福田英子は慶応元年(1865)10月5日、岡山藩の右筆、景山確の二女として誕生。本名英。廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だった。実際には楳子の方が中心になっていたともいわれている。英子は、小さいうちからその楳子に学問の手ほどきを受けた。後年、彼女自身が書いた自伝『妾(わらわ)の半生涯』によると、11~12歳のとき、県令・学務委員らの臨席する試験場において、『十八史略』や『日本外史』を講じたという。母の英才教育の影響があったのだろう。
小学校を卒業すると同時に、英子は15歳で助教となった。その後、いくつも持ちかけられた縁談をすべて蹴って、当時としては異例の、女教師として経済的に自立する生き方をしている。
彼女の人生が大きく変わる契機となったのは、女性自由民権活動家、岸田俊子との出会いだ。18歳のときのことだ。岡山で演説会があり、そのとき岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聴き、自ら自由民権運動に飛び込んでいる。この演説会の後、岡山女子親睦会という団体が結成されると、それに参加し、また女教師だった経験を生かし、蒸紅学舎を開いて働く女性に教育しようとした。そしてその頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約しているのだ。
彼女の人生の転機となったもう一つのできごとは、明治18年の「大阪事件」だろう。大阪事件は朝鮮で起こった「甲申事変」に連動している。朝鮮の独立党が清国寄りの事大党を倒して新しい政府を樹立したところ、清国の手によってあっさり覆されてしまったのだ。これをみた日本の自由党の闘士たちは、独立党を助けようと様々な行動を起こし始めた。その中で最も急進的な動きをしたのが、大井憲太郎らのグループだった。英子もそのグループに加わっていた。
彼女の任務は、朝鮮へ爆弾を運ぶことだった。ところが失敗し、長崎で逮捕されてしまい、それから4年間、投獄されている。実は彼女の人生の転機となったのは大阪事件そのものより、その後の4年間の獄中生活だった。彼女はそこで40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱いてしまったのだ。前記のように彼女は小林樟雄と婚約していたのだが…。明治22年(1889)2月、憲法発布の大赦によって、大阪事件の関係者は出獄できることになったが、英子はそのとき婚約者のもとではなく、大井憲太郎のもとに走った。
英子が、大井憲太郎に妻がいることを知っていたかどうかは分からない。妻がいたとしても、自分の愛情のほうが勝つと信じていたのか。彼女は妊娠し、やがて大井憲太郎の子、龍麿を産む。そして、その頃から彼女は大井に対し入籍を迫っている。ところが、そんな英子にとって実に残酷な事件が待ち受けていた。
彼女のもとに一通の手紙が届けられた。宛名は「影山英子」宛てとなっていたが、中身は何と親友の清水紫琴(しきん)宛てだった。大井憲太郎が英子と紫琴の二人に同時に手紙を出したとき、封筒と中身を取り違えたものとされている。紫琴宛の手紙は病院に入院し、大井憲太郎の子を産んだばかりの紫琴に対する見舞いの言葉が述べられたものだった。妻がおり、英子という愛人がありながら、さらに清水紫琴とも関係を持って、子供を産ませている大井憲太郎という男を、このときばかりは英子も許せなかったのだろう。怒り狂った英子は、龍麿を引き取り、大井と手を切ったのだった。
未婚の母、影山英子は福田友作という男と知り合い、結婚する。福田英子になったのだ。まずまず幸せな結婚で次々に3人の子供が生まれた。ところがこの夫には生活力がなく、やがて胸を患い死んでしまう。結局36歳で未亡人となった福田英子はその後、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲し始める。しかし、その石川も「外国へ行く」といって、彼女のもとを去っていってしまった。
こうして彼女は、大井憲太郎の子と、福田友作の3人の子を、女手一つで育てなければならなくなったのだ。こんな状況になれば、普通ならその重圧に打ちひしがれるところだ。事実、彼女も一時は運動から遠ざかる。しかし、やはり自由民権運動の洗礼を受けた“女闘士”だけに立ち直りは早い。堺利彦・美知子夫妻との出会いによって、彼女は新しい思想的潮流としての社会主義に接近していったのだ。
1907年(明治40年)、福田英子が中心となって『世界夫人』という新聞を創刊。これまでの法律、習慣、道徳は、婦人の人格を無視したものであると厳しく批判し、「広く世界の宗教・教育・社会・政治・文学の諸問題を報道し、研究する」とその創刊の目的を宣言している。このほか、彼女は足尾鉱毒事件の田中正造を助け、谷中村の救援活動に全力を投入した。福田英子はまさに、筋金入りの、強靭な精神力を持った闘士だった。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」