清少納言・・・高い教養を身につけた、平安女流文学の至宝「枕草子」の作者

 日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者。生没年は965年頃~1025年頃。村上天皇の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者の一人、歌人・清原基輔の娘。清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。「枕草子」に「史記」「論語」などの引用がみえることでも分かるように、清少納言は娘時代から漢学を学ぶなど、当時の女性として水準をはるかに超える教養を身につけていたようだ。

 10代後半に橘則光と結婚、天元5年(982)に長男・則長という子が生まれているが、まもなくその結婚を解消した。ただ当時は妻問婚で、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されることになる。彼女の場合も恐らくそのようなものだったのではないか。正式離婚というわけではないが、彼女が漢学の素養など教養面で則光より優れていたことからくる性格上の破綻が原因だったとみられる。しかし、決して憎み合って別れたのではないことは「枕草子」に則光と親しく話を交わす場面がいくつも出てくることでも分かる。

 正暦4年(993)、一条天皇の中宮(後の皇后)定子のもとに出仕し、「清少納言」と呼ばれた。少納言といっても正式な官でないことはいうまでもない。定子の明るく、機知を尊ぶ気分は、鋭い芸術感覚と社交感覚を持った清少納言にとって、その天才ぶりを発揮するにふさわしい舞台だった。

 出仕して2年後、定子の父、関白藤原道隆は死に、代わって道隆の弟、道長が最高権力者となり、道隆の子・内大臣伊周(これちか)および中納言隆家は道長と対立し、罪を着せられ流罪になる。やがて伊周、隆家は許されて都に戻るが、道隆一家にはもう昔日の勢いはない。不幸にも藤原道長の全盛時代だったのだ。したがって、宮廷内の様々なことが道長に連なる人脈、あるいは親・道長派の勢力が大手を振ってまかり通る時代で、それ以外の人たちは一歩下がって見守るほかなかったのだ。

 宮仕えは数年続いたが、仕えた定子の実家の没落と、後に乗り込んできた中宮彰子との確執などがあって、長保2年(1000)の定子の25歳の死で終止符を打つ。その後、藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる女の子をもうけている。しかし、この二人目の夫は、その少し後に死んでしまったようだ。結局、彼女は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別と、結婚という点では恵まれなかった。
 清少納言は宮仕えで、藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮定子の苦悶、そしてわずか25歳という若さでの死まで、その一部始終を目の前に見ながら、「枕草子」でそのことには一切触れず、定子を賛美し続けた、そういう彼女の意地とゆかしさも好もしい。

 紫式部より4~7歳ほど年上の清少納言は、紫式部を意識したふしはみられない。この点、中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を意識し、とくに『紫式部日記』の中で辛辣な清少納言批判の文章がみられるのと対照的だ。清少納言の晩年はかなり零落していたとの説があるが、明らかではない。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、永井路子対談集「清少納言」(永井路子vs村井康彦)、梅原猛「百人一語」