少子化時代の現代では出産以前に、結婚相手を見つけることすら自然にではなく、“婚活”に励む人たちがいる。こうしたことを考え合わせれば、古代社会は男女の仲も、恋愛も、現代社会よりもっと奔放で、さばけていたのではないだろうか。そんな事例が少なくないのだ。ただ、それが皇族、とりわけ女帝となると、さらに驚きだ。むろん、それは政略結婚に違いないのだが…。史上初の、譲位(第三十六代孝徳天皇へ)と重祚を行った斉明天皇は、そんな稀有なケースの女性だ。
第三十五代とされる皇極天皇(在位642~645年)が重祚して、第三十七代斉明天皇(在位655~661年)と謚(おくりな)された。諱は宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)。母は吉備姫王(きびのひめのおおきみ)。第三十六代孝徳天皇の同母姉。
彼女は、最初に用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)に嫁ぎ、漢(あや)皇子を産み、その後、田村皇子(後の第三十四代舒明天皇)との間に葛城皇子(後の第三十八代天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(第四十代天武天皇)を産んだ。つまり、再婚して皇后となり、後に天皇となる2人の皇子を産んだわけだ。
斉明天皇は女帝ながら、一般的なイメージとは異なり、各地の土木工事を推進した。また東北の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送るなど、蝦夷征伐も積極的に行ったことは特筆される。水工に溝を掘らせ、水路は香具山の西から石上山にまで及んだ。舟200隻に石を積み、流れにしたがって下り、宮の東側の山にその石を積み上げて垣を築いた。渠(みぞ)の工事に動員された人夫は3万人を超え、垣の工事にも7万余の人夫が使役された。2000年に奈良・飛鳥の地から亀石形の流水施設を含む宮廷施設などが発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。
対外政策では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、斉明天皇、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子らは百済救援のため九州へ赴いた。大宰府から奥へ入った朝倉の地に、「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」という仮宮を建造し、斉明天皇が指揮にあたった。女帝ながら、したたかで男勝りな性格が顔をのぞかせる。だが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退。また、朝倉神社の木を勝手に伐採して宮の造営に充てたことから、雷神が怒り建物は崩壊した。宮殿の中にも鬼火が出現し、多くの人々が病に倒れた。そして遂に天皇自身もこの朝倉宮で崩御した。
「大化の改新」の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。この2年前、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を滅亡に追い込むなど政治の実権を握っていた蘇我入鹿暗殺という古代史上最大のクライマックスともいえる、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。645年(皇極4年)のことだ。大化の改新の幕開きとなるこの事件の、実質上の首謀者は明らかに中臣鎌足(後の藤原鎌足)だ。鎌足31歳、中大兄皇子19歳のときだ。この年齢差から判断すれば鎌足が首謀者だろう。
ところが、剣で斬りつけられた蘇我入鹿が、斬りつけた中大兄皇子ではなく、皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかけているのだ。ここに入鹿の心情が隠されているのではないか。入鹿が女帝に向かって問いただすことが、そもそも女帝が首謀者と感じていたからではないかという。また、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったともいわれる。だからこそ、入鹿にとっては「あなた(=皇極天皇)は、これ(=暗殺の謀略)をすべて知っているのではないですか?」との思いだったに違いない。このあたりは謎だが、これが事実に近いとすると、入鹿暗殺は中大兄皇子と中臣鎌足に引きずり込まれてではなく、皇極天皇の意思が働いていたということになり、何か不気味さが漂ってくる思いがする。
(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」