝鮮半島から日本に移り住んだ人が、大阪について詠んだとされる「難波津の歌」が刻まれた石碑が描かれていて、この地域が古くから朝鮮半島との交流の拠点になっていたことが分かる。関係者らは「観光で来てくれる人たちに、この街の良さを発信するきっかけになってほしい」と話している。
- 大阪大 入試のミスで異例の1年遅れの追加合格発表 2018年1月8日 大阪大 入試のミスで異例の1年遅れの追加合格発表 大阪大学が昨春入学者向けの入試で、本来合格していた受験生30人を不合格としていたことを公表、1月6日、小林傳司副学長ら関係者が会見し陳謝するとともに、30人を1年遅れで追加合格としたことを発表した。 外部から昨年6月、8月、12月の計3回にわたり、出題された物理の問題には複数の正解が想定されるとの指摘があったが、本格的な調査が行われたのは12月以降で、結果的に1年遅れの対応となった。阪大によると、出題・採点のミスにより本来合格であるはずの受験生を不合格とした事例は2004年の法人化後では例がないという。
- 星野仙一氏 すい臓がんで死去 享年70 2018年1月7日 星野仙一氏 すい臓がんで死去 享年70 プロ野球の中日、阪神、楽天で監督を務めた星野仙一氏が1月4日、亡くなった。享年70。すい臓がんだった。星野氏は平成14年に低迷が続いていた阪神の再建を託され、就任2年目の平成15年に18年ぶりのリーグ優勝に導いた。
- 関経連 パリ常駐で万博誘致活動展開へ 2018年1月7日 関経連 パリ常駐で万博誘致活動展開へ 関西経済連合会(関経連)の松本会長は、2025年の万博の大阪への誘致に向けて、「英語もフランス語もよくできて、人的なネットワークがある人を選んでパリに常駐させ、開催地が決まる11月まで10カ月間、関経連として最大の努力をしていく」と誘致活動を積極的に推進していく考えを改めて示した。 そのうえで、これとは別に大手商社から関経連に人材を出してもらい、東京を拠点にアフリカや南米などに出張して各国への投票の働きかけを行う考えを示した。
- 自民党 万博の大阪誘致へ全国各地で活動 2018年1月6日 自民党 万博の大阪誘致へ全国各地で活動 自民党は2025年の万博の大阪誘致に向けて1月5日、推進本部の会合を開き、誘致の実現には大阪だけでなく、日本全体で機運を高める必要があるとして、全国11ブロックの地域ごとに担当の議員を決め、各地で活動に取り組むことを確認した。 自民党の大阪万博誘致推進本部の本部長を務める二階幹事長は「政府や地元自治体、経済界と連携したオールジャパンの体制で誘致活動を展開し、大阪への誘致を必ず成功させる」と述べた。
- 井山・羽生両氏に国民栄誉賞決定 2018年1月6日 井山・羽生両氏に国民栄誉賞決定 政府は、囲碁で2度の七冠独占を達成した東大阪市出身の井山裕太氏と、将棋で前人未到の「永世七冠」を達成した羽生善治氏に国民栄誉賞を授与することを決定した。2月13日に両氏への授与式が行われる。 国民栄誉賞の個人としての受賞は24人目と25人目。囲碁と将棋の棋士としては初。
- 新年互礼会 各界から万博誘致活動を加速の声 2018年1月5日 新年互礼会 各界から万博誘致活動を加速の声 仕事始めの1月4日、関西の各界の代表らが一堂に会する「新年互礼会」が大阪市で開かれた。今年は大阪府の松井知事、大阪市の吉村市長、大阪商工会議所の尾崎会頭、関西経済連合会(関経連)の松本会長、関西の大手有力企業経営者ら、そして特別ゲストとして上方落語協会の桂文枝さんら、関西の各界からおよそ2300人が参加した。 11月にフランス・パリのBIE(博覧会国際事務局)総会で開催地が決まる、2025年の万博誘致活動を加速させるという意気込みが各所で聞かれ、関係者らの間での盛り上がりをうかがわせた。 最後に、今年の関西の活性化を願って、尾崎会頭の音頭で「大阪締め」を行った。
- 大阪取引所で新年恒例の大発会「今年も好調な相場続く」 2018年1月5日 大阪取引所で新年恒例の大発会「今年も好調な相場続く」 大阪市中央区北浜の大阪取引所で1月4日午前8時半から、新年恒例の大発会が行われた。証券業界の関係者はじめ晴れ着姿の女性などおよそ250人が集まり、拍子木を手に持ち、独特の節回しが特徴の「大株締め」を行い、金融商品「デリバティブ」の1年の活発な取引を願った。 山道裕己社長は「北朝鮮問題などリスクはあるものの、世界的にも好調な相場が今年も続くと予測している」などと話した。
- 関西経済GDP20%に 4分野の産業強化 松本関経連会長 2018年1月3日 関西経済GDP20%に 4分野の産業強化 松本関経連会長 関西経済連合会(関経連)の松本会長は、今後目指すべき関西経済のあり方について、GDP(国内総生産)に占める関西経済の割合をかつての水準の20%に復活させることを目標にすべきだとの考えを示した。 このために松本氏は、①健康・医療②環境・エネルギー③航空機④AIやIoTを活用したロボット-の4つの産業を関西に根付かせて強化していく考えを明らかにした。 関西経済は1970年ごろは20%経済といわれていたが、その後相対的に低下し、いまは16%程度と4ポイントも低下しているという。
- サッカー天皇杯 セレッソ大阪が優勝 2冠達成の快挙 2018年1月2日 サッカー天皇杯 セレッソ大阪が優勝 2冠達成の快挙 サッカーの日本一を決める天皇杯の決勝が1月1日、埼玉スタジアムで行われ、セレッソ大阪が横浜Fマリノスに延長戦の末、2対1で逆転勝ちした。セレッソの優勝は、前身のヤンマー時代以来となる、43年ぶり4回目。 セレッソはJリーグカップに続く2冠達成の快挙で、2017年のシーズンを締めくくった。
- 堺市が大和川で洪水シミュレーション 2018年1月1日 堺市が大和川で洪水シミュレーション 大阪府堺市が大和川で国が措定する最大規模の洪水が起きた場合の住民の避難について、詳細なシミュレーションを行った。その結果、川沿いを中心に3000人近くが洪水に巻き込まれる恐れがあることが分かった。 地形や川との距離に応じて水に浸かるまでの時間が大きく異なり、中には住民の7割が被害に遭う地域もあったという。 堺市は2018年1月から住民説明会を開き、シミュレーションの結果を踏まえて早めの避難を呼び掛けることにしている。
- 大阪府の平成29年度税収 2年ぶり増収へ 2017年12月31日 大阪府の平成29年度税収 2年ぶり増収へ 大阪府のまとめによると、平成29年度の税収は11月末の時点で、1兆1984億円で前年同期を233億円(2%)上回り、2年ぶりに増収となる見通しだ。 税収別にみると、法人住民税と法人事業税のいわゆる法人二税は、3683億円で前年同期を170億円(5.1%)上回った。これについて府は、企業業績の緩やかな回復傾向の好影響と分析している。また、個人府民税は3252億円で前年同期を46億円(1.4%)上回った。
- パナホーム 18年4月から「パナソニックホームズ」に 2017年12月30日 パナホーム 18年4月から「パナソニックホームズ」に パナソニック(本社:大阪府門真市)の子会社のパナホーム(本社:大阪府豊中市)は、2018年4月から社名を「パナソニックホームズ」に変更し、家電や住宅設備に強い企業グループとしてのブランドイメージを打ち出していくことになった。 とくに、あらゆるモノをインターネットでつなぐ「IoT」の技術を暮らしに取り入れ、エネルギー効率や利便性を向上させる「スマートハウス」を展開していく。 住宅関連事業の強化を目指すパナソニックは、今年10月にパナホームを完全子会社化していた。
- USJ 9年連続の値上げ 18年1月末から大人7900円に 2017年12月29日 USJ 9年連続の値上げ 18年1月末から大人7900円に ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ 大阪市此花区)は12月27日、2018年1月31日からチケット代を値上げすると発表した。今回で値上げは2010年から9年連続となる。 これにより1日券の「スタジオ・パス」は、大人で300円上がり7900円(税込)となる。ちなみに、2001年の開園時は5500円、2010年は6100円だった。小学生以下の子供も300円上がり5400円、65歳以上のシニアは270円上がり7100円となる。 年間パスは大人2万3800円、子供1万6800円で据え置く。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。